福重小の紹介 |
福重小学校紹介、古写真集 |
6)1973(昭和48)年の航空写真 |
5)1968(昭和43)年の新校舎写真 |
4)1966(昭和39)年頃の新校舎写真 |
3)1956(昭和31)年頃の木造校舎写真 |
2)1932(昭和7)年の卒業写真 |
1)1941(昭和16)年当時『国民学校』の写真 |
0)1923(大正12)年頃の福重小学校写真 |
6)1973(昭和48)年の航空写真 |
この『航空写真』は、1973(昭和48)年に撮影されたものです。撮影年は、福重小学校創立100周年でもあります。また、本写真が掲示してある場所は、本館校舎の玄関または職員室横から2階へ登る階段の壁にあります。なお、本写真は、下記「5)1968(昭和43)年の新校舎写真」と、一緒のパネルに納められ、写真説明文が次の「」内で添えられています。 「昭和45年に相撲場完成。昭和47年に運動場が拡張された。翌48年には体育館が完成し、創立100周年を迎えた。」 ここからは、上野が、この航空写真についての紹介文を書いていきます。 まず、運動場の西側(写真ならば中央下側)に人文字で描いた所をご覧願います。ここには、大きな文字で「ふくしげ」、小さな文字で「1973」と見えています。 次に、この人文字を中心として、その西側(写真ならば左側の上部)から大きく時計回りで、1973(昭和48)年完成の体育館、1969(昭和44)年完成のプール、1968(昭和43)年3月8日落成の現・本館校舎、(白色で小さな屋根の)給食調理棟(現在の家庭科室の所)、少し離れた小高い所にある宿直室、1958(昭和33)年5月完成の現・東校舎、1956(昭和31)に開園した福重幼稚園の園舎、場周道路を100mほど経て(人文字方向へ戻って来て)写真下部には、1970(昭和45)年に完成した相撲場も写っています。 また、運動場のトラックの向きにも、ご注目願います。現在は、東西方向にトラックの白線が引かれていますが、この航空写真当時までは、南北方向(写真では上下方向)だったことが分かります。 (ご参考までに、現在進行中の校舎全面建て替えが竣工「2025年春頃か?」すれば、先のリンク先ページのイメージ図の通り、再度、今回の古写真と同じくトラックの向きは南北方向に戻る予定) あと、写真の左下部(西側)に、この当時は四角形の水田(田んぼ)3〜4枚が見えています。上野が通学していた当時、この田んぼは、単に「学校の田んぼ」とか「学校田(がっこうでん)」と呼んでいました。ただし、土地所有者が福重小学校(大村市)だったのか、または地元の方の所有地だったかまでは知りませんでした。この田んぼは、毎年、児童によって田植え、稲刈りなどもして、ウルチ米(普通のコメ)は、学校の給食用として、餅米(モチゴメ)は、餅つき用にして全校児童で食べた記憶があります。 その後、この学校田は、1969(昭和46)の運動場拡張後、さらに学校敷地が拡張された時に、埋め立てられたのではと推測しています。現在、この田んぼの跡は、植栽、鉄棒、砂場、体育用具やクラブの倉庫、学童保育の建物などがあり、さらには正門から福重幼稚園側に続く場周道路ともなっています。 ご参考程度に、この撮影年以降、福重幼稚園の新園舎は、1979(昭和59j年1月に完成、その場所も現在地に変わっています。ただし、その場所は、この古写真では体育館後方のプールの左横ですから、この当時(私が見た目で)、まだミカン畑のようです。あと、相撲場の現在地は、、この写真当時より、数十メートル東側に移設されたのではないかと思われます。 なお、この航空写真は、学校敷地が分かるだけでなく、学校周囲の福重町(当時は「矢上郷」)の住宅地や耕作地が良く分かるものです。その後の地域変遷(発展)の確認できる資料としても、価値観がある写真といえるでしょう。 (第一次掲載日:2022年7月6日、第二次掲載日:7月25日) |
この『新校舎写真』は、1968(昭和43)年3月に撮影されたものです。念のため、写真下部に手書きで「福重小学校新校舎(S34.8.竣工)」と書いてありますが、これは「S43」の間違いだと思います。なぜなら、前回写真(この下の写真)より、この校舎の方が新しく、また、学校の文書記録にも「昭和43年3月8日、新校舎2階建(鉄筋コンクリート)校舎落成」と書いてあるからです。 竣工後、この新校舎及びそのまわりは手入れされ、立ち木や花壇その他良くなっています。(現在の写真は、ここからご覧下さい。) (掲載日:2004年11月13日) |
