郡・福重という地名
郡地方(こおりちほう)
福重・竹松・松原の地域は、古くから郡(こおり)地方と呼ばれていました。奈良時代に全国が国・郡・里に分けられ、郡の役所は郡家(ぐうけ)とよばれました。大村・東彼杵地方は肥前の国の「彼杵郡(そのぎのこおり)」といい、郡の役所は、最初は彼杵に置かれましたが、後にこの地方で最も広い水田地帯である福重・竹松の地域に移されました。
そこでこの地方を郡と呼ぶようになったとされます。全国各所にある郡の地名は郡の役所のあった所です。郡家の所在地は沖田か寿古の好武だったと考えられます。なお、今では「大村の郡地方」と言いますが、古くは「郡の大村」という文書もあり、郡地方が大村・彼杵の中心でした。姓氏家系大辞典も「彼杵大村郷は後の郡村の地をいう」としています。
郡地方の中で、福重地区は何と呼ばれていたのでしょうか? はっきり示す文書はありませんが、鎌倉時代の末ごろ(14世紀前半)の文書に3回ほど「本庄(ほんじょう)」という地名が出てきます。「彼杵本庄の内の龍福寺……」「(江ノ串三郎は)本庄・今富・大村を駆け回り…」と龍福寺関係文書や東福寺の僧の書いた博多日記に書かれています。
龍福寺も含めた松原・福重を本庄と呼んだ時期があったようです。全国に荘園が広がった平安時代〜鎌倉時代に郡川の右岸地域(寿古側)は京都の東福寺の荘園になりました。その荘園の役所が寿古の好武にあったからだと推定されます。郡川の好武城址前の渕がホンジョウ渕と呼ばれることも関連がありそうです。 なお、左岸の沖田は仁和寺の荘園でした。
福重村・今富村・皆同村
古くから郡地方と呼ばれていた地域が、村を単位として治められる時代になると郡村となりました。南北朝時代(14世紀)から郡村と呼ばれたようですが、江戸時代になると正式村名になります。やがて、郡村が8か村に分けられます。郡村の中に枝村として8か村が置かれたのです。
郡 村 |
福重村・今富村・皆同村 |
竹松村・中村(のち黒丸村)・原口村 |
松原村・野岳村 |
福 重 地 区 |
福重村 〜 寿古・草場(東光寺を含む) |
今富村 〜 今富・龍(立)福寺・弥勒寺・野田・重井田 |
皆同村 〜 皆同・沖田・矢上 |
村名は江戸時代の初期から江戸時代の末期の1814(文化11)年まで郡村の枝村としての福重村・今富村・皆同村の3村であり、現在の福重地区全体を含む村名ではなかったのです。福重村の庄屋は株田の前川茂さん宅、今富村の庄屋は福重出張所付近(旧山口さん宅)、皆同村庄屋は皆同の田川義之さん宅の所にありました。
この時期(江戸時代の大半)の地名は「福重村草場」「皆同村沖田」「弥勒寺は今富にあり」「龍福寺は今富にあり」「妙宣寺は皆同村矢上の里に移り」と書かれています。なお、今の福重出張所付近の今富城跡は今富村でした。(今富に築かれたから今富城というのです。)皆同郷になったのは明治になって、しばらくしてからです。
龍福寺を立福寺と書くことは江戸時代にすでにありました。また、今は松原に属する東光寺集落は草場の一部で福重村でした。(明治10年に松原に編入)
福重村の合併
1814(文化11)年(明治維新の53年前)、大村藩は藩財政倹約のため村の統廃合を実施しました。今でいう行財政改革です。このとき、今富村・皆同村は廃止されて福重村に寄村(合併)しました。
合併後の福重村の庄屋は今までどおり寿古に置かれました。福重地区全体が福重村一つになったのは明治維新の50年前からなのです。なお、竹松・松原も同時に一か村になりました。
以上のように江戸時代の大半の時期、福重とは寿古・草場のことだったのです。元福重小学校校長の深草静雄先生(大村史談会副会長)は「福重とは水が豊かで水田の多い所の意味であり、寿古・草場のみを指す合併前の福重村の地名として、その自然に十分合致している。」と述べておられます。
福重の主な地名について
人々が定住生活をするようになると地名が発生します。今日残っている地名の大部分が古代からのものだといわれます。地名の起源には大きく分けて自然地名と歴史的地名の二つがありますが、歴史的地名の面白い例があります。ゴルフ場の北側、重井田の一番上と東彼杵町との境に「めんきゅうじ」という所があります。昔、大村の殿様がこの辺の山に来たとき、お梅という娘が食事の給仕をしたら、殿様が「梅の給仕は美味しいのう」と言われたことから、ここを「梅の給仕」⇒「めんきゅうじ」というようになったと伝えられています。
