福重小の紹介 |
福重小学校紹介、2005年航空写真
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3)2005年11月2日 学校と周辺の各町 |
2)2005年11月2日 学校と福重町周辺 |
1)2005年11月2日 学校全景と人文字 |
この「3)2005年11月2日 学校と周辺の各町」写真は、下記の『1)2005年11月2日 学校全景と人文字』と同様に撮影されたものです。写真中央部に白く見える運動場のある福重小学校から右上側が草場町です。(草場町のさらに上部は松原地区の各町です) 左上側が寿古町でさらにその上部=青く見えるのが大村湾です。同じく右下側が福重町と弥勒寺町、左下側が皆同町です。 中央下側から右上方向に伸びるのがJR大村線で、その横にやや見にくいですが国道34号線です。中央部やや左で(写真では上下に貫いて流れているのが)石走り川(下流では『よし川』と呼称)(弥勒寺町の上部に水源があり最後は大村湾に注ぐ約1.9kmの川)です。 左下側に、こんもりした丘が見えますが、ここが戦国時代に大村純忠も居城した今富城跡です。当時の高さは11m、東西436m、南北110m、南側に郡川、北の方は深田で北方からの攻撃への備えとして、重要な位置に築かれた城でした。(今富城の詳細は、ここからご覧下さい) 寿古町の九州電力・大村発電所跡は(2006年2月現在)解体工事中ですが、この写真には発電所のほぼ全景が写っています。2006年夏に全て撤去される予定ですが、その意味からしても、大村発電所全景の写っているこの角度からの写真は貴重かもしれません。 あと、寿古町、草場町、福重町、皆同町の低い田んぼは(福重小学校や今富城跡周辺まで)、石器時代や古代頃まで海でした。この付近は何メートルか掘れば今でも貝などの堆積物が出るそうです。また、道路工事や田んぼの基盤整備などがなされるまで、各所にいくつも「舟つなぎ石」と呼ばれる石もありました。(「舟つなぎ石」の詳細は、ここからご覧下さい) (掲載日:2006年2月1日) |
この「2)2005年11月2日 学校と福重町周辺」写真は、下記の『1)2005年11月2日 学校全景と人文字』と同様に撮影されたものです。福重小学校を中心に上側と右側が福重町、下部が皆同町、左側が草場町となります。下記の写真に福重幼稚園の全体が写っていませんでしたが、この写真には小学校プール左側にオレンジ色の屋根が見えます。また、学校右側やや上部(少し小高い位置)には、屋根が赤色に見える妙宣寺保育園、その右には妙宣寺(本堂)さらに直ぐ右隣に位牌堂の緑屋根が写っています。 既に掲載しています別ページの「福重小学校の古写真ページ」の『3)1956(昭和31)年頃の木造校舎写真』と対比して頂ければ良く分かりますが、学校周辺に九州電通の工場はじめ住宅地が増えていることが一目瞭然です。 50年前は、学校周辺は一部旧家がありましたが、写真上側は畑、下部や左側は全て田んぼと言うようにほとんど農地でした。これらをその当時から知っておられる年代の方は、この写真を見られると(マダマダ農地はありますが)改めて住宅が増えたなあという実感をされるのではないでしょうか。(掲載日:2006年1月28日) |
このページに掲載しています写真は、2005年11月2日13時25分から13時30分に撮影されたものです。この写真に写っています学校校庭(運動場)の人文字は、生徒さんと先生全員で造られました。 この日は好天だったので、太陽光線がまぶしかったそうです。また、撮影は1回で完了となり、人文字の組み直しとか撮り直しなどはなくて、順調だったとのことです。また、皆で手を振っても良いと言うことで、張り切って降っていたのが印象的でしたとの感想も寄せられました。 上野の写真感想ですが、見慣れている校舎や校庭ですが、こうやって空からのを見ると、改めて建物などの位置関係が良く分かるなあと言う印象が強いです。「2005 福小」の人文字も乱れることなく、さすが福重小学校の皆さんだなあと感心しました。 |
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