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大村の歴史
大村の古代の道と駅
も  く  じ
主   な   内   容
状 況
再構成について
はじめに
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<1>古代の道と駅に関係する用語集
<2>大村の古代の道と駅の特徴と共通項などについて
<3>馬と水から古代の道と駅を考えた
<4>大村の古代の道と駅、全体概要説明
<5>大村の古代の道(前半部)
-

  1)肥前国の役所=彼杵郡家について

  2)大村の地名発祥の地”大村郷”とは

  3)新分駅のあった所は、草場町の馬込

  4)現存している道標は3基

    ・石立様その1
-
    ・石立様その2
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    ・立石様もある
-
  5)もう一つの古代の道と石走道祖神
 前半部分のまとめ
準備中

<6>大村の古代の道(中間部)

-
  1)   (準備中)
準備中
  2)   (準備中)
準備中
  3)   (準備中)
準備中
<7>大村の古代の道(後半部)
-
  1)   準備中)
準備中
  2)   準備中)
準備中
  3)   準備中)
準備中
あとがき  準備中)
準備中
再構成について
 最初、大村市内を通っていた古代の道の前半、中間、後半みたいに書いていこうと思って、先に前半部分の7割ほどを掲載していました。その中身も道の想定路や道標などが中心でした。次の中間部の平野部を追加しようと思っていたところ、2007年2月10日に第2回福重郷土史講演会(概略報告は、ここからご覧下さい)を聞き、古代の道についても基本的なことから大変参考になるお話がありました。また、私だけかもしれませんが、古代の道と言えば、どうしてもその想定路の探求とか地図への書き写しばかりしていました。

 恥ずかしながら古代の道がテーマなのに、全体像や基本的なことを考えずに出口の一部分の所ばかり作業していたようです。ですから、前半部分が大半終わっても次からつぎへと補足が増えてきて、全面書き直しをせざるを得ないのかとも考えました。それで、「古代の道のテーマ」に沿った考え方や原稿の骨組みから再構成しようと思い、ページそのものから作り直そうとも考えました。

 ただし、折角「前半部分」は既に掲載中ですので、これは残し「再構成しながら補足する」形で今後やっていこうと計画しました。ホームページの特性上、印刷物に比べ追加も訂正もそれは容易に出来ますが、今までご覧になられた方へは、大変ご迷惑かけます。その点は、ご容赦願います。

 あと、大村市内を通っていた古代の道の想定路と言えば私の住んでいる地域から、車で近くは10数分、遠くでも数十分以内で行ける距離です。もう既に何十回も車で走行したり歩いたりもしました。専門の先生方のようにしっかりした視点、内容や構成はできなくても逆にその地の利や地元の強さも発揮して、全く別の角度や新情報も書けるかもしれません。

 また、私のような素人は失敗を気にすることもありませんので思い切り書いてみて、皆様からのご指摘があれば、その時は訂正、削除や補足も含めて作成していこうと言う厚かましい考えも持っています。ご覧頂ける方へ、このようにまるで無手勝流、乱暴者みたいなページ作りですが、よろしく、お願い致します。(掲載日:2007年3月7日)

はじめに

   (後日、上記「再構成」の文章をしばらく掲載し、その後差し替える予定にしています。しばらく、お待ちください)

(掲載日:2007年3月  日)
古代の行政区画=五畿七道
<1>古代の道と駅に関係する用語集
 この「古代の道と駅に関係する用語集」ページを作成するに当たり、『ヤフー辞書(大辞泉)』、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『長崎県文化財調査報告書第一五四集 長崎街道―長崎県 歴史の道(長崎街道)調査事業報告書』、『福重のあゆみ』(大村市寿古町、増元氏作成)を引用、参考にしています。なお、下記一覧表の「」内は国語辞典の大辞泉から引用しています。

 あと、『大村の古代の道と駅』のテーマからして、西海道(九州)、肥前国のことが中心となっていることは、ご了承願います。また、この用語集は、これからも訂正や追加ならびに補足説明をおこなう予定にしています。



 (注:右図は、古代の行政区画=五畿七道のイメージ図です)






(掲載日:2007年3月9日)