福重には大字(郷名、今の町名)が10、小字が136ありました。大字は以前の郷名で今の町名として残っていますが(矢上のみ消滅)、小字は全て昭和61年の「町名・町界変更」により廃止されました。今、市町村合併が声高に叫ばれていますが、これによってまた全国的に多くの地名が消え、新しい合併町名が生まれることでしょう。自然地名にせよ歴史的地名にせよ長い年月にわたって親しまれてきた地名という貴重な文化遺産が無くなることはさびしい限りです。
なお、江戸時代まであった地名で明治以降に小字として残らなかったものもあります。上川原(沖田)、江崎川原(沖田)、正蓮寺(皆同・寿古)、たいろう丸(草場)などです。また、昔と漢字の違ってきたものもあります。(井理宇⇒井龍(今富)、金屋⇒金谷(沖田)、龍福寺⇒立福寺など)
福重地区、各地名の起源などについて
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今 富 |
現在の今富町のみを指すのか、重井田〜弥勒寺までの4郷を含めた地名なのかはっきりしませんが、「入江や丘があって耕地が多く、豊かな地方」に解釈すれば、現在の今富を指す地名と考えられます。なお、鎌倉時代には今富氏がいて元寇の際に出動したことが史料に出ています。今富の尾崎の古城跡は今富氏の本拠だったともいわれています。ただし、今富氏がいたから今富というのではないようです。 |
皆 同 |
「皆同」という文字は「カイドウ」という音に後で当てたものと思われます。「カイドウ」という発音からは、昔は周囲が海だったことから「海道」(海の中の道)か「海戸」(海の入口)が考えられます。 |
寿 古 |
江戸時代の大村藩の史料を探しても寿古という地名は出てきません。寿古を福重といったから福重以外の呼び名がないのでしょう。ただし、「須古踊」「福重踊」は出てきます。合併によって福重の範囲が広くなったので大字(郷名)が必要になり、明治になって須古踊(佐賀県の白石町の須古から伝わったとされる。)に因んだスコを佳い字を選んで寿古としたものと思われます。 |
沖 田 |
「広々とした水田」の意味がぴったりですが、「おき」には招き寄せるという意味もあり、神を迎えて祭りを営む神聖な田と解釈し、沖田踊(元来は神事芸能)の起源や昊天宮(彼杵郡の鎮守で、昔は郡中付近にあった)と関連させて考える研究者もいます。 |
立福寺
弥勒寺 |
立福寺・弥勒寺というお寺があったことからきた地名。龍福寺は今は立福寺と書かれ、発音も「リュウフクジ」から「リフクジ」に変わっている。なお、福重には他にも冷泉寺・正蓮寺・女(如)法寺など、お寺があったことからきた地名があります。 |
「古くからの○○町」という地名について
今、町と言えば「家が立ち並び、店もあり、人口も多い所」というイメージが最初に浮かぶと思いますが、本来はマチ=間路、「田と田の間の道」=「畦で囲まれた土地」の意味です。奈良時代に班田収受が行われた条里制遺跡のある沖田に蔵ノ町、徳町があり、黒丸に深町、高原町があるのは奈良時代に早くも大水田地帯が広がっていたことを示します。
古い町地名はそういう歴史を秘めているのです。その視点で皆同の「柳町」も気になります。柳町という地名、沖田と同じく同一面積に整然と区切られた長方形の地割(地番)は奈良時代の条里制の存在をうかがわせます。
福重地区の現在の町名について
福重には現在10町あります。その町名は「福重町」「寿古町」を除いては、いずれも長く使われてきた古い地名です。現在の町名について説明します。
1)現在の町名は、昭和61年の「町名町界の変更」に際して、今までの郷名(大字)を廃止し、新しく町名を付けたものです。
2))昭和61年の「町名町界の変更」の際、「矢上郷」以外の9郷は、明治22年に制定されて以来使ってきた郷名をそのまま町名としました。
3)「矢上郷」だけは、町内の多数意見で、矢上の地名を使わず「福重町」を名乗ることになりました。矢上という古い地名が消えたことは残念ですし、狭い範囲の「福重」とは寿古を指していたのですから、歴史的な観点からは疑問も感じます。
4)寿古は前述のように江戸時代まではない地名で、福重と呼ばれていた寿古地区が、合併による広い福重村の成立で寿古だけの呼び名が必要になり、明治になってから「須古踊」に因んで、「すこ」と名付けて寿古と書くようになったものだと思われます。(掲載:2004年12月6日)
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