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あとがき
福重のあゆみ、奈良時代
沖田条里制跡の田んぼ(碁盤の目のように並んでいる)
奈良時代 4世紀〜
 4世紀頃から大和朝廷による国土統一が進み、やがて、わが国の大部分を占める国家(大和国家=日本)が成立します。

 古墳時代から飛鳥時代を経て、大化の改新(645年)から奈良時代(710〜793年)になると国家の仕組みも整います。

 全国を国・郡・里に分けて役人を置いて治めるとともに、班田収受を実施します。これは土地を公有とし、整然と碁盤目状に区画した水田を人民に分け与えるもので、碁盤目状の区画を条里制といいます。大村でも沖田と大上戸川流域の水田(みずた)に遺構が残っています。

沖田条里制遺構
 郡中の裏手、大村市沖田町から黒丸町にかけて広がる条里制がはっきり残っています。この地域の土地は今でも地番ごとに同一の形(細長の長方形)、同一面積に区切られています。地名(小字)にも蔵ノ町・徳町(沖田)・深町・高原町(黒丸町)・盛田・黒田・浜田・九の坪と条里制関連の地名が並んでいます。

 このように、地名も地割りも奈良時代のものが今でも残っているのです。なお、皆同の柳町も同様な地割りで、町のつく地名でもあり条里制跡の可能性があるかと考えられます。

1300有余年続く整然とした沖田条里制の田んぼ
<条里制の補足説明>
  条理制は大化の改新(645年)以前より始まっているといわれています。ただ、田んぼ自体が急にこの時点から始まったとは言えません。それよりも、ずっと以前から耕作されていた形跡があります。

 沖田町の隣りの黒丸町には、縄文や弥生時代の黒丸遺跡、郡川を挟んだ反対側の今富町には古墳時代の(5世紀頃の)黄金山古墳も出土しています。

 このようなことから、沖田条里制は、大化の改新の頃から数えると、1300有余年の田んぼになりますが、同じような条里制のある黒丸遺跡と同じくらいの歴史があるものと思われます。つまり、弥生時代の頃よりこの付近には田んぼがあったと思われます。

 条理制の区画は、東西・南北の方角に合わせて、6町四方を1里と呼び、1町(109m)四方を1坪(つぼ)=(約1,1900平方メートル)と呼び、1坪を60間×6間(109m×11m)の長地形の10等分して、あぜ道と道路に仕切られました。また、傾斜に沿って地割りの向きを変えたりもしました。

沖田条里制、『蔵ノ町』の字図(整然と区割りされている田んぼ)の一部分
 宅地は、1坪を8等分され、水田は男1人に2反(たん)=(約1,980平方メートル)、女は男の3分の2を与えられました。地割りの方法は、長地型の外に半折型があり、長地型は大化の改新前からおこなわれ、半折型は701年以後から実施されたものだといわれています。

 旧小字(あざ)に九の坪・蔵の町、田のつくものに浜田・黒田・正田・盛田・徳田・丸田がありました。九の坪とは区割りを示した番号の一つで、数え方が西行千鳥式なら位置的に9から19の坪に当てはまります。

 蔵の町とは共同蔵があった所、町とは水田の意味もあるようです。(出典及び参考資料:大村市教育委員会発行、『大村市の文化財』の沖田条理遺構より)

彼杵の郡(こおり)の役所は福重
 長崎県・佐賀県の範囲は肥前の国で、国司のいる国府は佐賀にありました。長崎県内には4つの郡が置かれたとされます。その1つである彼杵郡(そのぎこおり)が大村・東西彼杵地方です。

 郡を治める郡司の役所を郡家(ぐうけ)といい、彼杵郡の郡家は最初は彼杵に置かれ、やがて大村に移されたとされます。その郡家の所在地は沖田か寿古と考えられます。

 条里制遺構のある沖田には「蔵ノ町」という地名があり、穀物を納める倉があったことがうかがえます。寿古の好武の高台付近は周辺の遺跡から奈良時代の遺物が出土していますし、その後の平安時代以降に荘園を管理する役所があったと考えられることから、候補に挙げられます。

 いずれにしても、この一帯が郡と呼ばれ、郡の役所が福重に置かれたのは、郡川下流の福重を中心とする地域が、県下最大の水田地帯であったからであり、経済的にも文化的にも大村の中心であったことを示しています。(掲載日:2004年12月26日)

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