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あとがき
福重のあゆみ、仏の里
仏頭(弥勒寺町、石堂屋敷)
単体仏(弥勒寺町、石堂屋敷)
単体仏(弥勒寺町、石堂屋敷)
単体仏(弥勒寺町、石堂屋敷)
線刻石仏(弥勒寺町、石堂屋敷)
仏の里

 福重には、「これほど多くの線刻石仏が集中した所は全国的にも珍しい」といわれるほど数多くの線刻石仏が、大村市弥勒寺町を中心に分布しています。(上野注:詳細は順次掲載中の『仏の里 福重』ページをご覧下さい

 福重の石仏群は弥勒寺の石堂屋舗(せきどうやしき)に最も多く、弥勒寺から矢上の石走、東光寺(草場⇒現松原)にかけて点在しています。

線刻石仏
自然石に仏像を線彫りしたもの 13体現存
仏頭
頭部だけが彫刻された仏像 3体現存
単体仏 一体ずつ石に刻まれた仏像で、
福重にあるのはいずれも
高さ23〜28cmの小仏像
7体現存







不動明王線刻石仏
 弥勒寺公民館前の道端にある高さ160cm、幅78cmの自然石に不動明王の座像が線彫りされています。福重の線刻石仏の中では最も輪郭がはっきりしています。公民館前の道端にあり、道路からも見ることができます。

石堂屋敷(せきどうやしき)
 弥勒寺が建っていた所のすぐ前の中島さん宅を石堂屋舗といい、裏山に線刻如来像9体、単体石仏4体、仏頭3体が斜面に並んでいます。

石走石仏群
 石走(大村市福重町)の朝長さん宅裏庭にあります。単体仏2体と線刻如来像1体が、前方後円墳といわれる古墳の上に祀られています。

下八龍線刻如来像 1体
 弥勒寺下八龍の山口さん宅の裏山にあったもので、現在はシュシュの駐車場右手の池の傍に移され、説明板も設けられています。

上八龍線刻如来像 1体
 弥勒寺上八龍にあったが、基盤整備で高速道路脇の斜面に移動させられ、彫刻面を上にして倒れている。


 これらの仏像は鎌倉時代〜南北朝時代に造られたものとされます。(仏頭は室町後期)東光寺の1体を含め7体の単体仏は同大・同形に造られ、線刻仏12体も同じ技法・姿の如来像です。

 同じ時期に同じ趣旨で造られたものでしょう。ただ、これらの仏像は七山十坊の一つである弥勒寺の周辺に分布していますが、天台系山岳仏教に関連するものとされます。

 郡岳に太郎岳大権現があり、石走からの登山道が弥勒寺の釈迦峰を通っており、その道筋に石仏群が分布していることからも山岳仏教との関連はうなずけます。

経筒】(きょうづつ)
 平安時代中期以降、石製の筒に入れたお経を、塚を造って地中に埋納する経塚供養が、盛んになりました。大村では、今までに滑石製の経筒が3個発見されていましたが、昨年になって、草場の田丸さん宅に保管されている滑石製品2個が、経筒であることが確認されました。

 大村出土の経筒は計5個になりました。5個の内 1個は箕島(みしま現在の長崎空港)での発見ですが、4個は福重での発見です。

 ※ 福重出土の経筒は、裏見の滝1個、石堂屋舗1個、如法寺址付近(草場)2個


【五輪塔】(ごりんとう)
 福重には古い石塔や石仏が数多く残っています。完全な姿で残っていれば、それと気づくでしょうが、摩滅したり破損したりし、その一部が転がっていても見過ごされている場合が多いのです。特に、大村ではキリシタンによって寺社・仏像などは破壊されていますので、完全な姿で残っているのが例外なのです。

 福重に多いのが五輪塔です。五輪塔は平安時代後期から作られ、鎌倉時代に全国的に広がった石塔です。下から方形の地輪、球形の水輪、三角形の火輪、半球形の

 風輪、宝珠形の空輪を五段に積み重ねた供養塔です。五輪塔は、初めはごく限られた有力者だけのものでしたが、次第に経済的に余裕のある人々にも広がります。

(今の墓はシンプルな立石型ですが、これはキリシタンが禁止された江戸時代以降、伏碑のキリシタン墓碑と区別するために、強制されたものです。)

 福重でも五輪塔は数多く建てられ、今もたくさん残っています。福重のあちこちに散在する五輪塔(の一部)の大半は、室町時代〜戦国時代のものです。それが畑の隅や庭先にごろごろ転がっているのです。地輪・水輪は漬物石に使用されているケースも時折見かけます。

 上八龍石仏の現状は述べましたが、その近くには「お釈迦さまの足形石」といわれる、足形の刻まれた大石がありましたが、工事の際に壊されて今はありません。

 先祖の残した貴重な文化遺産が道路工事その他の工事で次々に失われていきます。また、昔は皆で大事に祀っていた神や仏が祀られなくなり、最近では見捨てられているケースもあります。

馬頭観音(福重町公民館
 馬頭観音(ばとうかんのん)の例をみてみます。馬頭観音とは、馬の頭を乗せた姿の観音さまです。苦しんで救いを求める人の声を聞いたら、馬のように早く助けに来てくれる仏さまです。顔の上に馬の頭がついているので、いつの間にか馬をはじめ、家畜の守り神として祀られてきました。

 福重でも、どこの集落にも馬頭さまはありました。馬は農家にはなくてはならない働き手でした。江戸時代末の福重には236頭の馬がいました。(自作農は264戸)。今のトラクターやトラックの役目を馬がしていたのです。

 その馬の神様ですから馬頭観音も大切に祀られていたのです。今は福重に馬は1頭もいません。馬頭観音が祀られなくなっている所もあります。今の福重を築くために、祖先と一緒に働いてくれた馬たち、その守り神の馬頭観音、そういうものへの感謝の気持はいつまでも持ち続けたいものです。

<福重の石造物についての補足>
 このページに写真を掲載できなかった福重の石造物について、今後も他のページ『仏の里ふくしげ』シリーズに徐々に掲載していこうと考えています。2003年から少しづつカメラを下げて、福重内の石造物を撮ってまわっていたところ、私なりに気付くことがありました。

 それは、数十年前に撮られた写真や拓本の状況と比べて、石にもかかわらず劣化、剥離、痛みが進んでいるということです。雨水、太陽光線、排気ガスその他の影響だろうと考えています。また、残念ながら道路建設などで、600年以上前につくられた石造物(弥生時代の古墳なども含め)も壊されたりしています。

 福重は、そのほぼ全域が古い歴史のある土地柄ですし、先人たちが何百、何千年前につくられた石造物などは、全体共有の財産になりうるものと思います。土地所有者の方々はじめ関係者のご協力もお願いしつつ、せめて石造物なら、他の場所への移動も含めご検討願えればなあと思いました。(掲載日:2005年1月12日)

<参考ページ紹介
仏の里ふくしげ
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