福重出身
このページ、福重(野田郷=現・野田町)生まれの浜田彪(はまだ ひょう)さんについて、書きます。( 浜田さんの略歴は、 ここからクリックして、ご覧下さい)
浜田彪さんは、1870(明治3)年11月19日当時の長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現在の大村市野田町)で、一瀬信造さんの次男(一瀬彪)として生まれました。
(後年、濱田家の養子となり家督相続され、後で「浜田」と改称されました) この野田郷の一瀬家は、江戸時代から武士の家系でした。明治時代になり、お父さんの一瀬信造さんは、福重村、初代の戸長=村長になられた方です。
浜田(当時、一瀬)さんは、大村中学校を卒業後、蔵前工業高等学校(東京高等工業学校)と進まれました。地域に伝わる話しとして、いずれの学校とも大変苦学しながらも、優秀な成績で卒業されたとのことです。
三菱造船所時代
高等学校卒業後の1891(明治24)年3月に長崎三菱造船所に入社され、優秀な技師及び経営者として仕事に精励されました。その間の活躍ぶりが、下記の本の中に書かれてあります。
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国際交流物語(著者:松本晃氏 発行:2003年10月15日)
(この本の47ページから49ページにかけて、長崎造船所時代の浜田さんの人物紹介及び略歴が書かれているので、次の通り引用いたします)
(前略)浜田彪の人物紹介(中略)「長船ニュース」(昭和59年7月2日、第287号)(中略)「六代所長 浜田彪。入社後浜田と改姓。スポーツを好み、所内ボートレース大会では率先してこいだ。また同郷の友人の遺児・松本寅一(のち大村市長)の米国留学や、帰国後の理想現実に親身の援助を惜しまなかったなどエピソードから、後進への温かい人柄がうかがえる」
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常陸丸 日本国内建造初の近代的大型貨客船。1898(明治31)年竣工 6,172トン 3,847馬力 14.184ノット。1904(明治37)年日露戦争で兵員輸送中、ロシア艦隊の砲撃を受け玄海灘で戦没した。(資料出所:三菱資料館の資料) |
さらに「長船ニュース」は浜田彪の三菱重工業における略歴を次のように伝えている。「明治24年3月三菱に入社、長崎造船所の機械製図を担当。須磨丸、立神丸などの機関設計に続いて、明治28年本社から常陸丸建造について打診があった際、塩田泰介とともに『引き受け可』との報告を行ったが、これが当所飛躍の一大要因となった。
明治30年9月飽ノ浦中央発電所完成、続いて明治31年1月電気工場も新設され、浜田はその主任技士も兼任している。同年8月欧米出張、造船・造機および電気事業を視察し翌32年5月帰国した。
明治40年3月副長(副所長)心得、翌年3月機関工場支配人兼電気主任。44年3月副長、大正6年11月1日所長就任。当時、第一次大戦下の好況で当所生産は著しく伸び、従業員も1万8千人を超えた。
大正9年2月本社へ転じ常務取締役となり、大正14年12月には会長就任。昭和7年8月に辞任するまで世界的大不況のなかで当社経営に肝胆を砕いた。会長辞任後は顧問を委嘱されていたが昭和13年11月7日脳出血で急逝、享年69歳であった。
精緻な思考と強い信念の凛呼たる人ながら、後進には温かい高潔な人格者であった」
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学生や地域に多大な貢献
浜田彪さんは、三菱長崎造船所の最高経営責任者であったばかりではなく、長崎県(特に、当時の福重村)及び東京で若い学生や地域に多大な貢献をしておられます。現在、資料や本などで分かっている範囲内で次に書きます。
イ)長崎県立長崎図書館は、1912(明治45年)に設立されました。その際の史料収集に浜田さんは資金援助したとの記事(長崎県立図書館初代館長、永山時英氏の談話=大正13年1月20日新聞報道)もあります。
ロ) 1929(昭和4)年、福重村の若い学生のため、「育英資金」=奨学資金1万円を寄付されています。この当時、この村では、家の建設費用が、建坪約40で300円から400円で出来たと言われています。この奨学資金1万円は、単純計算ながら家30戸以上に相当する大きな金額でした。
また、この奨学資金とは別に、同郷の松本寅一さん(後の大村市長)へは、アメリカ留学費用や生活費、帰国後の『国際フレンド会館』(インターナショナルハウス)の建設費用(1933年=昭和8年10月15日完成)などにも寄付されています。さらに、同郷(旧大村藩内)出身で東京の高校や大学に進んだ学生に対して、他の方と共同で育英会を設立し、援助もされていました。
このような浜田さんの奨学資金、育英会活動を讃えて、現在、大村市立歴史資料館(大村市立図書館2階)で、大村出身の偉人展などがあれば、浜田彪さんは写真とともにその業績が展示されています。同様に、大村市立福重小学校・校長室にも飾られています。
ハ)出身地の野田郷(現在の大村市野田町)へは、1930(昭和5)年、『野田農事改良実行組合』設立援助のために750円を、さらに1933(昭和8)年には、野田郷青年団へ100円を寄付されています。この資金をもとに青年団は、当時まだ珍しかった楽器の購入資金にあてられたと言います。
そして野田楽隊(約10人編成のブラスバンド)が結成され、この楽器は、その後当地にある赤似田堤(福重地域最大の溜池)の落成式、大村市内での各種行事、野岳湖での運動会や福重の敬老会などで演奏されました。また、現在、野田町公民館には、浜田さんの業績を讃えて新聞紙半分位の大きい写真と略歴が掲げてあります。
人柄などについて
先にご紹介した本『国際交流時代』、各地での奨学資金、各建物の建設資金の援助実績でもお分かりの通り、郷土愛の強い、本当に面倒見のいい、人に優しい人だったようです。
また、長崎三菱造船所当時、実家横に溜池があり、そこに模型の船を浮べて試験をしていたとの目撃談もあり、研究熱心だったと思われます。東京在住の頃、帰郷された時(ここには当時大きな柿木が3本あり)「この柿は、甘くて美味しかった」などと話されていたと伝わっています。(掲載:2004年5月20日)
参考資料:
財団法人三菱経済研究所付属・三菱資料館よりの提供資料
国際交流物語(著者:松本晃氏 発行:2003年10月15日)
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