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大村の歴史
大村の原始時代
旧石器が発見された野岳湖(奥の山は郡岳)
大村の原始時代
 はじめに、原始時代と言えば大まかに有史以前を指すようです。しかし、専門の先生方によっても色々な学説があり、本の種類によっても違うようです。また、同じような本でもずっと以前に出版された物と、近年発刊された内容でも違うようです。(「日本の時代区分表」ページ及び「大村の年表」ページも、ご参照願います)

 これから書くことは、そのような状況からして確定的でないと言うことを前提に、ご覧下さらないでしょうか。また、時代の区切りからすれば不自然ですが、今回このシリーズではページ構成上、原始時代を二つに分けています。最初に、この『大村の原始時代(古墳時代以前)」ページと、後で書く予定の「大村の古墳時代」のページとして掲載します。

 あと話し脇道にそれますが、思えば地球の長いながい歴史に比べれば、ひと一人の一生は長くても百数十年ですから”瞬き”にならないものかもしれません。人類誕生後の何十万年の歴史からしても、たとえ数千年間単位で時代区分がずれていたとしても、それは私のような素人にとっては、ある面世間どこにでもあるような”許される誤差の範囲内”でもあるような気がします。

 また、普通一口で”縄文時代”と言われる年代だけでも約1万年くらいですから、どれだけ科学や技術が発達した現代でも、約1万年前のことを正確に特定することは、なかなか難しいとも思われます。今回のテーマ『大村の原始時代』を書くにあたって、先に掲載していました『福重のあゆみ』を参考にして、これに補足する形を取りながらも新たな記述も掲載したいと考えています。

旧石器時代、野岳遺跡の細石器
著者:鈴木忠司氏の『野岳遺跡の細石核と西南日本における細石刃文化』より
大村の人は最初高地に住んでいた
  大村市の隣、東彼杵町<本地寺(ほんちじ)の住職>の井手寿謙(いでじゅけん)氏は1946(昭和21)年頃より、野岳湖にあった遺跡から石器を発見されました。この件の詳細は、別枠の「旧石器時代の野岳遺跡」の項目で詳細を記述していますので、ご参照願います)

 今から1万年以上も前の原始時代(旧石器時代)、大村でも人々の生活が始まりました。約1万3000年前の旧石器が野岳湖周辺で発見されており、この頃から人々は海抜200〜300mの山間部で、狩や木の実などの採取をして暮らし始めたものと考えられます。

 旧石器時代から縄文時代(1万年前〜2300年前)にかけては、野岳〜雄ケ原〜大多武にかけての線が原始時代人の生活の舞台だったろうと思われます。

 この時代「イチイガシ」の原生林が広がっていたこの一帯に人々は住み、イチイガシの実を食用としていたであろうことが想像されます。この時代はまだ移動生活で、1か所に居住してはいませんでした。

 住んでいたのは最初、岩場の洞穴などと言われています。この洞穴は温度変化が比較的安定していたので、夏場涼しく、冬場は風よけをしていれば外気温に比べ暖かかったとも言われています。長い年月かけて後では、木や萱(かや)で作った住居に変わっていったと思われます。

 また、右上図でお分かりの通り、野岳遺跡からはたくさんの石器(道具)も出土しています。「なんだ、ただの石か」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。私は、あるテレビで原始人も使っていた”石のナイフ”と言いながら実験していたのを見たことがあります。石は黒曜石のようでしたが、肉や野菜など良く切れていました。現代のナイフは肉をずっと切り続ける時、途中刃を拭き直ししなければなりませんでしたが、この石はそのようなことはしなくても最後まで切れていました。

 あと原始時代の食べ物として、木の実や動物の肉などが上げられますが、あまりいいイメージを持っておられない方もいらっしゃるかもしれません。でも、全国の原始時代の遺跡から発掘された食べた跡などを見ると、蒸したり焼いたりした跡も出てきており、意外とグルメだったのかもしれないとの記述もありました。

 あと、この年代は食べ物の(一部を除き)保存できなかったため、お互いに一緒に狩猟、採集したものは分け合って食べていたと思われます。貧富の差が起きず、人同士の争いもあまりなかったのではと言われています。つまり、大勢では自然の食べ物を直ぐに食べ尽くすので、家族単位か少人数のグループだったと言われています。

今富町の岩名遺跡
農耕の開始
 縄文時代の末頃から弥生時代になると、人々は平地に降りてきて農業を始めます。大村でも郡川の造った扇状地で、稲作を中心とする農耕生活が開始されます。それは、竹松の黒丸遺跡(2500年前〜)や富の原遺跡(2100年前〜)で、住居跡・墓地郡・土器・鉄器などが出土することでも明らかです。

 今富町の岩名遺跡から約8000年前の縄文式土器が発見されています。これは大村で最も古いもので、南九州系の土器と見られます。出土した土器は表面に楕円形やひし形、ギザギザの線などいろいろな模様を持ち、厚手でバケツのような形になるものが多かったようです。

 弥勒寺の野田の久保には、縄文末期の遺跡があり、朝鮮半島系の土器が出土しています。今富の冷泉遺跡は、弥生時代末期の遺跡ですが、竪穴式住居跡6棟、石棺・土器・ガラス玉・銅鏡のかけらなどが出土しました。ここの土器は北九州系です。

 この時代の遺跡は、いずれも丘陵部末端近くで見つかります。この時代の人々は、湧き水などがあって水の得やすい丘陵部末端に住んだと考えられます。
(掲載日:2006年11月19日)

掲載写真について:大村市教育委員会発行『市内遺跡発掘調査速報』から
・縄文時代の岩名遺跡ページ』は、ここからご覧下さい。
・弥生時代の冷泉遺跡ページ』は、ここからご覧下さい。

旧石器時代の野岳遺跡
 野岳遺跡の細石器を発見されたのは、長崎県
東彼杵町にある本地寺(ほんちじ)の住職の井手寿謙(いでじゅけん)氏でした。井出氏は、少年時代より石器や土器を拾い集めるのが好きで東彼杵や大村で収集されていました。野岳遺跡の細石器は1946(昭和21)年頃に発見され、井手氏は既にこの当時からヨーロッパの細石器と似ていることに気付いておられました。

 ただし、当時日本にはまだ旧石器時代の遺跡はないものと考えられていました。ところが1949(昭和24)年、相沢忠洋(あいざわただひろ)氏によって群馬県岩宿の関東ローム層の赤土から旧石器時代の細石器が発見され大きなニュースになりました。それからしばらくして1959(昭和34)年夏、東北大学の考古学の芦沢長介先生が九州に調査のため来ておられました。

 たまたま佐世保市で歴史文化展が開催されていて、その中に先史土器遺物展示がされていて、先生の目にとまりました。この展示物こそが旧石器時代の石器だったのです。先生は井手氏のもとを訪問され、野岳遺跡も踏査され、まぎれもなく旧石器時代の遺跡と確認されました。その後、先生は学会に発表され、野岳遺跡も井手氏の名声とともに広まりました。

 つまり、戦後考古学の大発見と言われた岩宿遺跡より、3年前に井手氏は野岳遺跡で旧石器時代の石器を発見されていたと言うことになります。この野岳遺跡は、野岳湖キャンプ場の管理棟下あたりで、現在ふだん湖水に沈んでいます。ただし、発見された細石器などは、大村市立歴史資料館(大村市立図書館の2階)常設のガラスケース展示で見ることができます。

:この文は『大村史話』(大村史談会発行)の「有史以前の大村」(執筆者:加藤十久雄氏)を参照して書きました)

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