用  語
用 語 の 解 釈 や 実 例 など
古代の道 一般には、奈良〜平安時代に整備された官道のことを言います。
古代の地方行政区画 律令制で定められたもので、五畿七道(ごきしちどう)と言われています。
五畿(ごき) 「京都の周囲にあった山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国の呼称」です。
七道(しちどう) 「東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道」です。
西海道(さいかいどう) 現在の九州のことです。
肥前国(ひぜんこく) 西海道に属し、現在の佐賀県と壱岐、対馬)を除く長崎県にあたります。政治・経済上の基準で4等級に区分=大国(たいごく)・上国(じょうごく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)のされていた中で、肥前国は上国でした
国府(こくふ) 国ごとに置かれた地方行政府、また、その所在地のことです。(もっと分かりやすく表現するなら国の政治中心地=首府です)
肥前国の国府 肥前国の国府は現在の佐賀県佐賀市大和町にありました。ここには政庁の遺跡もあります。
郡家(ぐうけ) 律令制で、郡司(地方の役人のこと)が執務していた所=郡の役所のことです。
彼杵郡家(そのぎぐうけ) 彼杵(現在の東彼杵、西彼杵、大村、長崎などの県央地域)の役所と言う意味です。彼杵郡家の所在地は、大村市寿古町好武か沖田町と言われてきましたが、現在は寿古町好武が有力と言われています。
駅制(えきせい) 「律令制で中央政府と地方との連絡・通信のために設けられた交通制度」で30里(約16キロ)ごとに一駅が置かれ、官吏や使者に馬・食糧を提供していました。
駅路(えきろ) 中央政府と地方とを結ぶ連絡通路のことで、駅制で制度化された官道のことです。
駅家(うまや) 「律令制で、人馬を用意し、駅使に宿舎・食糧を提供した施設」のことです。駅館、駅舎、駅亭とも呼ばれ、古代の駅のことです。
大路(おおじ) 都と大宰府を結ぶ(山陽道など)駅路は大路と呼ばれ最重要道路でした。この間の駅には馬が20匹置かれました。
中路(ちゅうじ) 東山道、東海道の道を中路と呼ばれていました。この間の駅には馬が10匹置かれました。
小路(しょうじ) 北陸道、山陰道、南海道、西海道の道を小路と呼んでいました。この間の駅には馬が5匹置かれました。
駅戸(えきこ) 「律令制で、諸国の宿駅に所属していた家」のことを言います。一定戸数が指定され、駅馬の飼育、駅田の耕作などを受け持っていました。
駅田(えきでん) 「養老令で駅の経費に充てるために租税免除で国から支給された田。駅戸(えきこ)が耕作にあたっており、大宝令では駅起田」と呼称しました。
塩田駅(しおたえき) 肥前国の国府(首府)から来た場合、新分駅の前の駅に当たります。所在地は二説があると言われ、現在の佐賀県藤津郡塩田町と嬉野町吉田付近が想定されています。
新分駅(にいきた、にきた) 新分駅所在地は、大村市草場町(旧字で馬込当たり)と想定されています。
船越駅(ふなこしえき) 新分駅から島原方面に向かう場合、次の駅になります。所在地は諫早市船越と想定されています。
立石(たていし) 道標のため立てられた石のことです。その後、「石立様(いしだてさま)」や「立石様(たていしさま)」として呼ばれながら現存している場合もあります。なお、この道標の立石を由来として地名(字)に「立石」が残っていることが各地にあります。
律令制(りつりょうせい) 「律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制」のことです。
大宝律令(たいほうりつりょう) 「大宝元年(701)刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となって編集した法令集です。律6巻・令11巻からなり、天平宝字元年(757)の養老律令施行まで国の基本法典」となりました。
養老律令(ようろうりつりょう) 「養老2年(718)藤原不比等(ふじわらのふひと)らが大宝律令を一部改修して編纂した律・令各10巻の法典」です。
延喜式(えんぎしき) 905年(延喜5年)から編纂が開始され、927年に一応完成し、その後も改定され967年(康保4年)より施行され律令の施行細則です。内容が様々な分野で詳細に書かれているため、古代史研究に役立っています。
<2>大村の古代の道と駅の特徴と共通項などについて
 古代の道関係を掲載しておられるホームページは、全国いくつあるのか分からない位あります。私もフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を始め、いくつも見せて頂きました。また、2007年2月10日に第2回福重郷土史講演会(概略報告は、ここからご覧下さい)で講師が話された内容も含めて、古代の道について全国の道と大村を通っていた道といくつか共通点があることが分かりました。

 あと、私自身、大村市内にある古代の道(想定路)を何十回となく歩き、車で走行しました。全国だけではなく、この想定路にも併せて、次の共通項があるのではないかと思いました。

1)国を守るための軍事用道路や役人などが通るため道路(菅道)だった。また、そのため一定の基準で整備されていた。
2)情報収集や伝達、兵隊や役人の動きが迅速におこなえるように道路が、ほぼ真っ直ぐだった。直線道路にするため、小高い丘などがあれば切り通しの道まで作っていた。つまりスピード優先道路だった。

