あとがき |
福重のあゆみ、郡七山十坊
|
奈良時代から平安時代にかけて仏教が栄え、地方にも寺院が建てられるようになります。そういう時期に郡(福重、松原、竹松地区)地方にも一般に郡七山十坊といわれる10のお寺を初めとする多くの寺院が建ち並んだといわれます。 しかし、寺の名前が登場するだけで一寺も残っておらず、遺構も発見されず、瓦の出土もなく、実態は不明のままなのです。○○寺の跡といわれるだけで、何時建てられたかはっきりするお寺はありません。 これは、郡地方の寺は南北朝時代と戦国時代の2回、全てのお寺が焼かれたり壊されたりしたからだと思われます。最初は1366年(南北朝時代)に何者かによって一斉に焼き討ちされ、2回目は大村純忠時代の1574年にキリシタンによって破壊し尽くされたとされます。 1回目の焼き討ちで消滅した寺、その後まもなく再建されたが2回目の破壊で消滅した寺とがあるようです。無量寺だけがキリシタンに壊された後、松原に再建されて今もあります。 郡七山十坊
1)龍福寺、2)弥勒寺、3)白水寺、4)冷泉寺、5)東光寺、6)如法寺(草場) 、7)正(聖)蓮寺(寿古) 、8)不動寺(今富) 、9)唐泉寺(矢上)、10)無量寺(寿古・皆同)、 11)済福寺(皆同) 、12)教通寺(草場) 、13)祇園寺(矢上)、14)立石庵(草場) 、15)常徳寺(草場) 注: 1)〜5)は七山十坊の内、6)〜9)は七山十坊と同時期にあったとされる寺、10)〜15)は時期不明です。 1)〜9)は1155年(平安末期)に唐泉寺住職の発案で14か寺が集まって宗教上の論争を行ったとき、参加したとされるお寺です。これが事実であれば、この9か寺は平安時代末期には建っていたことになります。なお、この論争は唐泉寺の春輝が勝ち、負けた13寺の僧が怒って唐泉寺を壊してしまったとされています。
1366年にお寺が全て焼き払われたとされるのはミステリーですが、延命寺と龍福寺関係の文書に記載されており、その後の1396年の東福寺の荘園台帳から「彼杵荘」が消えており、その頃、東福寺の荘園を奪おうとした何者かが焼き討ちしたのではないかと考えられます。 1574年にキリシタンによって破壊されたのは龍福寺・弥勒寺・白水寺・冷泉寺・東光寺・如法寺・不動寺・無量寺・祇園寺・(唐泉寺?)の9〜10寺です。
大村市立福寺町にある龍福寺跡は、写真の畑及びその奥の家(富崎さん宅)当りを地元では「寺屋敷」と呼んでいる通り、この付近だと言われています。この龍福寺はキリシタンによって破壊された後、再建されませんでしたが、地名が「立(龍)福寺」として、現在も残っています。 また、 この立福寺町には、郷土芸能の『龍踊』がありますが、これはこの地名「龍福寺」にちなんで始まったとの伝承があります。この龍踊りの詳細は、他のページ「福重の伝統芸能」の「立福寺の龍踊」のページをご覧下さい。(掲載日:2005年1月8日) <・参考文献、参考資料一覧は、ここからどうぞ> |
あとがき |