大村の歴史
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太郎岳大権現(たろうだけだいごんげん) |
はじめに | |
・主な調査内容や期間など |
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・用語解説(一部) | |
・関係年表(一部) | |
1)大村郷村記関係記述 | |
2)郡岳頂上にある太郎岳大権現の礎石跡について | |
3)郡岳中腹の本坊跡(坊屋敷)について | |
太郎岳大権現の本坊跡(第一有力候補地について) | |
4)私の推測含めた太郎岳大権現の礎石跡と本坊跡の推定位置のまとめ | |
5)太郎岳大権現は、どんな宗教だったのか? | |
6)謎の太郎岳大権現を調査した意義と今後の要望 | |
あとがき |
はじめに
あと、江戸時代に大村藩が編纂した(大村)郷村記では主に、『郡村之内 福重村』の項などに郡岳や太郎岳大権現のことが書かれています。 普通、(大村)郷村記といえば役人(武士)が書いた記録集で、分りやすく表現するなら味も素っ気もない文章ばかりです。 |
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主な調査内容や期間など 私は、今回の太郎岳大権現シリーズを書く前に、下記のような場所や項目の調査を行ってきました。また、調査期間も2003年をスタートとし、現在もこれからも継続しています。
1)調査期間 |
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用語解説(一部)
(掲載日:2010年5月21日) |
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関係年表(一部) 下記は、今回のテーマである太郎岳大権現関係の年表(一部)です。この表の作成にあたり、主に国語辞典の大辞泉と大村郷村記(1982〜1987年、藤野保氏発行)などを引用、参照しました。下記「」内が大辞泉からの引用です。また、主な出来事などは、これからも追加掲載していく予定です。
(掲載日:2010年5月22日) |
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2)郡岳頂上にある太郎岳大権現の礎石跡について
4個の礎石跡(柱石跡)全部発見 一目見て、これらの石は自然にあったものではなく、目的を持って配置されていることが直ぐに分かるものでした。つまり、これは太郎岳大権現の礎石跡(柱石跡)と思えるものです。4個の石の中心点間隔からして、拝殿の柱同士は横幅110cm、奥行き100cmに建てられたものと推測できました。ただし、拝殿そのものは屋根形状の関係から、もう少し大きいのは当然です。たぶんに屋根の横幅、奥行きとも、先の長さに数十センチメートルを足したものと予想できます。 |
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3)郡岳中腹の本坊跡(坊屋敷)について この本坊跡(坊屋敷)を探すヒントは、(大村)郷村記に書いてあります。先に紹介しました大村郷村記の現代語訳を要約しますと、 (1)郡岳南側の中腹の平地=縦9m、横36mの平坦な場所(太郎岳権現があった頃の本坊の跡で、ここを坊屋敷と言う)がある。 (2)本坊近くの杉の木=106cmの杉の木が1本ある。 (3)本坊から南東の方角に汲川(くみかわ、くむかわ)と言う泉(清水)がある。 (4)郡岳(八合目付近)の西側西方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある。 などと書いてあります。
ここから、お断りを書きます。私は、本坊跡(坊屋敷)を調べて上記(1)、(2)、(3)、(4)の写真も何十枚と撮影しました。また、これらを基に2010年5月17日に開催された福重郷土史同好会・第32回例会と2011年1月14日の第36回例会に推定位置の写真や地図も含めて報告書を提出しています。ですから、このホームページにも、その地図や写真を付けての掲載も考えていました。しかし、この本坊跡の推定位置は、100%確定位置ではではありませんが、第一候補地として、かなり有力な場所です。その概要を下記に書きます。 |
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4)私の推測含めた太郎岳大権現の礎石跡と本坊跡の推定位置のまとめ (1)郡岳頂上にある礎石跡について、先の「2)郡岳頂上にある太郎岳大権現の礎石跡について」の項目に写真付きで掲載していますが、これが礎石跡(柱石跡)と思っています。 |
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5)太郎岳大権現は、どんな宗教だったのか?