3)道標が一定間隔もしくは目立つ所や曲がる所などに配置されていた。道標を一般に「石立様(いしだてさま)」、「立石様(たていしさま)」」などと呼称し、その由来から後に地名(小字などに)「立石」などが付けられた。その道標である「石立」や「立石」は、高さ1メートル強で平らな形状が多かった。

4)馬や人の水分補給(休憩も含む)の必要性から、川沿いもしくは泉がある所を通っていた。
5)道の経路は最初から最後まで固定していたものでなかった。特に平野部では一部経路を変えていた。そのため、3)の道標=「立石」の地名が点在していた。

 まだまだ、調査している途中ですので上記よりも増える可能性があります。全部書き終わった後、また、この項目は検証してみようと思っています。一見これ以上ないように思える今回のテーマですが、改めて何事も奥が深いなあと感じながら先を進むことにします。

(掲載日:2007年3月12日)
<3>馬と水から古代の道と駅を考えた
 上記の項目(<2>大村の古代の道と駅の特徴と共通項などについて)で、特に注釈を付けるような項目はないと思われますが、この中で馬と水の件については、これから補足を書きたいと思います。

 「将を射んとせば先ず馬を射よ」という有名な言葉があります。古代の道を考える場合、役人や軍事用道路とか道標(立石など)についつい目がいってしまいます。確かに道の最大目的は、その通りだったと思われます。しかし、その目的完遂のために切っても切り離せないのが、手段=馬の役割です。この手段は、当時どんなに主役や目的が変わっても変化しなかったと思われます。

 私の実家は農家で馬の飼育は亡くなった父は経験ありましたが、私の学生時代は牛を7頭飼育していました。子どもは餌の飼葉を運び、バツケで水を飲ませるのが役目でした。その経験もあり、少し脇道にそれるかもしれませんが、これから馬のことなども記述していきます。

馬(イメージ写真)
 古代からずっと馬は運搬用や農耕馬として農家でも飼育されてきました。言うまでもなく馬は現代でも古代でもスピードが速く、重量物も運ぶ力強い動物です。しかし、デリケートで結構手のかかるものです。また、牛みたいに反芻機能がないため食いだめも出来ず飼葉も相当要ります。また、飲み水も大量に必要で実際馬を飼育されていた方にお聞きすると一日数十リットルは軽く飲んでいたとのことでした。

 ここから考えられるのは、人を乗せて運んでいた古代の馬は、一定の距離(数時間)ごと水分補給や休ませるため、水確保のできる川沿い、もしくは豊かな泉水のある所が必要不可欠と思われました。特に、常時最低5頭いた新分駅には、大量の水と飼葉(飼料)が豊富な地域でないと役割を果たせないと考えました。先ほど書いた通り、馬はデリケートな動物のため、日常手入れのため洗ったり、馬屋の掃除など水は必要でした。

 つまり、古代の道の通行手段として馬が不可欠で、その馬を留め置く駅には豊かな水と飼葉がある所、各駅間にもそのところどころに水分補給地が必要ではなかったとかと言う考えです。

 私は古代の道を考える場合、馬についてどうしても避けて通れないと思い(馬の気持ちまではなれないものの)大村市内にある古代の道の想定路を何十回となく歩き、車で走行した時、古代の馬や人はどうやって通行していたのだろうかなあと考えていました。その結果が、概要次のことを推測しました。

(1)新分駅がおかれた条件は、豊富な水と飼葉(飼料)が供給できる所ではなかったのか。
(2)駅と駅の間の道は、(ところどころで)川に近い、あるいは泉水などの確保ができていた経路を選定したのではないか。
(3)坂などはあまり気にせず通行していたのではないか。

 上記(3)で坂のことを書いています。人の、日常の通行なら楽な方がいいですから、くねくねと曲がった道でもいいと思います。あるいは道路の補修上も(直線の坂道は雨水で痛みやすいので)ゆるやかなカーブが長持ちするのではと推察できます。しかし、古代の道はスピード優先で、しかも馬の走行路ですから少々の坂でも真っ直ぐな道で良かったのでは思いました。

(掲載日:2007年3月11日)

延喜式(注1)による肥前国彼杵郡・高来郡の駅路想定図
新分駅は草場町、役所の彼杵郡家は寿古町または沖田町
<4>大村の古代の道と駅、全体概要説明
(このページ、最初の概要説明文や石走道祖神の項目は、既に掲載中の『福重のあゆみの古代の道と駅」』から引用した文です。その以外は今回新たに追加した原稿です)なお、町名や地名は特別な記述を除き総て現在の町名で呼称しています。

