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郡地区のあった仁和寺と東福寺の荘園
(『おおむらの史記』29ページより)
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平安時代〜鎌倉(9世紀〜14世紀前半)
荘園の時代
平安時代(794〜1191年)は貴族の時代です。全国の土地は藤原氏を初めとする都の有力な貴族や寺院の荘園と呼ばれる私有地になりました。
荘園は奈良時代半ばに開墾地の私有を認めたことから広がります。財力も権力もある寺院は人民を使って開墾地を広げ、公領も取り込み、更には地方の豪族から土地の寄進を受けて、名目上の所有者となって荘園を増やしました。
朝廷の治める土地はなくなりました。鎌倉時代(1192〜1332年)になると武士が進出してきますが、簡単には有力な貴族・寺院の荘園は奪えませんでした。
この時代、大村地方もお寺の荘園になりました。
仁和寺(にんなじ)の荘園
京都の仁和寺(真言宗)は、天皇の建てた真言宗のお寺で、条里制があった沖田を含む大村の一帯も仁和寺の荘園となりました。
東福寺・九条家の荘園
藤原一族の九条家が鎌倉時代の1236年に建てたお寺が、京都の東福寺(禅宗)です。現在の竹松、福重、松原・江ノ串にかけては東福寺または九条家の荘園になりました。
この荘園の役所が寿古の好武にあったと考えられるのです。好武は本庄と呼ばれ、その前の郡川の渕が「ホンジョウ渕」と呼ばれるからです。
<荘園の補足説明>
このように奈良時代から南北朝時代にかけて、郡地方には中央の寺院が所有する二つの荘園があったのでした。そして、この荘園を管理するために、自分の宗派のお寺を置きました。しかし、南北朝時代になっていくと、力をもった地頭や武士によってしだいに圧迫されくずれさっていきますが、完全になくなったのは武士が領主になった戦国時代といわれています。
この郡地方の寺院は、1574(天正2)年、度重なる宣教師からの要請を受けていた大村純忠がついに許可し、領内にある神社仏閣のいっせい焼き討ち、キリシタンに改宗しない領民追放、僧侶の殺害までおこないましたが、その時総ての寺院がなくなり、再興されませんでした。同時に、これらの荘園もこの時期に完全になくなったものと思われます。(掲載日:2004年12月29日)
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