あとがき |
福重のあゆみ、長崎街道の内、福重往還道
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長崎街道は江戸時代、北九州の小倉から長崎までの228kmを結ぶ街道です。長崎に入った西洋文化を、江戸をはじめ全国に伝える重要な役割を果たした街道です。幕府の役人、商人、蘭学者、文化人、幕末の志士、シーボルトらオランダ商館の人達など、歴史に登場する人物が長崎街道を通りました。
江戸時代の1728年、8代将軍吉宗の希望で象が2頭、長崎に運ばれてきました。150年ぶりの象の来日です。1頭は長崎で死に、1頭が江戸まで73日かかって歩いて行きました。 行く先々で大フィーバーを巻き起こし、大騒ぎの中の道中でした。その時の、大村通過の模様などを紹介します。 150年ぶりの象ですから、初めて見る人ばかりです。大騒ぎは当然である上、将軍御用達の象です。長崎一の剣の使い手を初めお供14人、人足8人、馬9頭が付き添っての大旅行でした。 先触れが各藩に象の食事・寝床の準備や見物上の注意を伝達して回る念の入れようでした。3月13日に長崎出発、大村には14日夕方に着きました。象は「赤い根」をもらって大喜びで食べました。 赤い根とは「さつま芋」でした。さつま芋は吉宗の奨励で薩摩(鹿児島)から全国に広がりますが、大村での栽培は薩摩より早かったといわれます。大村で泊まった夜、地響きのような轟音にびっくりして警護役以下、飛び起きました。正体は「象のオナラ」でした。 翌15日、大村を出て嬉野まで歩きます。途中、郡川の飛び石がありました。象は大きな太い足で飛び石を伝って、器用に郡川を渡ったとのことです。因みに、この象は、4月28日に京都で天皇がご覧になりましたが、位のないものは天皇に拝謁できませんので「広南従四位白象」の肩書きをもらって拝謁?しました。(大村藩主は従5位下ですから、大村の殿様より上の位でした。)
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