概要
 奈良時代〜平安時代には道路(官道)が整備されました。この官道は都と地方の役所(国府・郡家)を結んで、役人の往来や命令・文書の伝達に利用するための公式の道路で、役所と役所を結んでまっすぐ造られました。

 また、要所要所には「駅(うまや)」が置かれました。古代の駅というのは馬を常備しておき、役人や文書伝達の使いが通行する際には次の駅まで馬を利用できる、いわゆる駅伝・伝馬の制のための施設でした。肥前国の駅には馬5頭を備える決まりになっていました。

 肥前国の道は太宰府から肥前の国府(佐賀)へ、佐賀から彼杵郡の役所があった福重を通り、高来郡の諫早・島原を回って船で肥後国(熊本)へ渡るコースでした。

国府から彼杵郡へのコースは、佐賀〜塩田駅(塩田か嬉野)〜大野原〜遠目〜野岳〜草場〜堀池(寿古)〜沖田〜大村と考えられます。長崎県内に置かれた駅は彼杵郡に「新分駅」、高来郡に舟越駅・山田駅・野鳥駅の4駅です。

 さて、彼杵郡に置かれた新分駅は「ニイキタまたはニキタ」と読み、大村市北部にあったとされますが、福重の草場町にあったと考えられます。

大村の古代の道と駅(前半部)
1)肥前国の役所=彼杵郡家について
肥前国の役所=彼杵郡家は寿古町か沖田町であった。
 あと、当時の役所のあった彼杵郡家(そのぎぐうけ、郡司のいる郡家)=大村の中心地は、現在の寿古町(好武)か沖田町にあったと言われています。それはなぜか、この周辺地域=郡地区(松原、福重、竹松地区)は縄文式や弥生式の遺跡や古墳がたくさん出土していることからも分かる通り、穀倉地帯で人が多く住んでいた歴史があるからです。

 それに比べ現在の大村中心地は米作に不向きな扇状地や荒地が多く、人が全く住んでいなかったとは言いませんが、いずれにしても遺跡や古墳も郡地区に比べ少なく、この当時より相当後から開けていった地域と思われます。ですから、広い面積を有していた割には彼杵郡家のような役所もなければ延喜式(注1)示されている駅もなかった所で道路は高来郡との通過地点だったと思われます。

郡川の本庄渕(左の土手後方が好武周辺)
好武城跡(寿古町)
彼杵郡家の所在地、寿古町(好武)有力説について
 
やや話しは戻りますが、先ほど見出しにも「肥前国の役所=彼杵郡家は寿古町か沖田町であった。」と書いています。しかし、この件について、2007年2月10日第2回福重郷土史講演会(概略報告は、ここからご覧下さい)で概要次のような話しがありました。 下記<>がその引用です。

 ある大学教授の言う「沖田にあった6町四方の彼杵郡家(そのぎぐうけ、肥前国の郡役所跡)」の造りは、沖田の面積からしてあまりにも大き過ぎて、その説は違うと思われる。(彼杵郡家は沖田にあったと言うより、むしろ)寿古の好武城跡に、ぴったり2町四方の造りがある。しかも当時の陶磁器の遺物などが多数出土しており、彼杵郡家は好武城跡の可能性が高いと思われる。 

 あと、元々この寿古町の好武前にある郡川の渕(下記地図『図3 新分駅想定地と彼杵郡家』参照、郡川が90度近く曲がっている周辺)を大昔から「本庄渕」と呼ばれてきました。

 古代の役所=彼杵郡家だけでなく、郡地区には穀倉地帯の関係から京都の荘園もありました。それらのことから、この好武周辺の前にある郡川の渕のことを「本庄渕」(「役所の前にある川の渕」と言う意味と思われる)とも長年呼称されてきました。

 以上のことから分かるのは100%断定とは言いませんが、「彼杵郡家は寿古町の好武にあったのではないかと言う説」が、より一層有力と思われます。

2)大村の地名発祥の地”大村郷”とは
 平安時代の承平年間(931〜938年)に出来たといわれている『和妙抄』に初めて「彼杵郡 大村郷」の名前が登場してきます。この大村郷は、現在の大村中心地を指しているのではなく、現在の郡地区(松原、福重、竹松)のことでした。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によれば、この”大村郷”のことについて「彼杵大村郷は後の郡村の地にして、今の大村北方に当たる」(1316ページ上段)と書かれています。

 つまり大村と言う地名の発祥は、現在の郡地区の所から来ていると言うことです。ですから、肥前国の役所の彼杵郡家も、駅の新分駅も、地名の大村郷も、総て現在の郡地区(松原、福重、竹松)からです。このことを念頭に入れて、古代の道と駅も、これから考えて見ていきたと思います。

