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あとがき
福重のあゆみ、福重の土地の形成
福重の土地の形成
 福重は大村市の北部に位置し、多良岳系の火山である郡岳・鉢巻山の溶岩でできた丘陵地と、郡川が多良火山の麓に造った扇状地の部分から成り立っています。

多良岳系の火山
 大村の東方は長崎県と佐賀県の県境にそびえる経ケ岳(1076m)を主峰とし、多良岳(983m)、五家原岳(1058m)を中心とする火山と、その外側にできた複数の寄生火山から成り、複雑な地形をしています。

 多良系火山の活動は100万年前から始まり、25万年前の五家原岳を最後に活動を終えたとされます。(経ケ岳は60万年前、多良岳は40万年前)郡岳(826m 重井田)・鉢巻山(335m 野岳町)、武留路山(341m 東彼杵町)は多良火山の溶岩の上に噴出した寄生火山です。郡岳の溶岩は安山岩で、多良系最後の溶岩です。

 鉢巻山は約80万年前に玄武岩を噴出しましたが、溶岩の粘性が低いために溶岩が流下してしまって低平で、どこにあるのか分かりにくい山です。それに対して武留路山は流れにくい溶岩で、火口近くで冷却したためにきれいな円丘型で目立ちます。

大村扇状地
 大村市の中央部の平地は、多良岳から萱瀬の谷を流れ下った郡川(長さ14.6km)が坂口付近から下流に大量の土砂を堆積させて造った扇形に広がる、ゆるやかな傾斜の扇状地と呼ばれる平野です。

 郡川は長い年月にわたってこの扇状地の端から端まで、何度も流路を変えながら流れ、最後に今の沖田と寿古の間を流れるようになったのです。

 郡川の流れの主な変化は(左図)のように推定され、扇状地中央部は約2万年前にはできていたと考えられます。郡川は、最後に北の方に流れを変えて今の流路に移りました。ここは、以前は佐奈川内川の流路だったといわれます。

 今の流路に移った郡川は本城渕を頂点とする新しい扇状地を造りました。それが今の沖田・寿古の部分です。扇状地は沖田側が早くできて土地も高くなったので寿古側が低く、湿地の状態が続きました。好武城跡の高台と今富城跡の高台の周辺を除く寿古側が平野部で最も新しい部分です。

大きく入り込んでいた海
この湿地は、好武の台地と松原の間から東を回って福重小学校の下から今富城跡(出張所裏の高台)の東まで延びており、この地域は古くは海だったと考えられます。

 この地域は最近まで低湿地で、ここを耕作していた人たちは「泥の下には海草の層があり、その下は砂で、貝殻が堆積していた」といいます。

 また、草場にある地名「江良」は入江、「釜ノ内」は小さな湾を意味する地名ですし、矢上の牟田さん横・皆同の白水寺跡(松本さん宅)近くには「舟つなぎ石」と呼ばれる石が残っています。

 更に、寿古の岩間さん宅を「瀬戸口」、堀田さん宅を「鼻ノ先」と呼んでいます。このような土地の成り立ちですから、この部分の人の住み着きはかなり遅かったろうと思われます。

 しかし、福重小学校の下の柳町は、地名、地割からみて古くから水田があったとみられますし、大堂(ううどう 皆同町)では4〜7世紀の土器が見つかっていることから、その頃には低湿地状態になっていたものと考えられます。

 ただ、この地域には伏原(もと福重、現在は松原地区)を除いて家は建っていませんでした。皆同の麻生さんが1952(昭和27)年に建てた家が最初のようです。

 以上のことから言いますと、福重地区の平野部では郡川左岸の沖田がもっとも早く開け、続いて好武の台地・今富城のあった台地(現皆同)の周辺に人が住み着き、その後に海だった部分の低湿地の開発、最後が下川原地区となるようです。(掲載日:2004年12月11日)

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