福重にある橋
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福重にある橋
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福重橋(通称:郡橋)
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この橋は、長崎県内における大動脈の一つ国道34号線に架かっている国管理の橋です。下流に郡大橋ができるまで福重地区では、最大最長の橋でした。 歴史をさかのぼること奈良時代、肥前国(首府は現在の佐賀大和)の長崎県央の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)が、この近くにありました。 その彼杵郡家(そのぎぐうけ)は、この福重橋の下流300m位、寿古町の好武城周辺と言われている)にあった関係上、郡川を渡り佐賀方面あるいは逆に島原方面に向かうため、この橋の下流のどこかの場所で飛び石を渡っていました。(古代の道の地図などは、ここからご覧下さい) また、江戸時代初期には、より一層この周辺のことが明確になってきます。この橋の下から70m位の下流には、シーボルトもお供の絵師に描かせた「郡川の伝石(飛び石)」の絵や説明文がありました。(このことの詳細は、「長崎街道の内、福重往還道、郡川の渡し(飛び石)」ページをご覧下さい) つまり、橋そのものはなかったのかもしれませんが、この周辺は奈良・平安時代の頃より、重要な道のひとつで、多くの人が飛び石を渡っていたと思われます。 その飛び石のあった周辺に最初に木造の橋がつくられました。竣工は1986(明治19)年で、下記写真1)の撮影は大正時代(1912年〜1926年)初期と思われます。下記写真2)は、現在、沖田町側にある福重橋の記念碑です。 その後 1937(昭和12)年の水害で一部破壊され、しばらくの間仮橋を使用していました。1941(昭和16)年に旧橋の50m上流に新たに鉄筋コンクリート橋が架けられました。 旧・内務省の1939(昭和14)年度資料には「25号国道、福重橋設計書、長さ58m、幅8.4mの鉄筋コンクリート造、工費43,100円」と書かれています。 なお、下記写真4)の右側に工事用レールがありますが、これは土や石などの運搬用で、それは現在の皆同町の今富城址周辺から運ばれていました。この鉄筋コンクリート造の橋がかけられて何十年か経た後、交通量がさらに増え、歩行者の安全上、橋の両脇に歩道が設置されました。 その時、下記写真3)に見られるようなコンクリート製の欄干、親橋や橋の銘板は撤去され、現在の金属製に変わりました。その意味からも下記写真の3)と4)は架設当時の福重橋の原型を伝えるものとして貴重かもしれません。 |
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場所:長崎県大村市、皆同町と沖田町、郡川(こおりがわ)の上に架橋されている。 長さ:57.84m 幅 : 7.50m 高さ: 6.90m ・初期の木造橋は1986(明治19)年に竣工 ・現在の橋の竣工年は 1941(昭和16)年3月 さらにその後、この橋の両脇に歩道が付いた。そのため、鉄筋コンクリート製の欄干が金属製に変わった。 (注:この橋は、皆同町と沖田町に架かっているが、橋の区分整理上、皆同町に入れた) |
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あと、なぜこの福重橋を通称「郡橋(こおりばし)」と呼んでいるかについてです。それは前にも説明しました通り、この地域は奈良時代からあった役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)の郡(こおり)から由来して、江戸時代まで郡村とずっと呼ばれ、そのまま今でも松原、福重、竹松地区を総合して郡地区と言います。 そのため、近くにある中学校の名称は、大村市立郡中学校です。また、この橋の近くのバス停に『郡橋』があります。個人的推測ながら、このバス停名が通称「郡橋」を定着させた主要因と思われます。(なお現在このバス停は郡中学校前にありますが、ずっと以前はもっと福重橋寄りにありました) |
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(掲載日:2006年12月7日) |
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