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あとがき
福重のあゆみ、戦国時代の福重
戦国時代の福重

 好武城、今富城が築かれた頃から戦国時代(1467〜1590年)の戦乱期に入ります。大村藩が江戸時代になってから作成した大村氏に関する諸文書では、(「大村純伊」と同一人物といわれている)大村純治(すみはる)までの記述はほとんどなく、「大村純伊(すみこれ)」の敗戦から詳しく書かれ始めます。

郡岳(後方の山)の手前が『野岳の陣』の野岳町
 「大村純伊」の敗戦(史実でないとされますが)、大村純忠時代の度重なる合戦、三城への移転、キリシタンへの改宗、寺社破壊、一転してのキリシタン禁制と大村も激しく変動し、福重の人々も苦難の続く時代を迎えます。

(虚構と言われている)「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還
 大村側の史料によりますと、<「大村純伊」は文明6年(1474年)に島原の有馬氏に攻め込まれ、萱瀬の中岳の合戦で大敗し、萱瀬〜郡岳〜松原〜早岐と逃れ、最後は唐津沖の加々良島(かからじま)に隠れた。>

 <6年間の流浪の後、佐賀の諸氏の加勢を受けて文明12年(1480年)、大村を奪還した。> <地元郡村の住民は須古踊(すこおどり)、沖田踊、黒丸踊を踊って歓迎した。純伊も顔を隠して須古踊の輪の中に入って踊った。>と記述されています。

 しかし、この純伊の敗戦〜流浪〜領地奪還話は、辻褄が合わないことが多い上に、大村側の史料と合致する資料が負けた相手の有馬にも、加勢したとされる佐賀側にもなく、これも系図同様に創作説が強いのです。

 今では次の4説が考えられています。
1)佐賀藤津郡の大村氏の敗戦話を大村での話とした。(藤津郡の大村氏は数回、領土を奪われている。)
2)数回の敗戦を1回の敗戦としたことが矛盾の原因である。1474〜1507年の間に数回領地を追われたのではないか。
3)30年ほど後にずらすと佐賀側の史料とも合致する点があり、大村氏の領土奪回は永正4年(1507年)である。
4)大村純治と「大村純伊」は同一人物である。(大村氏の領地回復を助けたとされる佐賀の渋江氏は1507年に大村純治を本領に帰らせたとしている。)

 真実は現時点では不明ですが、好武城・今富城時代のことですし、寿古踊・沖田踊の起源にも係わることですので、事実の解明が待たれます。

<補足について>
 上記の記述は、外山幹夫氏の論文『大村純伊文明六年敗戦記事の虚構性 −とくに「平家物語」との関係について』(大村史談会発行、大村史談第二十号)に詳細にわたり書いておられます。特に、この論文の中で、<大村氏の敗走記事異同表> と <大村氏の大村奪回記事異同表>は、実際は佐賀側起こったことと、「大村側で起こった」事例の対比が表になっており、分りやすいものです。

 また、大村藩には、家来について書かれた史料もありました。それによると、同じ名前の家来が、この「大村純伊」の「中岳の合戦」にも参加し、その後さらに約80年後の大村純忠時代にも大村藩の幹部として仕えたことになるそうです。もしも、このことがふたつとも「事実」なら、たとえ元服直後で合戦に参加しても、90歳位の老臣でその後も(現役バリバリで)領国の管理運営をしなければ、年代的に成立たなくなることを指摘されています。

 江戸時代大村藩が編纂した「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還説は、この「大村純伊」は虚構できても、家来の年齢までも、偽装できなかったと思われます。

 なお、(大村純治と同一人物といわれている)この「大村純伊」と関係する(全国的にも有名な)大村寿司(角寿司)及び郡三踊り(黒丸踊、寿古踊、沖田踊)の本来の起源について、私は、他のページもしくは別のホームページで掲載する準備もしています。

丘付近が鳥越・伊理宇古戦場跡
大村純忠時代の合戦、『鳥越(とりごえ)・伊理宇(いりゅう)の合戦』
 大村純前(すみあき)は、実子の貴明(たかあきら)を武雄の後藤氏の養子に出し、有馬から養子を迎えます。これが大村純忠です。純忠も「大村純伊」の娘の子ですが、養子に出された貴明は純忠を恨み、純忠打倒に執念を燃やし、何度も何度も大村に攻めて来ます。(前後5回?) 大村氏の家臣には貴明に同情する者も多く、純忠は貴明に悩まされ続けます。

 後藤貴明の永禄9年(1566年)の大村攻撃が『野岳の陣です。野岳まで攻めてきた貴明軍と今富城から出て迎え撃った純忠軍が、野岳で戦い、今富の鳥越・伊理宇(今は井龍)で激戦を展開しました。鳥越・伊理宇の古戦場は、立福寺の鳥越さん〜今富の山口さん方の裏山の一帯です。

 この合戦は、貴明方に槍の使い手がいて純忠方が押されていましたが、純忠方の宮原常陸介が出て行くと、貴明方の槍の使い手は逃げてしまい、純忠方の勝利となりました。貴明方の槍の使い手は貴明方に加わった大村の家来で、大村時代の稽古では宮原に一度も勝てなかった男だったと郷村記には書かれています。

 この合戦の戦死者を葬った塚があり、山口さん方と鳥越さん方で今でもその霊を祀っておられます。この鳥越・伊理宇の合戦より前の1564年、純忠は三城(現在の忠霊塔)に城を築いて移りました。好武城、今富城はこの時点で佐賀勢に備える支城となっていました。(掲載日:2005年1月25日)

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