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あとがき
福重のあゆみ、明治時代の福重
明治時代の福重

 1867年の明治維新で明治時代に入り、行政上の大変化が起こります。まず、廃藩置県により大村藩がなくなり、新しい行政組織ができますが、明治22年の町村制施行までに何度も変りました。

解説
1)明治になった当初は、福重と松原は同一行政区とされました。

明治時代の福重関係の略年表
明治 4年  7月 廃藩置県、大村藩が大村県となる。
明治 4年 11月
大村県を廃止し、長崎県に合併
明治 5年  4月 区制実施により松原村と合併し、第45大区とし、会所を寿古郷株田に置き、区長・副区長及び書記を置く。さらに区内を福重を7小区、松原を5小区に分ける。 区長は村川幾馬
明治 5年 - 福重小学校設立。(寿古郷株田の庄屋跡)
明治 7年 - 区制を廃止し、福重村と松原村を分離、福重村内に蔵所を設け、小頭2人を置く。
明治10年    7月 福重村から東光寺を松原村に移し、伏原を松原村から福重村に編入する。
明治11年   11月 東彼杵郡設置、福重村を東西両部に分け戸長2人を置く。
明治12年 - 戸長1人とし、村内を20郷に分け、郷に郷代を置く。
明治22年 - 町村制実施。小佐々哲五郎を福重村村長に選出。
明治24年    9月 郡川の大洪水で村役場、小学校とも流失、家屋・田畑の被害甚大。
明治26年    6月 皆同郷城ノ前に小学校移転。
明治36年   - 村役場、皆同郷に移転。(現在の出張所の所)
明治42年   6月、 郡川が再び大氾濫。
2)明治24年の洪水で流失するまでの役場・小学校は寿古郷の株田の福重村庄屋跡(前川さん宅)でした。

3)福重を7小区、20郷に分けたとされますが、明治7年の「区別町村調」には「重井田・草場・矢上・龍福寺・弥勒寺・冷泉寺・帯取・地堂・段・皆同・上川原・金谷・沖田・正蓮寺・永松・下川原の諸郷、福重村内にあり」と16郷が記載されていますが、7小区、20郷は不明です。

4)明治22年から村長が選挙で選ばれ、有給となります。それまでの戸長は無給でした。

5)明治24年の水害で、村役場・福重小学校が流失してから、皆同郷に小学校が移転するのに2年、村役場が移転するのに12年かかっています。

 その間の事情が「東彼杵郡誌」(大正5年刊)に書かれていますので、原文のまま紹介します。
 「村役場の再築に当たり、位置に関し東部・西部に論争起こり、久しく結んで解けざりしが、有志の斡旋により辛うじてその工を起こすに至り、明治36年6月現在の場所(注 皆同郷)に移転するを得たり。これより先26年9月小佐々村長任期満了。峰柳一就任、34年9月岩永貞太郎村長となる。明治42年6月郡川再び決壊す。

 その復旧をなすとともに河床浚渫の計画を立つ。村民また党を結びて互いに異を争う。この葛藤中、岩永村長の任期満了し、43年9月吉川小一郎その後を襲う。内訌いよいよ募り、44年7月吉川村長その職を退き、岩永貞太郎再び村長となり、紛争未だ全く解けざるに先立ち翌45年2月辞す。山口貞雄その後を承けて現在(大正4年)に至る。」と書かれ、続いて「福重村の人情風俗」の項には次のように書かれています。

 「村民は一般に勤勉なるも公共心に乏しく、協同の精神に欠く所あり。納税思想は漸次向上し、大正3年その成績良好なるの故をもってその筋に表彰せられたり。敬神崇仏の念は従来甚だ厚かりしも、近年物質文明の余弊を蒙り、この美風漸く衰ふるの傾向あり。言語対応は慇懃なるも語尾の不明瞭の点あり。」 このように、福重の人々の性格まで酷評されています。東彼杵郡役所も持て余す揉め事だったのでしょう。福重の人々が12年間も役場も建てないで争い続けたとは驚きです。

6) この役場の移転先は現在の出張所の所で、「皆同郷古城」です。ここは今富村の庄屋跡で、今富郷だった所です。いつ皆同郷になったか不明ですが、明治26年に小学校が城ノ前に移転するまでの間は、「今富郷の民家を改造して仮校舎とした。」とされています。この今富郷の民家とは、出張所の隣にあった山口さん宅ですから、明治26年はまだ今富でした。

明治時代から始まった鉄道、バスなどについて
 明治時代から建設や運行などが始まった鉄道、バス、福重橋などについて以下にいくつか挙げます。。当然、これらはその後の大正、昭和時代から現在も続いている事項もあります。

福重橋(郡橋)記念碑(沖田町)
鉄道の建設
 明治時代、わが国でも鉄道建設が進められました。福重にも線路ができて汽車が走るようになりました。民営の九州鉄道が明治31年に早岐〜大村、大村〜長与間を開通させました。長崎本線の一部です。現在の長崎本線の開通は、昭和になってからで、早岐〜大村間が大村線になったのは昭和9年からです。

 明治43年の時刻表によりますと、列車本数は上下とも、客車4、貨客車3、貨物列車3で、長崎〜京都の急行が1本、東京〜長崎の寝台車が1本です。大村〜長崎の所要時間は約2時間、運賃は45銭(松原〜大村6銭)でした。

昔のバス
 明治19年、郡川の飛び石のあった所に橋が架けられ、大正7年頃から旧道(長崎街道の部分)をバスが通うようになりました。小型のバスで、長崎医院付近に停留所がありました。なお、戦後もこの道をバスが通っていましたが、ガソリン不足の時代で木炭車でした。

福重橋(郡橋)
 明治19年(1886年)に郡川の飛び石の所に木橋が架けられました。沖田側の橋のたもとだった所に、大きな「福重橋」の記念碑があります。この橋は昭和12年の水害で一部が破損したため、昭和16年に旧橋の50m上流に今の福重橋が架けられました。

 橋の正式名称は「福重橋」で、「郡橋」は通称です。「25号国道 福重橋設計書」(昭和14年度 内務省)によると、長さ58m、幅8.4mの鉄筋コンクリート造、工費43,100円でした。
 ※ この福重橋完成までが「福重村」の時代で、翌年から大村市となりました。

(掲載日:2005年2月9日)
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