長崎県教育委員会、歴史の道(長崎街道)調査事業報告書より
3)新分駅のあった所は、草場町の馬込
 佐賀〜塩田駅(塩田か嬉野)方面から来た場合、どこの道を来て、どの目印を目指して来たのか、具体的に写真と地図をまじえて記述してしていきます。

そのことを明らかにする上で、長崎県教育委員会がまとめられた本を先に紹介します。長崎県教育委員会が調査し、まとめた本=長崎県文化財調査報告書第一五四集 長崎街道―長崎県 歴史の道(長崎街道)調査事業報告書―が、2000(平成12)年3月発行されていました。

 (この調査事業報告書は略して、以下、報告書「歴史の道」と呼称します)これには古代の道の想定図と説明文があります。上記の概略説明文と重複するところがありますので、ご了承願います。

 まず、右側の『図3 新分駅想定地と彼杵郡家』の地図をご覧願います。この報告書「歴史の道」の原図3はモノクロですが分かりやすくするため、官道跡は赤い点線に、大村湾と郡川は水色に変更しました。

 この報告書「歴史の道」にも、地図3説明文に概要次の< >内のように書かれています(引用も含みます)

  新分駅の位置について、大村市草場町比定して、小字立石・馬込・京辻・今道付近に比定されている。(図3参照)

 これらの小字地名に沿って、東北から西南へ通る小字境となった現在道()が、先に述べた想定駅路に連なるものである。

 小字「立石」の地に、地元で「石立様」と呼んでいる自然石がある。この石は山伏墓(やんぼしばか)とも称しており、落人伝説を伝えている。この立石は想定駅路に沿い、見晴らしの良い舌状台地で駅の位置として適当と考えられる 

 
 ここで紹介されているのは、現在の国道34号線(寿古町付近)あたりから、この本で推測されているに官道(街道)跡で、現在野岳町の(字の)立石までです。草場の地名(小字)に野岳に近いほうから立石・辰ノ口・馬込・出口平・京辻・今道、皆同の高繩手と交通に関連がありそうな地名が直線状に並んでいます。

 それらの地名(字、あざ)を、官道跡に沿って地図の下側から上側へ順番に(概略の意味も含めて)・高縄手(高くて真っ直ぐな道)  ・京辻(都を望むような十字路)  ・馬込(馬を泊めておく所)  ・辰ノ口(東南東方向)  ・立石(道標の石がある所) などです。

 肥前国の時代、延喜式(注1)に登場する駅(往来する役人のため馬などがおかれた)新分駅(ニイキタまたはニキタ)は、地名上からも、また水の供給(馬込水源がある)と言う条件面からも現在の草場町の馬込付近が極めて可能性大と思われます。

 以上のように長崎県教育委員会の調査報告書「歴史の道」には、かなり具体的に官道(街道)跡の想定図や新分駅の位置について書かれてあります。ただし、道標(「石立様」)については、1基しか記されてありません。

草場町の馬込水源 この近くに新分駅があった
馬込は字(地図上)よりも、もっと広い呼び方だった
 あと、この馬込及び周辺の地名や呼び方について補足を書きます。右上の図3に馬込、出口平と言う字があります。何回か地元の方に聞き取り調査をすると、馬込の呼び方と地図の関係で、やや意外なことを聞きました。

 地図上の字では馬込ではなく、住居が出口平にある数軒の方々が今でも「馬込のAです」とか「馬込のBさんから電話あった」とか、そのような言い方をされるそうです。つまり、馬込と言う呼び方は地図上の字よりも、もっと広く使われていると言うことです。

 きっちり図示や面積などが分かる地図(字図など含めて)が整備されたのは、長い歴史から考えれば近代に近いことと思われます。この周辺を総称して馬込と言う呼び方がずっと古いと言うことです。ですから、新分駅の想定箇所を考える時、地図上の字だけを見るのは早計だと思います。

 なお、右側の写真で馬込水源を紹介しています。この馬込水源及び馬込の水神様は、地図上の字では出口平にあります。しかし、地元の方は誰も「出口平の水神様」などと呼ばれることはありません。さらに、この水源は最後は石走川(最下流では、よし川)に流れていきますが、その間地元では”馬込川”(まごめのかわ、まごんかわ)と呼称されています。

 このようなことから、馬込と言う呼び方は古来、もっと広く用いられていて、いくつかの字の総称みたいにして使われていたのではないかと推定されます。馬込は字(地図上)よりも、もっと広い呼び方だったのです。

