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あとがき
福重のあゆみ、大正・昭和時代の福重
1949(昭和24)年10月の敬老会での踊り(野田新地節)
大正・昭和時代の福重

 このページ、『福重村写真集』の記述以外は、・福重の敬老会、・各郷土芸能、・成人式などは管理人(上野)が補足で書き加えていますので、あらかじめご了承願います。

長い歴史を誇る福重の敬老会
 大村市福重地区の敬老会行事は、1919(大正8)年に第1回敬老会が開催(当時、主催者は福重青年団)されました。(昨年2004年9月19日開催された敬老会は、第86回目です)

 第1回以降、戦時中の一時期の中断を除き、毎年継続されてきたという長い歴史と伝統を持つ行事です。

 詳細に調査できていませんが、これだけの長い期間、敬老会行事を開催しているのは、おそらく日本ではあまり例がないと言えます。(もしも、敬老会や敬老の日行事で、情報をお持ちの方は、管理人の方に教えて頂けないでしょうか。お願いします)

 まず、なぜ当時の福重村青年団が敬老会を始められたのか。それは、1919(大正8)年に当時の内務・文部両大臣から福重青年団が長崎県下ただ一つ優良青年団として表彰を受けたのがきっかけでした。

 これを機会に「この美しい福重村を築いて来られた先輩方に感謝の念を表すとともに日頃のご労苦を慰安しよう」と、福重村の福重小学校にて敬老会が始められました。

 この敬老会が盛んだった要因はいくつか推測できますが、当時の福重村(大村市合併以降:福重地区)は、農家がほとんどで、若い人も多く、村人が一同に会するのは唯一の機会だったろうと思われます。

また、農家にとって新米がとれてほっと一息つける時期でもあり、1年の実りに感謝しつつ、お年寄りを敬う気持ちが強かったと思われます。

 戦争による一時的な中断、あるいは青年団員の減少などにより主催形式が青年団・消防団・婦人会、町内会長会の共同開催などの変遷、あるいは場所が福重小学校の運動場から体育館に変わったなどの変更はあります。

 しかし、敬老会の開催自体は続けられて現在に至っています。(さらに詳しくご覧頂く方は、『福重地区、敬老会について』をクリックしてご覧下さい)


各郷土芸能
 既にこれらのことについては、『福重地区の郷土・伝統芸能について』のページに掲載中ですが、福重の各町に伝わる郷土芸能もこの時代に起源をもつものがいくつかあります。ただし、500年以上の歴史がある『沖田踊』、『寿古踊』は、当然のごとく別格です。さらに、立福寺の『龍踊』も安政6年=1859年の銅鑼(ドラ)があることから、この頃が踊りの起源と思われます。

 上記の3つの踊り以外の各町内の伝統芸能を今回私が調査したところ、およそ下表のことが分りました。
郷(町)名 踊り名踊り名 おおよその踊りの起源
今富郷(町) 今富浮立 明治末期頃に伝わり、大正末期頃に初踊り披露との説あり。
重井田郷(町) 重井田浮立 1897(明治30)年頃に伝えられたとの説あり。
野田郷(町) 野田鍬踊 大正時代(1912〜1926年)の中期頃との説あり。
野田郷(町) 野田新地節 明治時代後期、もしくは昭和4、5年頃との説あり。
野田郷(町) 野田楽隊 1940年代中頃(昭和15年以前)との説あり。

 上記の敬老会の項に書いていますが、1919(大正8)年に第1回福重村の敬老会が開催され、その頃からこれらの各踊りは持ちまわりで、ずっと踊られ隆盛を迎えたと思えます。つまり、敬老会が各郷(町)踊りの大きな発表会の場であった訳です。また、例えば、野田の赤似田堤かさ上げ工事完成祝い(1940年代中頃)や野田公民館完成祝い(1953年)などの祝宴の時も、踊られたり演奏された実績が残っていますので、他の郷(町)内でも何かの祝宴で踊られていたと思えます。

 このような郷土芸能が続いてきたのは、敬老会の開催、あるいは現在よりも、娯楽、テレビや芸能などが少なかったということもあるかとは思います。ただ、それ以上に青年団員数が最盛期に数百人とか百人近くなどと多かったこと、また、各郷(町)内、様々なご苦労やご努力はあられるとは思いますが、そこのまとまりが良かったことも考えられます。


福重村写真集『銃後の郷土』表紙(1941年)
福重村写真集
 大陸での戦争が激しくなると、出征兵士に慰問のために送る郷土の写真集が、市町村単位で作られました。福重村でも、「銃後の郷土」という写真集が作られました。

