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大村の経筒
も  く  じ
主   な   内   容
状 況
はじめに
用語解説(一部)
経筒、経塚、末法思想とは
大村に現存する経筒
-
 現存5個の概要について
掲載中

 1)弥勒寺の経筒

 2)草場の経筒その1、その2、その3
 3)御手水の滝の経筒
 4)箕島の経筒
 補足:経ヶ岳の経筒
大村の経筒のまとめ
あとがき

はじめに
 経筒と言えば、平安時代の人が当時起こった天災、飢饉、疫病などの流行を背景に末法思想に怯えて(おびえて)、「56億7千万年後に弥勒菩薩の再来を託して」とか、「日本最古のタイムカプセル」などとか様々な表現で、色々な書籍類やホームページに書かれています。

 日本人の平均寿命は当時より相当長くなったとはいえ、それでも男女平均約82歳(2001年、女=84.93、男:78.07)です。ですから、この経筒の目的は、人として考えられる時間、空間を超越したような、また、「自分さえ良ければ・・・」、「金儲けさえすれば勝ち組・・・」みたいな現代風潮が恥ずかしいような、人類規模の壮大な願いを込めたものだったと思われます。

 経筒やそれを納めた経塚は平安末期に流行したと言われていますが、その後の鎌倉・室町時代にも、例えば元寇や天変地異などを契機に全国で造られています。私は、このようなことを何故当時の人はしたのか、仏教という宗教的な事柄だけでなく、歴史的なことからも興味を持ちました。

 地球温暖化、異常気象、年金・医療制度の不安、老後の不安、大量失業者、中小企業の倒産、過労死、格差社会、ワーキングプア、 ネットカフェ難民、「年間自殺者3万人」とかの言葉で象徴されるような現代の状況が、経筒の造られた当時の時代背景と似ているなどと当然言いません。

 でも、一般人でも宇宙旅行が夢の世界だけに終わらないような科学技術の発展、新品の製品でさえ破棄されるような大量生産力、一瞬の内に世界の出来事や知識が手に入る情報通信網などが現代にあっても、上記に列記したようなことが起こり、また不安があるのは何故でしょうか。形や内容は確かに違ってはいるでしょうが、経筒が造られた時代の不安や言い知れぬ怯えと、現代人が持っている同種のことと、180度も違うのでしょうか。

 私は、以前『考古学は未来学』という言葉を聞いたことがあります。この言葉の極簡単な説明を書けば、「過去に起こった数多くの事例を丹念に調査していけば、今起こっていることが今後どうなるのか、将来何が起こるのかなどが予測できる」とのことでした。 そうはいっても平安・鎌倉時代の経筒だけで、今後起こりうることが予測は出来ないとも思います。しかし、先人の残してくれた遺物で様々な思いをはせ、郷土史の勉強になることは可能だと思いました。

 あと、今回色々な調査をしている時に地域の方々からの質問含めて話もしました。ほんの少しだけ大村弁で、その話をご紹介します。「経筒って、どげんもんねえ?」(経筒とは、どのような物ですか)、「どがん価値のあっとねえ」(どのような価値があるのですか)などと尋ねられました。私は、このような話も含めて『大村の経筒』を書くきっかけともなりました。 今回の目的として、主に次の3点です。

1)大村に現存している経筒全部を写真付きで紹介したかった。(今まで、大村市内では大村史談会の本などに一部の紹介はあるが、経筒全部の紹介はないと思われる)

2)新たな情報提供を出して下さる材料になればと思った。(例えば、経筒と知らずに保存されている可能性、あるいは何らかの情報を持っておられる方もいらっしゃるのではと思った)

3)郷土史に興味を持たれている方々が、これをタタキ台にして頂き、さらに経筒の分野からも大村の歴史をご覧頂ければと思った。

 色々と欲張った、様々な思いが個人的にありますが歴史素人の書く文章ですから、中には思い違いや不足も多々あると思います。ただし、歴史事項ですから、出来るだけ間違い記述は避けたいとも思っています。ご覧下さった皆様から、様々なご指摘や情報を頂ければ無上の喜びです。ホームページは訂正や補足も容易ですから、可能な限り、その点も実施していきたいと思っています。

 なお、経筒の写真は書籍用にも出来るような精密画像で既に準備できています。ホームページ版は、画像がサーバのメモリーとの関係から相当粗く見えますので、この点ご了承願います。文章が出来しだい順不同で徐々に掲載していきますので、よろしく、お願いします。

(掲載日:2008年5月16日)

用語解説(一部)
 
