あとがき |
福重のあゆみ、仏の里
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福重には、「これほど多くの線刻石仏が集中した所は全国的にも珍しい」といわれるほど数多くの線刻石仏が、大村市弥勒寺町を中心に分布しています。(上野注:詳細は順次掲載中の『仏の里 福重』ページをご覧下さい)
上八龍線刻如来像 1体 【経筒】(きょうづつ) 大村出土の経筒は計5個になりました。5個の内 1個は箕島(みしま現在の長崎空港)での発見ですが、4個は福重での発見です。 福重に多いのが五輪塔です。五輪塔は平安時代後期から作られ、鎌倉時代に全国的に広がった石塔です。下から方形の地輪、球形の水輪、三角形の火輪、半球形の 風輪、宝珠形の空輪を五段に積み重ねた供養塔です。五輪塔は、初めはごく限られた有力者だけのものでしたが、次第に経済的に余裕のある人々にも広がります。 (今の墓はシンプルな立石型ですが、これはキリシタンが禁止された江戸時代以降、伏碑のキリシタン墓碑と区別するために、強制されたものです。) 福重でも五輪塔は数多く建てられ、今もたくさん残っています。福重のあちこちに散在する五輪塔(の一部)の大半は、室町時代〜戦国時代のものです。それが畑の隅や庭先にごろごろ転がっているのです。地輪・水輪は漬物石に使用されているケースも時折見かけます。 先祖の残した貴重な文化遺産が道路工事その他の工事で次々に失われていきます。また、昔は皆で大事に祀っていた神や仏が祀られなくなり、最近では見捨てられているケースもあります。
福重でも、どこの集落にも馬頭さまはありました。馬は農家にはなくてはならない働き手でした。江戸時代末の福重には236頭の馬がいました。(自作農は264戸)。今のトラクターやトラックの役目を馬がしていたのです。 その馬の神様ですから馬頭観音も大切に祀られていたのです。今は福重に馬は1頭もいません。馬頭観音が祀られなくなっている所もあります。今の福重を築くために、祖先と一緒に働いてくれた馬たち、その守り神の馬頭観音、そういうものへの感謝の気持はいつまでも持ち続けたいものです。 <福重の石造物についての補足> このページに写真を掲載できなかった福重の石造物について、今後も他のページ『仏の里ふくしげ』シリーズに徐々に掲載していこうと考えています。2003年から少しづつカメラを下げて、福重内の石造物を撮ってまわっていたところ、私なりに気付くことがありました。 それは、数十年前に撮られた写真や拓本の状況と比べて、石にもかかわらず劣化、剥離、痛みが進んでいるということです。雨水、太陽光線、排気ガスその他の影響だろうと考えています。また、残念ながら道路建設などで、600年以上前につくられた石造物(弥生時代の古墳なども含め)も壊されたりしています。 福重は、そのほぼ全域が古い歴史のある土地柄ですし、先人たちが何百、何千年前につくられた石造物などは、全体共有の財産になりうるものと思います。土地所有者の方々はじめ関係者のご協力もお願いしつつ、せめて石造物なら、他の場所への移動も含めご検討願えればなあと思いました。(掲載日:2005年1月12日) <参考ページ紹介>
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