この『学校全景の航空写真』は、1966(昭和39)年11月に撮影されたものです。中央の(当時)本館新校舎は、1958(昭和33)年5月に完成しました。1956(昭和31)年頃に写された以前(下部)の写真に写っている木造本館校舎が、危険校舎に指定されていたため、大村市で初めての鉄筋ブロック二階建校舎として建設されたものです。 運動場には、人文字「福小」(福重小学校)、「1964」(1964年)が、写っています。学校まわりの風景は、先にご紹介した1956(昭和31)年頃の写真と、田んぼは大きく変わらないようにも見えます。ただし、当時の農業政策の関係からか、畑などは、みかん畑が増えているように見えます。 当時、戦後の米不足からの供給が進み、次は「みかんさえ作れば儲かる」みたいな農政が語られ、この福重地区でも畑や山林の開墾が多くおこなわれました。その後、どうなったかは、もう皆様ご存知の通りです。(掲載日:2004年10月23日) |
この左側と中央両方とも木造校舎の写真は、撮影された年月日が記載されていませんでしたが、1956(昭和31)年頃に撮影された物と想像されます。なぜかと言いますと、1956(昭和31)年に福重幼稚園が小学校敷地内に新設(併設)されました。写真にも木造本館校舎右隣に白い屋根の真新しい幼稚園が写っています。また、同時期に学校給食もスタートし、給食棟も写真中央左に見えます。 また、この中央の木造本館校舎は、1957(昭和32)年頃に取り壊され、1958(昭和33)年5月に鉄筋コンクリートの新本館校舎が完成しています。ですから、この航空写真は、福重幼稚園が完成して木造本館校舎が取り壊される前に撮影されたものといえます。これは私の推測の域をでませんが、このような航空写真は、何か新しい建造物(この場合、福重幼稚園)を撮る場合が多いので、たぶんにこの幼稚園新設直後の撮影と思われます。 なお、この木造本館校舎は、福重小学校が以前あった皆同郷から1945(昭和20)年11月6日移築し、使っていたものです。(戦前の校舎写真は、ここからご覧下さい)いまた、写真左側の長い平屋木造校舎は、1948(昭和23)2月新築完成し、7教室ありました。どちらの木造校舎も、また、当時この地にあった幼稚園含め、懐かしく思われる方も多いのではないでしょうか。あと、運動場の前(写真下部)には、学校の田んぼも見えます。(掲載日:2004年10月19日) |
この卒業写真は、1932(昭和7)年3月に撮影された物です。当時の福重小学校は、皆同郷城の前にあり、撮影場所は、2階建て木造校舎の正面玄関です。ここに写っておられる小学生の方は、生まれが1919〜1920(大正8〜9)年で、小学校入学が、1925年(大正末期=昭和元年)4月です。 写真左上の「尋常科第20回卒業記念」の「20回」は、1908(明治41)年に義務教育年限(4年から6年へ)が、延長されていますので、その後から通算して6年生卒業生は、20回目と思われます。 卒業生62名中、写真には60名の児童、福重村・村長1名、校長以下先生が10名写っておられます。前回掲載した『1941(昭和16)年当時の福重小学校写真』と対比してご覧頂けないでしょうか。まず、服装で男子児童の学生服姿もありますが、男女とも圧倒的に着物姿が目につきます。また、女性の先生方も同様です。 着物姿の関係からか、少し大人びた感じに見える児童もいます。また、写真右側には当時まだ珍しかったと思われますが、ピカピカ光ったような新品の自転車が写っています。この当時卒業生が62名ですから、2004年現在(6年生=40人)対比で、けっこう多かったと思われます。 この卒業生はまとまりが良く、その後同窓会もずっと現在まで続けておられ、先生も「万朶の桜(ばんだのさくら)」と言う歌を詠まれ、同窓会などで教え子と一緒に歌われたそうです。ただし、男子卒業生は、その後ほとんどが出征(戦争に行くこと)され、その内の10人近くが戦死されたそうです。 なお、写真中央に左下から右上の方に黒い影のように写っているのは、当時、福重小学校のシンボルみたいになっていた大きい栴檀(せんだん)の木の影と思われます。(掲載日:2004年9月12日) |
このページに掲載しています写真は、1941(昭和16)年11月頃に撮影された物です。この写真の原本は、出征兵士の慰問袋入れた『銃後の郷土』という写真集です。ここには、当時の福重村の写真約70枚が収められています。 写真集には、村長の挨拶を始め重井田郷、立福寺郷、野田郷、今富郷、草場郷、矢上郷、弥勒寺郷、皆同郷、寿古郷、沖田郷ごとの出征兵士の家族、婦人会、青年団、それに村役場や神社などが写っています。 集合写真がそのほとんどで、戦争中のことゆえ、笑ったり、なごやかな雰囲気のものではありませんが、これを戦地で見られた福重出身の方々は、どんな思いで見られたか、想像難くないものがあります。また、福重村の皆さんの優しい心も伝わってきます。 今回掲載しましたのは、福重小学校に関係していると思われる写真のみです。なお、上野(『福重ホームページ』管理人)の手元には、掲載写真の何倍という精密画像(全写真)を所持し、プロジェクターにて300インチスクリーンでも上映できるようにしています。もしも、福重地区の町内会、老人会、PTAその他の会合にお招き頂けるなら、喜んで参りたいと思っています。 なお、写真説明文は 数人の方にお聞きした内容を参考にして書いたものです。(掲載日:2004年7月19日) |
