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大村の歴史
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”大村”の地名発祥 |
大村郷村記に記述されている大村の地名発祥について | この補足は、ここからご覧下さい。 |
”大村”と言う地名はいつ頃から呼ばれてきたのでしょうか。西暦645年に大化の改新があり、この頃に肥前国の一部として彼杵郡が置かれます。さらにその彼杵郡の中に現在の大村地域もあったことは確かですが、この大村と言う名前は、いつ頃からはっきり呼ばれてきたかは明確でないようです。 ただし、平安時代の承平年間(931〜938年)に出来たといわれている『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、和妙抄)』に文章として初めて「彼杵郡 大村郷」の名前が登場してきます。 現在の郡地区が”大村”の地名発祥の地である この大村郷は、現在の大村地区(旧・大村町など)を指しているのではなく、現在の郡地区(松原、福重、竹松)のことでした。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によれば、この”大村郷”のことについて、「彼杵大村郷は後の郡村の地にして、今の大村北方に当たる」(1316ページ上段)と明確に書かれています。 つまり縄文・弥生時代頃より現在の郡地区は、穀倉地帯で人が大勢住むのに適した土地でした。それで、この郡地区からは、大村最古(約7千年前)の縄文時代の遺跡である岩名遺跡を始め冷泉遺跡、黒丸遺跡あるいは黄金山古墳、鬼の穴古墳、野田古墳群など多数出土しています。 それに比べ現在の大村地区(旧・大村町など)は、遺跡や古墳が出ない訳ではありませんし、人が全く住んでいなかったとまでは言いませんが、当時は荒地や湿地帯が多く、あまり人は多く住んでいなかった地域です。 ただ、以前までの大村市の公式の書籍やホームページには(江戸時代大村藩が作成した偽装の歴史である)「大村氏は994年に四国から下向(大村に来た)=「大村千年の歴史」説を記述していました。 このことは、まるであたかも最初から現在の大村地区(旧・大村町など)が”大村”と呼ばれて、「千年の歴史」があったのごとく書かれていました。しかし、このことは本当の歴史の流れや上記の『姓氏家系大辞典』などからも間違いがヒドイため、現在では一部を除き大村市の公式の書籍やホームページには書かれなくなりました。 先にに述べたように”大村”と言う地名は、肥前国彼杵郡成立前後頃より、現在の郡地区から発祥しました。その後、現在の寿古町好武付近に肥前国の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)が置かれたのではないかとも言われてきました。そのため、この地は”郡村”と呼称され始め、その関係もあり現在の大村地区(旧・大村町など)が、後になってしだいに大村と呼ばれるようになったと思われます。 なお、彼杵郡家のあった郡村は奈良時代前からだけではなく、その後の平安・鎌倉・室町・戦国時代までずっと約1500年間くらい大村の政治・経済の中心地でした。 現在の大村地区(旧・大村町など)は、大村純忠が今富城(現在の皆同町)から三城城を築城(1564年)してからが本当に政治の中心地です。ですから「大村地区(旧・大村町など)の歴史、約450年間」が、より正しい表現です。以上のことから、「大村千年の歴史」説は全く根拠のないものばかりか、正しい大村の歴史に対する冒涜(ぼうとく)の何ものでもありませんでした。 (掲載日:2007年4月8日、一部改訂:2018年6月23日) |
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大村郷村記に記述されている大村の地名発祥について
この記述は、2巻2ページ上段の後半から書かれてある郡村之事にあります。原文は、縦書きです。上野の方で分かりやすく太文字にしている部分もありますので、ご注意願います。大村郷村記の引用は、次の<>内です。
それに比べ縄文・弥生時代頃より、ずっと穀倉地帯だった郡村が人も多く住んでいたし、大村郷と言う地名もここから発祥したのだと良く分かっておられたので記述されたと思えます。なぜなら、ここの郷村記の項目では、郡村や竹松村の具体的事項を書けば済むことなのに、わざわざ大村の地名発祥のことに触れていることは、このことについての伝承か史料などが当時あったのかもしれません。
このページはテーマが違いますから詳細を書くのを避けますが、実は江戸時代、大村藩が大村氏の系図(歴史記述)を脚色・創作したことと違う意味を書いてあるからではないかとも私は見ています。 |
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