あとがき |
福重のあゆみ、明治時代の福重
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明治時代の福重 1867年の明治維新で明治時代に入り、行政上の大変化が起こります。まず、廃藩置県により大村藩がなくなり、新しい行政組織ができますが、明治22年の町村制施行までに何度も変りました。
3)福重を7小区、20郷に分けたとされますが、明治7年の「区別町村調」には「重井田・草場・矢上・龍福寺・弥勒寺・冷泉寺・帯取・地堂・段・皆同・上川原・金谷・沖田・正蓮寺・永松・下川原の諸郷、福重村内にあり」と16郷が記載されていますが、7小区、20郷は不明です。 4)明治22年から村長が選挙で選ばれ、有給となります。それまでの戸長は無給でした。 5)明治24年の水害で、村役場・福重小学校が流失してから、皆同郷に小学校が移転するのに2年、村役場が移転するのに12年かかっています。 その間の事情が「東彼杵郡誌」(大正5年刊)に書かれていますので、原文のまま紹介します。
6) この役場の移転先は現在の出張所の所で、「皆同郷古城」です。ここは今富村の庄屋跡で、今富郷だった所です。いつ皆同郷になったか不明ですが、明治26年に小学校が城ノ前に移転するまでの間は、「今富郷の民家を改造して仮校舎とした。」とされています。この今富郷の民家とは、出張所の隣にあった山口さん宅ですから、明治26年はまだ今富でした。 明治時代から始まった鉄道、バスなどについて 明治時代から建設や運行などが始まった鉄道、バス、福重橋などについて以下にいくつか挙げます。。当然、これらはその後の大正、昭和時代から現在も続いている事項もあります。
明治時代、わが国でも鉄道建設が進められました。福重にも線路ができて汽車が走るようになりました。民営の九州鉄道が明治31年に早岐〜大村、大村〜長与間を開通させました。長崎本線の一部です。現在の長崎本線の開通は、昭和になってからで、早岐〜大村間が大村線になったのは昭和9年からです。 明治43年の時刻表によりますと、列車本数は上下とも、客車4、貨客車3、貨物列車3で、長崎〜京都の急行が1本、東京〜長崎の寝台車が1本です。大村〜長崎の所要時間は約2時間、運賃は45銭(松原〜大村6銭)でした。 昔のバス 明治19年、郡川の飛び石のあった所に橋が架けられ、大正7年頃から旧道(長崎街道の部分)をバスが通うようになりました。小型のバスで、長崎医院付近に停留所がありました。なお、戦後もこの道をバスが通っていましたが、ガソリン不足の時代で木炭車でした。 福重橋(郡橋) 明治19年(1886年)に郡川の飛び石の所に木橋が架けられました。沖田側の橋のたもとだった所に、大きな「福重橋」の記念碑があります。この橋は昭和12年の水害で一部が破損したため、昭和16年に旧橋の50m上流に今の福重橋が架けられました。 橋の正式名称は「福重橋」で、「郡橋」は通称です。「25号国道 福重橋設計書」(昭和14年度 内務省)によると、長さ58m、幅8.4mの鉄筋コンクリート造、工費43,100円でした。 ※ この福重橋完成までが「福重村」の時代で、翌年から大村市となりました。 (掲載日:2005年2月9日) <・参考文献、参考資料一覧は、ここからどうぞ> |
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