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あとがき
福重のあゆみ、長崎街道の内、福重往還道
旧・長崎街道(皆同町)
長崎街道の内、福重往還道

 長崎街道は江戸時代、北九州の小倉から長崎までの228kmを結ぶ街道です。長崎に入った西洋文化を、江戸をはじめ全国に伝える重要な役割を果たした街道です。幕府の役人、商人、蘭学者、文化人、幕末の志士、シーボルトらオランダ商館の人達など、歴史に登場する人物が長崎街道を通りました。

 福重往還(往還は街道のこと)は長崎街道の一部で、沖田から郡川を渡って松原までの部分で、昔の福重メインストリートです。まず、郷村記の記載内容を見てみましょう。(単位はメートル法換算)

・竹松村との境から松原村の境まで1850m
・郡川は幅65m、伝石46本、1本の長さ2m10cm、幅84cm
・郡川より庄屋まで242m、右は田で左は正蓮寺郷の人家、左の方へ150m入って福重庄屋

・庄屋より堀池出口まで314m、この間に正連寺の人家あり、右方の田の中に今富の古城がある。
・堀池出口より松原村境まで380m、この間、左右とも田原なり。

1)竹松と福重の境は、郡中と虹の原養護学校の間の小川で、松原との境は石走川下流の「よし川」です。

2)郡川には橋がなく、伝石(飛び石)で渡りました。飛び石の数、大きさは定められていて、洪水で流されたら下流を探しました。見つからないと同じ大きさの石を補充しました。 (注:この飛び石は、郡橋が架けられた昭和16年以後もありました。60歳以上の人は渡った経験があるでしょう)

3)天理教手前で国道より上に出て、発電所入口の手前で国道を横切り、八幡丸の前を通る道です。この間に人家はなく、左右とも田原でした。(田原は「テーバリ」と呼んでいました。)

大村市教育委員会の案内板(一部分)
象の旅 象、郡川の飛び石を器用に渡る!
 江戸時代の1728年、8代将軍吉宗の希望で象が2頭、長崎に運ばれてきました。150年ぶりの象の来日です。1頭は長崎で死に、1頭が江戸まで73日かかって歩いて行きました。

 行く先々で大フィーバーを巻き起こし、大騒ぎの中の道中でした。その時の、大村通過の模様などを紹介します。

 150年ぶりの象ですから、初めて見る人ばかりです。大騒ぎは当然である上、将軍御用達の象です。長崎一の剣の使い手を初めお供14人、人足8人、馬9頭が付き添っての大旅行でした。

 先触れが各藩に象の食事・寝床の準備や見物上の注意を伝達して回る念の入れようでした。3月13日に長崎出発、大村には14日夕方に着きました。象は「赤い根」をもらって大喜びで食べました。

 赤い根とは「さつま芋」でした。さつま芋は吉宗の奨励で薩摩(鹿児島)から全国に広がりますが、大村での栽培は薩摩より早かったといわれます。大村で泊まった夜、地響きのような轟音にびっくりして警護役以下、飛び起きました。正体は「象のオナラ」でした。

 翌15日、大村を出て嬉野まで歩きます。途中、郡川の飛び石がありました。象は大きな太い足で飛び石を伝って、器用に郡川を渡ったとのことです。因みに、この象は、4月28日に京都で天皇がご覧になりましたが、位のないものは天皇に拝謁できませんので「広南従四位白象」の肩書きをもらって拝謁?しました。(大村藩主は従5位下ですから、大村の殿様より上の位でした。)

詳細は下記をクリックしてご覧下さい。
 1821年には2頭の「ラクダ」も長崎から江戸まで歩きました。手綱はメスだけで、オスはメスにぴったり寄り添い、離れずについていく仲の良さだったそうです。(掲載日:2005年1月29日)



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