私は太郎岳大権現について、「三尊を祀っていた」と古記録にあるにも関わらず、なぜ、「神仏習合」説も挙げているかには、いくつか理由があります。
注1:神宮寺とは、(国語辞典の大辞泉より「神社に付属して建てられた寺。神仏習合の結果生じたもので、社僧(別当)が、神前読経など神社の祭祀(さいし)を仏式で行った。明治の神仏分離令で分立または廃絶。神供寺。宮寺。別当寺。神護寺。 」のことである) |
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6)謎の太郎岳大権現を調査した意義と今後の要望 「太郎岳大権現は、郡岳の旧称=太郎岳に奈良時代初期に開山された」とのテーマで書いてます、この報告書も終りに近づいてきました。各々の項目でまとめをしている内容もありますので、今回は、この調査を行ってきた意義や要望など書いてみようと思いました。 (1)太郎岳大権現についての現地調査は初めてではないか 太郎岳大権現は、(大村)郷村記に書かれていても、近代に大村の郷土史関係書籍類には、その名称程度で詳細な内容は、ほとんど紹介されていません。その意味から考えれば、太郎岳大権現についての現地調査や報告書作成は、始めてのことではないかと思われます。そのため、(大村)郷村記だけをたよりに調べたことは、なかなか困難でしたが、内容の不足を感じつつも私なりに意義があったと思っています。ただ、一人勝手な判断に陥りやすくもあり、中には思い違いや記述間違いなども、この報告書にはあるかとも考えています。 (2)多くの方からの情報提供を願う この報告書は、これから調査される方の一つの参考材料になり、新たな調査や発見の呼び水になればと願っています。また、逆に新たに調査された方からの情報提供のきっかけになればとも思っています。とにかく、郡岳(こおりだけ、826m)は、そう高くはないものの横幅が広いのは私自身が体験上、実感しています。一人の目より家族やグループなどで郡岳登山される機会に多くの目で見られたら、また別の物が見えてくる可能性は大いにあるのかなあとも考えています。皆様からの情報をお待ちしています。 (3)多良大権現は多良岳でなく郡岳の旧称=太郎岳が発祥 長崎県内外広く一般には(郷土史家やマスコミまでも)、最初から多良岳(996m)にあった多良権現(金泉寺)=太良権現=多羅大権現と思っておられますが、それは間違いと思います。このことは、(大村)郷村記でも明確に(御神体や移転などが)記述されている通り、郡岳(826m)の旧称である太郎岳が太郎岳大権現の開山の地(発祥の地)であり、その後、太郎岳大権現が移ったため、「たろうだけ」から変化して「たらだけ」=多良岳となったと言われています。今回の調査報告書でも、郡岳頂上に今でも現存する礎石跡などから、より一層このことは明確になったと思います。今後、この件は、広く一般に知って頂ければなあと願ってもいます。
私は、(奈良時代初期に開山されたと言う)郡岳頂上の礎石跡を歴史的な意義からしても、史跡としての保存を望むものです。できれば、簡単な案内板でも設置されれば、知らずに壊してしまったなどが、なくなると思います。また、このことは新たな観光資源にもなるのではとも考えてもいます。また、同時に郡岳中腹にあると言う本坊跡の本格調査、何らかの遺物の発見などを期待しています。 (5)長崎県内宗教史の再検討を願う 今まで大村市内では松原地区の今山に748年(天平念戊子八月)に創建された紫雲山延命寺 (当時は山号はなし。山号は後世に付いた)が、一番古い仏教寺院と言われてきました。しかし、この太郎岳大権現は、(大村)郷村記が正しければ奈良時代初期(和銅年間=708〜715年)の開山ですので上記の紫雲山延命寺より更に古く、たぶんに長崎県内最古級の仏教、神道(宗教)施設とも言えるのではないでしょうか。ある種、今までの市内外の宗教史からも、この太郎岳大権現の歴史は、考慮してもいいテーマとも思っています。 長崎県の古い歴史からすれば新しい時期とも言われている500年程前のキリシタン史ばかりしか毎年報道や紹介されないので、私の大阪の元同僚などからは「長崎県はたった400年か500年の歴史か。日本で一番新しい県やなあ」と誤った評価の声もあります。 キリシタン史は、他県にない長崎の特徴事項ではあるのですが、そこに至る経過の宗教史は様々あったのだと広範に見ないと、現在のキリシタン史を中心とする”長崎県独特の歴史観”は、一面的で画一的と言われても否定できないと思います。是非その検討材料の一つに、この太郎岳大権現も加えて頂ければと願うものです。 以上が、今回調査の意義や今後の要望内容でした。私は、これまで何回となく重複して書いていますが、「調査は、これにて終り」などとは全く思っていません。実際、このシリーズを掲載している最中でも頂上への調査登山を始め、中腹部には5回以上、本坊跡探しに行っています。今年より以前の調査を含めれば合計10回位行ったことになります。上記は、あくまでも2010年6月現在の記述であって、これからも郡岳調査は続け、結果、この報告書の改訂や補足もしてみたいと思っています。 (掲載日:2010年6月15日) |
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あとがき
(大村)郷村記は、江戸時代の役人(侍)が書いている、通常は事実関係のみの味も素っけもない記述内容です。しかし、この郡岳記述部分は、その山容、雨、霧、雲、川、水などの自然現象、さらには土地を肥えさせていることまで表現豊かな書き方で、郷村記項目でベスト3に入る位の名文章です。そのくらい、当時のお侍さんにとっても、この郡岳は親しみのこもった大切な山だったのだなあと推測できます。 |
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