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大神宮(今富町) |
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松尾神社(草場町) |
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大日堂(寿古町) |
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熊野権現(今富町) |
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高野権現(今富町) |
福重にある神社仏閣
大村郷村記には、江戸時代にあった村々の寺社について数多く記載されています。それこそ野石を立てて祀ってある程度のものまで取り上げています。(福重だけでも64も載っています。) 主なものを挙げてみます。
太郎岳大権現(重井田町)
重井田の郡岳は福重の最高峰ですが、古くは太郎岳と呼ばれていました。奈良時代の初めに、僧の行基が太郎岳に登り「太郎岳大権現」を開いたとされます。
それ以来、ここは修験道(しゅげんどう)の霊場となり、多くの修験者(山伏)が集まる修行の場となったとされます。石走に一の鳥居があったといわれ、御手水の滝(裏見の滝)も修行の場になったとされるのは、この太郎岳大権現があったからです。
なお、太郎岳大権現はその後、多良岳に移され、更に西大村の池田に「多羅山大権現」として再興されました。
大神宮(今富町の冷泉寺)
天文11年(1542年)、大村純前が今富城内に建て、その後尾崎(今富橋 傍)に移されたといわれます。その後、1574年にキリシタンに破壊された後、江戸時代の1671年に現在地に再建されました。
明治25年に火災に会い、昭和8年に社殿を建替えました。草場の松尾神社とともに明治7年に福重村の氏神となり、松尾神社と1年交代で宮日を行っています。
松尾神社(まつのおじんじゃ)(草場町)
松尾権現として1548年、純前が現在地の北の高い丘に建てたとされます。この神社もキリシタンに破壊され、1670年に草場郷の鎮守として現在地に再建されました。明治の初めに「松尾神社」と改め、大神宮とともに福重の氏神となり、大神宮と1年交代で宮日を行っています。
昊天神社(こうてんじんじゃ)(沖田町 → 宮小路)
彼杵郡最古の神社で、古くから彼杵郡全体の鎮守として祭られてきました。最初は現郡中学校付近にあり、キリシタンの焼き討ちで焼失、江戸時代に入った1614年、現在の宮小路に再建されたとされます。
妙宣寺(みょうせんじ) (福重町)
日蓮宗の寺。キリシタンから改宗して日蓮宗徒となった大村喜前が、1602年に宮小路の極楽寺跡に建てた仙乗院が妙宣寺の始まりです。江戸時代の初めの1614年に現在地に移り、寺名も妙宣寺と改めました。
明治18年に焼失し、廃寺となっていた池田の宝円寺の本堂を買って移築したのが現在の本堂です。
不動堂(今富町の帯取)
郡七山十坊の一つだった不動寺跡。キリシタンに破壊された後、不動明王を祀る社を建立して不動堂として祀られています。現在のご本尊は明治27年に宝円寺跡より移した不動座像です。
白水寺跡 (皆同町の松本さん宅)
郡七山十坊の一つで、純前の墓所だったといわれます。キリシタンによる破壊の際、純前の墓は掘り崩され、骨は郡川に流されたといいます。1647年、堂を建てて千手観音を祀りました。1828年、大風で堂が倒壊し、翌年、石祠を建てたといいます。傍に姫墓と伝えられる大きな自然石などがあります。
大日堂(だいにちどう)(寿古町の下川原)
キリシタンの寺社破壊のとき、極楽寺の住職阿金は寺のご本尊・昊天神社のご神体を持って逃げる際、弟子の阿乗に「跡片付けをしてから来なさい」と命じました。
阿乗は逃げ遅れてキリシタンに追われ、下川原で捕まって殺され、死体は便所に投げ込まれました。その後、阿乗の霊が大村家に祟ったので、大村藩主が1647年に阿乗が埋められた所に建てたのが大日堂です。
熊野権現(くまのごんげん) (今富町の段)
17世紀の初め(江戸時代の初め)の建立といわれます。ご神体は釈迦如来を彫った鏡。石鳥居・拝殿、1811年建立の石祠があります。 注:熊野権現は今富だけでなく、弥勒寺などにもあります。
高野権現(今富町の地堂)
熊野権現と同じ頃の建立といわれます。大日如来を祀り、今の石祠は1784年建立。鳥居・拝殿があり、広い境内があります。
本蔵権現(野田町の本倉)
佐奈川内にあったものを1658年にここに移したといわれます。ご神体は石の座像で、石祠と鳥居・拝殿があります。
祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)(福重町 小学校前の牟田さん入口)
キリシタンに壊された祇園寺跡に建立された社で、1722年に再興されたといわれます。
天満宮(福重町 一楽さん宅裏)
1774年の建立とされ、ご神体は彩色の木座像。
竈権現(かまどごんげん) (寿古町の永松さん宅)
1642年の遷宮とされ、ご神体は釜のかけらだったとされるが、今は三宝荒神を祀ってあります。寿古の永松にあるのに、寿古・皆同にまたがる正蓮寺郷で祀っています。
注: 「権現」について
権現とは仏が仮に(権=仮)神の姿で、この世に現われたものを意味します。従って、神でもあり、仏でもありと区別されない神仏混合したものです。福重にも権現と呼ばれる(或いは呼ばれていた)社がかなりあります。鳥居や神殿がありながら、お経をあげたり、線香を立てたりもします。
江戸時代までは神社で仏を祀ったり、寺で神を祀ることは普通でした。それが、明治になると新政府から神仏混合が禁止され、大村藩も明治3年に禁止令を出しました。権現や祇園は神仏混合であるとして禁じられたのです。松尾神社は権現名を変えて神社になった例ですが、竈権現は祀れなくなって鳥居も壊しましたが、正蓮寺郷が明治末から祀っているのです。
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六地蔵(今富町) |
六地蔵(野田町) |
六地蔵(今富町、野田町)
野田の本倉堤の脇、今富の武田さん宅裏、裏見の滝に同じ形の六地蔵があります。三つとも、円筒形の石の周囲に6体の地蔵を彫り込んだものです。
この三つの年代は分かりませんが、六地蔵は、戦乱の続いた16世紀後半(戦国時代)のものが多いといわれます。
鹿大明神(しかだいみょうじん)(沖田町)
昔、鹿大明神が海から来る夢を見た人が、海岸に行ってみたら沖の方から鹿の角が2本入ったそうけ(竹のかご)が流れて来た。
それを持ち帰って祭ったのが始まりと言い伝えられる。ご神体が鹿なので、沖田では犬を飼わないことになっています。
祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)(沖田町)
今は沖田の川添さん宅横にある小さな社ですが、江戸時代初期の1648年に国道より上の場所に建てられた社32m×61mの境内がありました。祇園も権現と同様に、明治になって禁止されましたので、縮小して今の場所に移し、鳥居も壊されたものと思われます。(鳥居は社の脇に積んであります。)
地蔵菩薩・薬師如来
沖田の緒方さん方と北川さん方にある古い仏像。地蔵さまは一つの石に3体、薬師さまは一つの石に2体の仏さまが彫られています。
(掲載日:2005年2月3日)
<参考ページ紹介>
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