 下記の『大村市野岳町周辺地図』と『大村市草場町周辺地図』は、右上図の『図3 新分駅想定地と彼杵郡家』や報告書「歴史の道」説明文を分かりやすくするため、関連している所を拡大版で作成したものです。なお、「石立様その1」、「馬込の水源」、「立石様」などは、先の長崎県教育委員会の報告書に書かれていませんが、今回補足しました。また、地図上で表しています古代の道想定路は、あくまでも一つの推定であり、古代でも道は変化していたと思われます。

 なお、今回調査する中で、現在高速道路や広域農道で遮断された形になっています道(古代の道の跡)は、道路建設以前この周辺で、「ほぼ真っ直ぐな道路(通称:”馬車道”)が存在していた」と地元の方にお聞きしました。それは下記の大村市草場町周辺地図(右側付近)で高速道路と広域農道の中間に高圧電線の鉄塔が現地にありますが、その鉄塔の真下付近に道路(馬車道)が通っていたそうです。ですから、下記の地図の赤い点線(古代の道想定路)は、ほぼ正確に図示しているとの裏付けになりました。

(注1)に『延喜式』とは(簡略表現すれば)905年(延喜5年)から編纂が開始され、927年に一応完成し、その後も改定され967年(康保4年)より施行され律令の施行細則である。内容が様々な分野で詳細に書かれているため、古代史研究に役立っている。

注:下記二つの地図は、分かりやすくするため、縮尺が異なっています。石立様その1、その2、立石様を赤い長方形、赤い点線で古代の道と想定される現在の道を図示しています。なお、新分駅の位置と想定されている草場町の馬込周辺は、「馬込水源」と記しています
地図上の赤い点線が古代の道の想定路、赤い長方形が「石立様」(道標)を表している(上と下の図は縮尺が異なる)
赤い点線が古代の道の想定路、赤い長方形が「立石様」(道標)、四角形が馬込の水源を表している(上と下の図は縮尺が異なる)

4)現存している道標は3基
 この官道(街道)跡沿いには、実は合計3基の道標が現在も残っています。地元で「石立様(いしだてさま)」と呼称されているのが2基、あと名前の順序が逆で少しややこしいのですが「立石様(たていしさま)」と呼ばれているのが1基で、合計3基です。この件については、順次写真や地図説明を用いて書いていきます。

 ここで改めて「石立様」や「立石様」とは何かを簡単に説明しますと、官道(街道)の道標です。当時の道は、現在のように幅4mとか片側2車線と言う幅の広い道では当然ありません。せいぜい、人や馬が通る程度ですから、広くても数メートル幅だったと思われますので、そのため見晴らしのいい所、左右に曲がる地点など要所要所に目立つように大きな石で築かれました。

 その石も高さ1メートル位の平ぺったい石が用いられています。ここからは想像ですが、当時は至る所に「石立様」(道標)はあったと思われます。しかし、官道(街道)の役割が少なくなっていくにしたがって、この平たい石は石材や建材に都合がいいため転用されたのではないでしょうか。

石立様その1-A(後方の山は、武留路山)
石立様その1-B(右上へは、野岳方面)
 あと現存しているのは、上記の調査報告書「歴史の道」にも書かれていますが、誰かの墓のように祀ってきたような石が残っていたと推測できます。さらに石立様があった地域は、そのことが起源となり地名で「立石」との字(あざ)も各地に残っています。

 旧・草場郷の字にも「立石」がありましたが、ここは現在は野岳町になります。また、大村市内ではありませんが同じように古代の駅とされる舟越(諌早)には、東上の馬場・立石、山田(南高吾妻)には牧の内という地名が残っています。

石立様その1
  上にある『大村市野岳町周辺地図』や右側写真(「石立様その1-AとB」)をご覧下さい。この写真に写っている道標は、この地域に「石立様」が二つありますので、私の方で仮に「石立様その1」とします。大きさは高さ約60cm、幅約50cmの自然石です。その前に横幅約2m、奥行き約1mの平らな自然石がおいてあります。

 「石立様その1-A」写真は旧の官道(街道)と思われる道から、武留路山(後方の山)方面と左下大村湾(川棚町方面)が望めるように撮ったものです。上の拡大地図では「石立様(1)」と図示しています。

 この「石立様その1」が立っている位置は、塩田駅(塩田か嬉野)方面から来て野岳を下り、右に曲がる地点にあります。逆に、草場町にあったと思われる新分駅(ニイキタまたはニキタ)から登ると、やや急な登り道の連続から少しだけゆるやかな登りとなり、この「石立様その1」から左に曲がると、野岳や塩田駅(塩田か嬉野)方面に向かう一つの基点になる位置と思えます。