 現存が確認できるものが2種類、3冊あり(寿古の愛合さん、皆同の佐藤さん、草場の内田さん所蔵)、弥勒寺の上野さん所蔵の写真集複製版が1994(平成6)年に作られています。

 昭和16年ころのもので、内容は福重村の風景、役場・学校・警防団(今の消防団)、各郷別の出征兵士の家族、青年団、婦人会などの写真が50枚ほど収められている貴重な写真集です。

<補足>
 この写真集の一部は、『福重小学校紹介、古写真集』の「1)1941(昭和16)年当時『国民学校』の写真」に、その一部(福重小学校関係のみ)を掲載しています。

 なお、全体枚数は約50枚です。管理人(上野)の手元には、掲載写真の何倍という精密画像(全写真)を持っています。プロジェクターにて、300インチスクリーンでも上映できるようにしています。もしも、福重地区の町内会、老人会、PTAその他の会合にお招き頂けるなら、喜んで参りたいと思っています。ご一報頂けないでしょうか、よろしく、お願いします。


<福重村の合併(大村市)と再分村運動について>
 福重村は、1942(昭和17)年2月11日に大きな転機を迎えます。それは、(当時の)東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)大村町、三浦村、鈴田村、萱瀬村、福重村、松原村の1町5村の合併です。これをもって、行政単位の福重村はなくなりました。これは、当時の住民が自ら賛成したのではなく、(東洋一規模の)第21海軍航空廠をおくため、村ではダメということで、上から無理やり合併させられたのでした。

 戦後、その海軍基地も消滅し、合併の意義もなくなりました。また、当時占領軍(GHQ)の指令(戦前、強制的に合併させられた旧町村は、そこの住民の意志に基づき、原状に復することが認められていた)により、元の福重村に戻ることは可能でした。それで、1948(昭和23)年に福重、松原両地区で元の村に戻ろうという再分村運動が起こりました。つまり、福重、松原両地区は、小さい自治体になろうとも、元の村に戻ろうとしていたのです。

 その当時大村市側は、両地区の再分村運動に歯止めをかけようと必死に説得をおこないました。それはなぜか。当時主な産業は、米を中心とした農業で福重地区は一番の穀倉地帯で経済力もありました。両地区が再分村して、税収的にも困るのは、実は(再分村に反対していた)大村市側だったのです。

 大村市側の説得の結果、松原地区は説得に応じ再分村を思い止まったのですが、福重地区では住民投票で再分村賛成について、過半数を制しました。本来なら、ここで再分村が認められたはずでした。しかし、結果はそうなりませんでした。

 大村市側は、なんと長崎県、県議会まで使って再分村を食い止めようとしていました。なかなかそれでもはかどらないため、当時の大村市長は上京し、直接マッカーサー総司令部と第8軍司令官に対し、分村取り消しを福重地区代表に命令する様懇請した結果、聞き入れられ所轄の長崎駐屯地司令部を通じ、分村取止めの命令が出されたのでした。

 再分村運動の結果は、当時の福重地区住民の願い通りにはなりませんでした。しかし、日頃大人しい人柄とか保守的と言われていた福重の住民が、自らの将来を考えて(事実上、お上に対して反旗をひるがえす)再分村賛成の住民投票までして過半数を得た行動力には、今なお何かを感ずるものがあります。

 このホームページは、福重でおこった歴史をまとめ研究するのが、その主旨です。ですから、改めてこれら合併問題や再分村運動の是非や再検証しようとしている訳ではありません。これらのことは、今では歴史上のこととしても、やはり住民の意思に基づく住民自治でなければ、なかなかうまくいかないと言う教訓があるのではないかと、現在も思われます。

 (このページのテーマから少し外れますが)この再分村運動が発生したこともあり、大村市の税収不足などの解消を図るために発足したのが、1952(昭和27)年の大村競艇です。関係者のご努力により、一時期は大村市の税収や雇用創出などに貢献をしましたが、現在は果たしてどうでしょうか。

 戦後直ぐ全国どこの自治体も苦労し、税収のこと、地場産業育成、活性化などに腐心されたと思います。戦後起こった上記の一連の動きは、(結果から論ずるならたやすいことですが、そうではなく)たとえ苦労することが予想できたとしても、何事においても、基本が大切なのだと問わず語らずに当時の福重地区住民の動きが教えておられるようでなりません。(掲載日:2005年2月11日)

<参考資料>大村競艇史(大村市役所発行)
<・参考文献、参考資料一覧は、ここからどうぞ>

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