福重の名所旧跡や地形
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石走川(弥勒寺町、福重町、皆同町、草場町)
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石走川(いしばしりがわ) | 場所:長崎県大村市 弥勒寺町、福重町、皆同町、草場町 |
石走川は、長さ1.895kmあります。最下流では「よし川」とも呼称されます。ここに流れ込む川筋は主なものだけで5本位あって、少し記述しにくいのですが、今回江戸時代に編纂された(大村)郷村記に沿って、書いています。なお、下記で説明しますが川筋の1本も地元では石走川と呼ばれています。 水源も当然主な5本の川筋全てにありますが、郷村記の通り弥勒寺町に発している所から最初に記述しました。この石走川の本流は、弥勒寺町から皆同町と福重町の境さらには草場町の境から松原地区を流れ、大村湾に注いでいます。 |
石走川(写真、中央やや左、上下に緑に見える川筋)
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上の航空写真は、2005年11月2日に福重小学校を中心に撮られたものです。(福重小学校の航空写真の詳細説明は、ここからご覧下さい)この写真の中央やや左側に下から上の大村湾に流れる川筋があります。(写真では濃い緑色に見え、田んぼに挟まれた形で流れています)これが、石走川(下流では「よし川」)です。 江戸時代の(大村)郷村記、福重村の項に、この『石走川』について、下記のように書かれています。「 」内が引用文です。(注:全文文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)
「 石走リ川 水源弥勒寺熊野権現の辺りより流出 川下松原川となるなり 流程凡拾五町程 」 上記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 <石走り川の水源は、弥勒寺の熊野権現様あたりから流れ出し、下流は松原川になっている。川の長さは、およそ1600メートルほどである > このように郷村記に書かれている通り、石走川の下流は現在「よし川」とも呼称していますが、江戸時代は「松原川」と言っていたようです。また、以前は、この石走川の下流=「松原川」、「よし川」をもって松原地区(旧・松原村)と福重地区(旧・福重村)の境になっていましたが、現在の境界線は少し違っています。 この石走川に流れ込んでくる小川や用水路は、現在では主なものだけでも5本くらいあります。まずは弥勒寺町からですが、ここには弥勒寺町公民館や権現様を中央に挟んで二筋の流れがあります。仮に一本目は東側、二本目は西側です。 そのいずれにも野岳湖あたりからの井手(用水路)の水も流れ込んでおり、どこまでを川と言うのか、あるいは「水源は、ここである」と言うことは、私には分かりませんでした。それで、このページの写真「弥勒寺町の上流域(東側と西側)」の2枚の写真は、大村郷村記にしたがって弥勒寺町の権現様近くのやや上部の川筋を両方とも撮ったものです。念のため、当然この撮った地点よりも両川筋(用水路)とも、もっと上部まで水路は続いています。 三本目の川筋(これも石走川と呼称されている)として、一番上流部は野岳町の大切間(バス停の名前にもなっている)から用水路として流れ、弥勒寺町内や福重町内、最後は(上記の空中撮影写真では見えにくいですが)九州電通の出入口あたりで石走川本流に流れ込んでいます。 この三本目の川筋と石走川本流と合流している周辺は、地名=字(あざ)で「石走」と呼ばれています。つまり、この川の名前と同じです。ここは、奈良時代初期、郡岳(当時の名称:太郎岳、のちの多良岳の語源)に神社があり、その一の鳥居が、この石走にあったと言われています。ここを起点として、尾根づたいに郡岳まで道があったと思われます。また、ここには『石走道祖神』もあり、道中の安全などを祈願したものと思われます。(この『石走道祖神』の詳細は、ここからご覧下さい) 地元の方の中には、この三本目の川筋を石走川と呼ばれています。なぜなら、名前の通り「石が流れるくらい、この川は急だから」と「地名の字(あざ)『石走』」との関係からです。なるほど上記の江戸時代の郷村記には確かに弥勒寺の熊野権現様あたりの水源を発した川を石走川として記述してあるので、そのように私は書いてきましたが、この地元の方の説明も、その通りだなあと思いました。それで、この川筋も石走川として取り扱っていきたいと思っています。
あと、五本目の川筋は、草場町の馬込水源(右側下の写真)があります。この川筋は、草場町と松原地区の境を沿って、最後は、石走川の最下流=「よし川」に流れ込みます。 馬込水源付近の旧地名は、字(あざ)馬込(まごめ)です。この周辺には、奈良・平安時代、肥前国の首府(現在の佐賀県、佐賀市大和町)に通じる官道の駅(うまや)=『新分駅(にきた、にいきた』があったと言われています。駅には常時、馬5頭が準備されていたと言います。 馬込という地名にも、その名残がありますし、馬を養い人が生活するにも十分の水量がありますので、ここに古代の駅があったことは、名実共に納得できるものです。また、ここには以前、この水量を生かして水車もあったそうです。 (掲載日:2006年7月7日) |