 「石立様その1」は、立っている石の前にある平らな石は、タタミ一畳分くらいあろうかと思えるくらい大きいものです。丁度「膝つき石」のようにも見えます。また、現在はこの石などの周囲が道路になっていますが、ここの所だけが盛り上がっています。

 そのようなことから、見方によっては、この「石立様その1」を誰かのお墓とするなら、全体が盛り上がった墳丘のようにも見えます。現在は字型の三叉路になっていますが、これらの道路や田んぼなどに土砂が取られていなければ、最低でも5m四方の土盛があったと想像できます。

 ここからの眺めは北側方面(右側写真「石立様その1-A」)に武留路山(むるろさん、341m)大村湾を挟んで東彼杵・川棚方面が一望できます。東側(山側、「石立様その1-B」写真参照)鉢巻山(335m)や野岳方面に向かう道路が見えます。西南側方向には現在民家の屋根があるので「石立様その1」の土盛に登ると下りの道路と大村湾が確認できます。

石立様その2-A(大村湾を望む)
石立様その2-B(野岳方向を望む)
 ここは約百メートル下側の「石立様その2」よりずっと直線の上り坂が続いてきて、ここの「石立様その1」からは左方向に進む基点になる所でもあります。(上図の『大村市野岳町周辺地図』を参照)

 ここからの旧道は川沿いにほぼずっと数百メートル続く道路です。川沿いを進む道路の終点は現在、井手(用水路)の水を三方に分ける大切間(おおぎりま)当たりになり、それからは、野岳湖方面に登る道路です。

石立様その2
 
先の報告書『歴史の道』の記述と重複しますが、これから「石立様その2」を説明します。上の拡大地図では、この石立様その2は、「石立様(2)」と図示しています。右側写真2枚は撮影地点を違えて=別方向から撮っています。

 石立様その2がある所は、松原から野岳湖方面に登るバス道路の上方(2車線の広域農道、大村東彼線の大村側始点付近)にある道と田んぼ間にあります。この広域農道始点付近から登り70m位で鉢巻山方面を見ると、この「石立様その2」が確認できます。

 「石立様その2」は、右写真の通り平らな自然石で高さ1m、幅60cmで碑文はありません。道路脇で、しかもその横が田んぼのため、けっこう目立つものです。道路は全て坂道で、そのまま登ると百メートル位で次の「石立様その1」が左側に見えてきて野岳方面となります。

 逆に石立様付近から下り側を見ると、眼下には西彼杵半島、大村湾、郡地区の平野部などが一望できて大変見晴らしの良い所です。古代の頃と現在とでは、まわりの状況は若干違うかもしれませんが、眼下に見える風景そのものは大きく変わりないものであり、この地に道標があるのも納得いくものです。

 報告書『歴史の道』には、この「石立様その2」について、山伏墓(やんぼしばか)とも称しており、落人伝説を伝えている。と書かれていますが、今回この件では、地元の方に話は聞けませんでした。ここからは、あくまでも私の想像です。山伏墓(やんぼしばか)の「山伏」は、報告書『長崎街道』には、「落人伝説」と書かれています。

 しかし、私は奈良時代初期に“太郎岳”(郡岳の旧称)に神社があり、その霊山信仰のための”山伏”と関係あるのではとも思えます。重井田町にある御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝)で、山伏は修行していたとの伝承もあります。

 また、福重町(福重小学校の近く)には字で「強力」(ごうりき)と言う地名もあり、力の強い人たち(山伏か、今で言う案内人かポーター)がいたことを想像させます。あと、この「石立様その2」も墓の伝承ですが、「石立様その1」の方が、表面に出ている状態を見ると、むしろ古代の古墳みたいにも見えます。どちらとも、お墓なのか、はたまた二つとも近くにあるため、伝承が取り違えられた可能性もないとは言えないと思います。

 あと、「石立様その1」と「石立様その2」の距離関係について、私自身は当初疑問に思わなかったのですが、何回かある方々を現地にご案内したところ次のような発言が寄せられました。

 「この石立様その1と、その2の間隔が約100メートルだから、なんか短すぎるねえ」、「どちらかと言うと、石立様その1の方が曲がり角にあるから重要だったのかもしれないね」との意見が出されました。

立石様
  このことについての私の考えですが、先の報告書『歴史の道』でも私が聞いた地元伝承でも「石立様その1」と「石立様その2」は、どちらとも同じような内容です。しかも、どちらの石にも碑文などもありません。それで確定的なことは言えないと思います。

