福重の名所旧跡や地形
|
郡岳(重井田町)
|
郡岳(こおりだけ) | 場所:長崎県大村市 重井田町 |
中央最奥の山が郡岳(こおりだけ、826m) その右は遠目山(849m) 寿古町の広い田んぼ周辺から撮影(2018年10月8日) |
(私も通学しました)大村市立福重小学校の校歌にも郡岳の名前は出てきます。また、郡中学校からは、この山が良く見えます。そのようなことから、郡岳は地元の人に大変馴染み深い山です。 平地からの眺めは一年中いいのですが、とりわけ夏の緑濃い時季は、優しい山容に心和む感じがします。そのようなことからか、江戸時代に大村藩が編纂した郷村記(大村郷村記)、『郡村之内 福重村』の項に、下記のような文章が書かれています。 普通、大村郷村記といえば役人(武士)が書いた記録集で、分りやすく表現するなら味も素っ気もない文章です。しかし、この「郡岳」を述べている文章は、その山容、雨、霧、雲、川、水などの自然現象、さらには土地を肥えさせていることまで、たっぷり書いてあります 私が今まで読んだ郷村記の項目の中で、ベスト3に入る位のなかなかの名文章と思える豊かな表現をもって書かれています。これは私の勝手な想像ですが、江戸時代のお役人も、このような表現を用いて書きたいくらい大事に思える、馴染み深い山だったのではないかなあと思います。 実際、奈良・平安時代頃より江戸時代前までは、この郡岳を含めた郡地区が当時の長崎県央地域の政治経済の中心地でした。(その後政治の中心は移りますが)米を中心とした経済はここが最大の穀倉地帯だったため、ずっとその役割をになったまま近代を迎えてきました。 |
江戸時代、大村藩によって編纂された郷村記(大村郷村記)の『郡村之内 福重村』の『郡岳並坊屋鋪之事』の項に郡岳や太郎岳大権現について、下記の通り書かれています。なお見やすくするために文章の区切りと思われる箇所に空白(スペース)を挿入しています。 「一 郡岳 当岳往古太郎岳と云 郡村の頂にあり 故に方今郡岳と唱ふ 此山峨々として麓を距る貳里余 萱瀬・千綿の諸岳山脈を是を伝ふ 夫山川は万物を生育するの具にして其一欠る時は土壌乾涸し 五穀生するあたはす 因て水面若しくは湫溢より上騰する浮遊の気風を得て山嶺に上り 冷気を請て聚凝し 或は靄雲と成て山脊を滋潤し 或は濃雲と成て水液を含蓄するもの山脊を衝触すれは忽破裂して雨を降し土壌をして肥腴富饒ならしむるなり ゆへに山川は国の至要たり 当山樹木森列として雲霧常に其頂を蔽ひ 又能驟雨を送る 因て郡村の土壌肥饒なり 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 当山鎮座の時太郎岳権現と称す文明の比皆是山の奥太郎岳に遷座して太郎岳大権現之唱ふ 万治年中池田の里に再興ありて多羅山大権現と号す 由来大村神社の条下に詳也 」 これを現代語訳すると概要下記の< >通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧下さい。( )内は補足や注釈です。 < 郡岳 当岳(当山)は、大昔「太郎岳」と呼ばれていた。郡村(こおりむら)の一番高いところである。色々な理由や経過があって、今は郡岳と言う。この山はそびえ立っていて麓(ふもと)からの距離は、8km少々である。萱瀬(かやぜ)から千綿(ちわた)方面に伝わっている山並みに連なっている。
そのため山川は国(この土地)にとって、大変大事である。当山は樹木も多くて、雲や霧が常にその山頂をおおっており、にわか雨をふらすこともある。そのため、郡村は土壌が肥えていて豊かである。 かつて、元明天皇の治世の和銅年間に管原寺の最高位の僧侶である行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ) 釈迦(しゃか) 観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。 今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている。当山(後年の郡岳)鎮座の時には太郎岳大権現と呼ばれていた。文明年間(1469〜1486年)の頃に萱瀬山の奥太郎岳に遷座したため、これを太郎岳大権現と呼ばれた。万治年間(1658〜1660年)池田の里に再興(再建)されて多羅山大権現と言っている。由来は大村神社の項に詳細書いてある > ・郡岳関係ページ:太郎岳大権現 、 坊岩 、御手水の滝(裏見の滝) (初回掲載日:2005年5月12日、第二次掲載日:2012年1月14日、第三次掲載日:2019年12月1日) |