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大村の歴史
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大村の土地の形成 |
大村の地形は、概略記述すると、まず多良山系の火山が大地をつくりました。その後、その山や大地を雨水さらには郡川を初めとするいくつかの川の力によって削り取り、下流部では土砂が堆積して出来たと言われています。 ・多良山系の山間部、 ・溶岩などでできた丘陵地、 ・郡川などが土砂を運び堆積してできた扇状地などの平野部、 ・箕島(長崎空港)、臼島、鹿ノ島などの島と大村湾 などから成り立っています。 平野部について、長崎県全体は、山間部や離島が多い中で、土地形成後(干拓などは除く)から広い平野部を有しているのは、本土側では大村だけと言われています。 大村湾 大村湾は、最初は有明海とつながっていた海でした。多良山系の噴出や造山活動によって分離し、現在のような湾になったものです。 なお、臼島、箕島は、南北に走る断層線に沿って噴出したもので、西側が深くなっています。また、大村湾を挟んで反対側に位置する西彼杵半島は古くは島だったと言われています。 あと、郡川や大村にある川だけでは当然ありませんが、大村湾内の堆積物などにも、これらの川の力によってできました。これらの堆積物は地形の形成だけでなく、大村湾内の動植物にも影響を与えています。 多良山系の火山 大村の山系や山間部は、長崎県と佐賀県の県境にそびえる経ケ岳(1076m)を主峰とし、多良岳(983m)、五家原岳(1058m)を中心とする火山と、その外側にできた複数の寄生火山から成り、複雑な地形をしています。 多良系火山の活動は100万年前から始まり、25万年前の五家原岳を最後に活動を終えたとされます。経ケ岳は60万年前、多良岳は40万年前とされています。 多良岳の噴火口跡は、萱瀬地区の黒木の窪地で、楕円形をしていてホマーテ(臼状火山)型と呼ばれています。郡川の河原や黒木の道路周辺から経ケ岳を中心にまわりの山を見ると外輪山のように見えます。郡川当たりが外輪山の欠落した部分と言えます。(右の上側写真を参照) 郡岳(826m、重井田町)、鉢巻山(335m、野岳町)、武留路山(341m、東彼杵町)は多良火山の溶岩の上に噴出した寄生火山です。郡岳の溶岩は安山岩で、多良系最後の溶岩です。 鉢巻山は約80万年前に玄武岩を噴出しましたが、溶岩の粘性が低いために溶岩が流下してしまって低平で、どこにあるのか分かりにくい山です。それに対して武留路山は流れにくい溶岩で、火口近くで冷却したためにきれいな円丘型で目立ちます。
また、別の溶岩流の跡として郡川とは別水系になりますが、主に福重地区を流れている石走川の支流の一つに草場町の馬込の水源から流れている川があります。(この支流の下流部分は石走川の本流に流れ込みます。さらに石走川の最下流では、別名「よし川」とも言われています) この支流の上流部分=馬込の水源近くの川床には、溶岩が固まり突出して、そのまま残っている跡が道路横や橋からも見れます。(右の写真下側を参照)視認できる範囲内で、この岩盤の幅は約3m、長さ約50mです。 これら多良山系溶岩流の跡は、大村の土地形成を知る上でも参考になるものです。 郡川は、長い年月にわたってこの扇状地の端から端まで、何度も流路を変えながら流れていました。(右側2番目の図参照)最後に今の河口(寿古町と黒丸町の間)の方向へ流れるようになったのです。
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