あとがき |
福重のあゆみ、キリシタンの頃の福重
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キリシタン大名 大村純忠 家臣の離反・財政難の中で、周囲の強敵と戦い続けなければならなかった大村純忠は、南蛮貿易の利に目をつけて、1562年に西彼杵半島の横瀬浦を開港して、ポルトガルとの貿易を開始しましたが、横瀬浦はまもなく後藤貴明に焼き討ちされ、長崎の福田を開港して南蛮貿易を続けます。長崎発展の糸口です。 その間、純忠はキリスト教に改宗して1563年には洗礼を受けます。キリシタンとなった純忠は、家臣や領民にもキリシタンへの改宗を勧め、バテレン(スペイン・ポルトガル人の宣教師)も大村に来て、教会も多数建てられました。 福重にもキリスト教の教会が建てられました。今富城内にあったとされていましたが、ローマ教会の文書では「教会は今富城と石走の間にあった」とされていることが、最近判明しています。
キリシタン改宗によって起きたのが、キリシタンによる神社・寺院すべての破壊です。寺社破壊は宣教師コエリョが純忠に迫って約束させたもので、天正2年(1574年)一斉に行われました。 大村でキリシタンによって破壊された寺社は、神社13、寺院28、その内 郡村で神社4、寺院18です。 寺社破壊は、神仏信仰をなくし全領民をキリシタンに改宗させるために行ったものです。この後、大村では領民の大半、約6万人がキリシタンになります。日本全国で約15万人ですから、日本のキリシタンの40%を占めたのです。 宣教師フロイスは寺社破壊のありさまを「今まで日本にいた間、最も大いなる楽しみを味わった。」と記し、また、郡村でのお寺破壊について「彼らは説教を聞き終えて外に出ると、まっしぐらにその下手にある寺に走り、その寺は彼らによって破壊され、何一つ残らなかった。」と書いています。
少年使節は法王を初め、ヨーロッパで大歓迎を受け1年半の滞在の後、帰国の途につき8年半ぶりに日本に帰って来ました。しかし、帰国した時はすでに秀吉によるキリシタン禁止令が出ており、帰国後はそれぞれ厳しい道を歩まざるを得ませんでした。 大村純忠の使者の中浦ジュリアンは詳しい身元が分からず、中浦の領主・甚九郎の子とだけ伝えられていました。ところが最近になって中浦城主・小佐々甚九郎の子の小佐々甚吾であることが分かりました。後で述べる「今富のキリシタン墓碑」は今富の一瀬さんのご先祖の一瀬栄正の墓ですが、その一瀬栄正の奥さんが小佐々甚九郎の妹です。中浦ジュリアンの叔母に当たるのです。 こういう情勢の中で、喜前はキリスト教を捨てて日蓮宗に帰依し、1602年にキリシタン禁止令、1606年に宣教師追放令を出す一方、妙宣寺・本経寺・長安寺・正法寺を建て、社寺復興を図り始めます。 こうして、大村はキリシタン強制から一転してキリシタン禁止⇒キリシタン弾圧へと180度転換します。大村のキリシタン時代は1562年〜1605年のわずか43年間にすぎません。
大村喜前のキリシタン禁止令・宣教師追放令が出された後も、宣教師(バテレン)たちは領外の嬉野の風頭山に移ったものの、郡村での活動は続いていました。そして、1611年、矢上の石走で十字架が見つかり、ポルトガル人の宣教師マチャド神父とペトロ神父が捕まりました。 2人は牢に入れられた後、1617年に今富の帯取で処刑(打ち首)されました。宣教師ロドリゲスが1617年にイエズス会に送った報告書によると、「郡村の教会は石走と今富城の間にあった。」「処刑のとき、2人は牢屋から処刑場まで歩かされた。距離は1qほどだった。」「処刑された場所は帯取という山だった。そこは十二社権現と呼ばれ、以前は神社だったが後にはキリシタン信者の墓があった。」と記されているそうです。 矢上の石走の近くに「どん坂」と呼ばれる所があります。どん坂とは「ろうの坂」のなまりで、昔、牢があったので「ろうの坂」と呼ばれ、「どん坂」となったとの言い伝えがあります。矢上の牢屋〜弥勒寺の下手〜帯取というコースが1kmという距離にも合うようです。 このキリシタンバテレン処刑が、大村における最初の殉教者ということで、キリスト教関係者により最近、十二社権現跡地といわれる所に記念碑が建てられています。 <上野注:この「十二社権現跡地」(記念碑)は、後日の調査で(大村藩領絵図、大村郷村記、地元伝承からして)、実際あった十二社権現場所(本当の殉教地)と、約350メートルもずれていて間違い場所と分かりました。つまり、上記や左から2番目写真=「十二社権現跡地」(記念碑)の場所では、全くありません>
大村市今富町地堂の一瀬さん宅に隣接した林の中に「不染院水心日栄霊」と刻まれた墓があります。一見、仏教徒の墓ですが、この墓石の上部には「干十字」という十字紋が刻んであり、形もかまぼこ型です。これは典型的なキリシタン墓碑です。 十字紋のある面を正面にして、かまぼこを置いたように伏せてあるのが本来の姿で、半円柱蓋石墓碑といわれるものです。キリシタン取締りが厳しくなり、キリシタンの墓の破壊が行われるようになったとき、この墓は仏教徒を装うために、底の部分を正面にして仏式の戒名を彫り、縦に起こして仏式の墓碑に改造したものとみられます。 この墓碑は一瀬栄正のもので、一瀬栄正は1563年に純忠が重臣25名とともに洗礼を受けたときの一人で、1576年に没しています。栄正の子・治部大輔がキリシタン墓碑として建て、後に仏式墓に改造したものと考えられます。この墓碑はキリシタン墓碑としては、わが国では最も古いものとされ、かまぼこ型を立てた墓碑は全国でも珍しいものとされ、「長崎県指定史跡」となっています。なお、この墓碑の右脇に、四角い「手洗鉢」があります。これも、かまぼこ型のキリシタン墓碑を改造したもので、一瀬栄正の妻の墓だった可能性があります。栄正の妻は前述したとおり、少年使節の一人である、中浦ジュリアンの叔母に当たる人とされます。 島原の乱から20年、大村藩はお家断絶の危機に見舞われ、必死の捜索をしたのです。キリシタンの疑いで捕まった者は、郡村を中心に608人、厳しい拷問の結果は608人中、斬罪411人、永牢20人、取り調べ中の死者78人、釈放99人となり、処刑は大村だけではできず、長崎・島原・平戸・佐賀にも分散して行われました。大村での斬首は131人、放虎原(市立病院下)で斬られ、首は原口(首塚)、胴は桜馬場(胴塚)に埋められました。首と胴を別に埋めたのは、キリシタンの妖術で再びつながって蘇るのを恐れたからだといわれます。 この出来事を「郡崩れ」といいますが、福重では「まこめ(馬込)・えら(江良)・とうかうじ(東光寺)・草場・れいせんじ(冷泉寺)・おびとり(帯取)・龍福寺・段・沖田・羽原(?)」などの人が捕まったと記録されています。(掲載日:2005年1月27日) |
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