ラジオ体操 この校舎は、現在地(当時の矢上郷、今の福重町)に移る前の、当時の皆同郷城ノ前(現在の福重住民センターの前付近)にありました。 木造の校舎二棟で、内一棟は2階建てでした。正面玄関は、今富方面を向いていました。大きな栴檀(せんだん)の木は、学校のシンボル的存在で、当時を知っておられる方は、皆覚えておられました。 この写真を見て、「小学生にしては背が高いなあ」と言う方もおられますが、手前側は青年学校生徒と思われます。見えにくいですが、奥の校舎側が小学校生徒と考えられます。 |
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男子児童 写真集には、「軍人家族児童」と題が付いています。(下記、女子生徒も同様) 80名の集合写真です。ほとんど学生服姿ですが、中には着物の生徒もいて、時代を感じます。 また、前列左側も見れば靴ではなく、藁草履(わらぞうり)です。 当時、靴は貴重品で、たとえ靴を履いていても、中には穴があいていたりとか、修繕しながら大事に使っていたそうです。 写真手前の花壇には、野菜が大きく育っています。 |
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女子児童 女子生徒62名プラス先生3人(内女性1人)の集合写真です。 服装はセーラー服、着物、スカート、ズボンと様々ですが、藁草履(わらぞうり)も多いようです。 (身長、体重などの統計は不明ですが)この写真見ても当時の小学生の身長は、現在に比べかなり低いように見えます。 (上記写真同様に)ここに写っておられる方は、もうほとんどの方が、(2004年7月現在)70歳以上だと思います。 |
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先生 真ん中の校長先生を中心に13名写っておられます。 男性の若い先生3名は、学生服です。また、国民服に足の方はゲートルを巻いておられる方もいます。女性は、黒か紺色のスーツ姿です。 その年代によって当然先生の人数の変化はあったと思われますが、当時13名、(2004年)現在14名ですから、先生の人数自体は大きい開きはなかったと思われます。 |
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勤労奉仕活動 写真集には、(原文は旧漢字体ですが)「国民学校児童による寿古部落における勤労奉仕の実況」と題が付いています。 寿古郷は平坦な所ですから、場所の特定はできませんでしたが、かなり広い田んぼのようです。 大人と一緒に稲刈りとその後、架け干しするために稲を運んでいるところと思われます。 30人近く写っておられますから、大人の方は小学生が手伝ってくれるので、さぞ張り合いも出て、さらに実際大助かりだったと思います。 |
大神宮秋季例祭、浦安の舞 写真集には、「村社 大神宮秋季例祭奉納浦安の舞」と題が付いています。 今富郷にあるこの大神宮は、草場郷にある松ノ尾(まつのお)神社とともに、福重村の守り神様でした。 秋季例祭には、奉納相撲とともにこの浦安の舞もおこなわれていたようで、この踊りを見たと言う人は、けっこういらっしゃいました。 また、女の子に写真のような着物や髪飾りするのは自己負担で、裕福な家庭でしかできなかったとも聞きました。 |
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この福重小学校の校舎全景写真の撮影は、「1923(大正12)年頃」と言われています。場所は、当時、皆同郷「城ノ前」(現在の福重出張所の前付近の郡川寄り)に学校があった頃です。あと、あくまでも2014年5月現在の話しですが、福重小学校校舎全景写真を写したもので現存するものとしては、最古の写真とも言えます。校舎そものの全景は写真の通りですが、手前側の道路は、現在もあるのか、どうか含めて諸説あるようです。 また、中央部右側の2階建てに見えるのが本館校舎と思われます。そして、中央部に大きくて高い木がありますが、これが当時、学校のシンボル的な存在だった栴檀(せんだん)の木と思われます。 <この項目は、新たな情報提供あれば改訂や補足含めて考えていきます。しばらく、お待ち下さい> (掲載日:2014年6月2日) |
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