 先に書きました通り、二つとも道標=「石立様」だった可能性もありますし、二つとも近くにあるため、伝承が取り違えられたこともありえますが、この件については今後の更なる調査・研究を待ちたいと思います。

立石様もある
  また、大村市草場町の石川さん宅横の道端に「立石様(たていしさま)」と呼ばれる大きな石(薄型で、横幅150×高さ150cm)が立っています。確定的ではありませんが、この石も同じ官道(街道)の道標もしくはそれに関係する石と思われます。

 現在、この石は大村市道の真横に立っていますが、実はハウス栽培の関係上、移設されたもので元あった場所は現在地より十数メートル東にありました。この「立石様」も官道(街道)跡沿いに位置しています。

 新分駅のあった馬込から彼杵郡家に向かって降りてきたら、この石もほぼ道沿いにあります。ここから道はさらに(草場の字)高繩手を下って寿古の堀池で直角に曲って南下して、寿古町か沖田町にあった彼杵郡家の役所に向かったと思われます。
5)もう一つの古代の道と石走道祖神
石走の道祖神(いしばしりどうそじん)と古代の山岳信仰=「太郎岳」(郡岳には神社があった)への道
 今まで記述しました官道(街道)跡とは、別に古い道あるいは道標として、この周辺でほぼ特定できるのがあります。(「福重あゆみ」から引用して書いています。注などを除き下記< >内が引用部分です)まず、右側写真の「石走の道祖神」をご覧願います。この石は、現在、大村市福重町の石走(いしばしり)にあります。

石走の道祖神
  この石には、「道有」と文字が刻まれた四角形の薄型の石が立っています。以前は一段低い水田傍にあったのを今の場所に移したものです。これは「道祖神」です。

 道祖神は通行の無事を祈る神として十字路・村境・峠などの道沿いの主な所に立てられました。道祖神は縁結びの神、性の神に変った所もあり、松原や萱瀬の「さやのごぜ」はこれに当たります。

 石走川のあたりは大昔は海だった所で、道祖神のあったあたりに船着場があり、道はここから始まっていたと思われます。なお、(郡岳の)太郎岳大権現に通じる参道の出発点として、道祖神のあるあたりに一の鳥居が立っていたといわれます。

 (注:郡岳の以前の名称は「太郎岳」と呼ばれていました。奈良時代初期に「太郎岳」(郡岳)には神社がありました。詳細は「郡岳」ページの郷村記部分をご覧下さい

 なお、石走には線刻石仏があり、石走の上方に「強力(ごうりき)」という地名(小字)があります。また、石走から道はまっすぐに登りますが、弥勒寺の釈迦峰に「お釈迦さまの足形石」という足形を刻んだ大きな石が道端に最近まであったそうです。

 太郎岳大権現への参道 ・線刻石仏 ・強力(山伏の道案内人を意味する) ・釈迦の足形石と並ぶと、山岳修験道との関連が浮かび上がってきます。

 この道は、肥前国の官道(街道)跡ではないと思われますが、当時の大村中心地と(郡岳の)太郎岳神社を結ぶ道路に使用されていたと思われます。この道は石走川沿いに登り、福重町(旧・矢上郷)から弥勒寺、立福寺町を経由して重井田町にある御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝)に達していたと思われます。

 この御手水の滝(おちょうずのたき)は、奈良時代初期に「太郎岳」(郡岳)に神社があった関係上、山岳信仰する修験者(山伏)の修行場と言われています。(御手水の滝についての詳細は、ここからご覧下さい)あと、この滝から拂川(はらいがわ)沿いに登り(現在は江戸時代に出来た野岳湖がありますが、奈良・平安時代は当然ありません)「太郎岳」(郡岳)」の中腹にあった本坊(寺院の本山)に達していたと思われます。

 この古代の修験者の道からは、登る途中に汲川と言う泉があり、山の(左手)八合目あたりに坊岩(ぼうのいわ)があるので、これを見ながら登ったことが考えられます。(坊岩について詳細は、ここからご覧下さい)また、この道路は山岳信仰用の道だけではなく、本坊に住んでいた人へ様々な生活物資(米など)を運び上げる道だったとも考えられます。先ほど述べた旧・矢上郷の「強力(ごうりき)」という地名(小字)は、これと関係していることから付いたものと推察されます。

(前半部分の掲載日:2007年1月28日、地図と原稿の一部改訂:2007年2月16日、一部追加改訂::2007年2月27日)
前半部分のまとめ

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<6>大村の古代の道(中間部)

   (掲載準備中。しばらく、お待ちください)


<7>大村の古代の道(後半部)

   (掲載準備中。しばらく、お待ちください)


あとがき

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