経筒及び『大村の経筒』に関係する用語を下記に注釈として掲載しています。これらの用語は、国語辞典『大辞泉』、大村史談会発行『大村史談』、大村郷村記(藤野保氏発行)などを引用、参照して書きました。(順不同) 下記「」内が国語辞典の大辞泉からの引用で、<>内は大村史談会発行『大村史談』、大村郷村記などを引用です。

経塚(きょうづか)=「経文を経筒・経箱に入れて埋めた塚。後世まで教法を伝えようとし、また追善供養や現世利益(げんぜりやく)などを目的に平安中期から近世にかけて行われた。仏具などを添えることが多く、石経・瓦経なども埋めた。 」
経筒(きょうづつ)=「経塚に埋める写経を納めるための蓋(ふた)付きの容器。銅製の円筒形のものが多い。」
釈迦入滅(しゃかにゅうめつ)=「釈迦の死を意味している。入滅は涅槃にはいることである。」

・金銅藤原道長経筒(こんどうふじわらみちながきょうづつ)=「藤原道長の経筒である。日本最古の経筒とも言われ国宝になっている。この経筒は奈良県吉野の金峰山(きんぷせん)の山頂から出土し、現在、金峰神社に所蔵されている。」
・末法思想(まっぽうしそう)=「仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想。日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。」

弥勒菩薩(みろくぼさつ)= 「兜率天(とそつてん)の内院に住み、釈迦(しゃか)入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生を救済するという菩薩。弥勒仏。 」
・元寇(げんこう)=「文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、元のフビライの軍が日本に攻めてきた事変。蒙古来(もうこらい)。蒙古襲来。」
・経典(きょうてん)=「仏の教えを記した文章・書物。経文。 」

・写経(しゃきょう) =「 [名]スル経文を書写すること。また、書写した経文。仏典の保存や仏典書写による功徳(くどく)などを目的とする。」
・釈迦(しゃか)=「釈迦牟尼(しゃか‐むに)=仏教の開祖。世界三大聖者の一人。紀元前5世紀ごろ、インドの釈迦族の王子として誕生。29歳で宗教生活に入り、35歳で成道した。45年間の布教ののち、80歳の2月15日入滅。釈尊。釈迦如来。釈迦。」
・天変地異(てんぺんちい)=「天変と地異。自然界に起こる異変。台風・地震・洪水など。」

御手水の滝(おちょうずのたき)=この滝の正式名称は御手水の滝(この滝の詳細は、ここからご覧下さい)だが、滝の裏側から見れることもあり、通称:裏見の滝(うらみのたき)とも言う。大村市重井田町にある落差約30mの滝である。奈良時代の初期(和銅年間)、郡岳(826m、この山の詳細は、ここからご覧下さい)の旧称である”太郎岳”の頃、この山には三尊を祀る太郎岳大権現があった。そこに登る修験者(山伏など)の修験場が、この御手水の滝にはあったと言われている。また、この滝の水を汲んで現・草場町にある松尾神社(まつのおじんじゃ)で酒を造っていて、この神社は古来より酒の神様とも言われている。このように御手水の滝は、名称含めて名実ともに格式のある滝と言われている。

弥勒寺(みろくじ)=現在、大村市弥勒寺町の名前として、この寺院名は残っている。戦国時代、宣教師の要請により大村純忠が同意し当時のキリシタンが(他宗派の宗教弾圧として)神社仏閣を徹底焼き打ち、破壊、略奪、僧侶阿乗などの殺害までした時に、この寺院もなくなった。それ以前は、郡七山十坊(こおりしちさんじゅうぼう)と呼ばれる仏教寺院の一つであった。

・草場(くさば)=大村市草場町のことである。ここの旧・草場郷の字(あざ)に馬込(まごめ)があり、ここに古代・肥前国時代の駅=新分駅(にいきた、にきた)があった所と推定されている。また、この旧・草場郷には、東光寺(郡七山十坊の一つ)、如法寺、教通寺と言う寺院が存在した。しかし。上記の弥勒寺同様、戦国時代にキリシタンが焼き打ちなどをした時になくなったものと思われる。

・箕島(みしま)=長崎空港のできる前に存在した島の名前である。箕島は、周囲7km、面積約90万平方メートルのひょうたん型の島で、ガロウ島、ソウケ島、赤島の3小島とともに大村湾に浮かぶ美しい島だった。空港を造るため削られて埋め立てられた。現在、昔の島の面影は全くないが、南東側の海岸線の一部は、埋め立てらず当時のままと言われている。空港側と大村市側を結ぶ箕島大橋(みしまおおはし、約970m)に、その名が残っている。なお、この箕島からは古代縄文土器も発見された。

奈良時代(ならじだい)=「奈良の平城京に都のあった時代。和銅3年(710)から延暦3年(784)までの74年間。律令国家の完成期にあたり、国土の開発、制度の整備が進められ、唐や朝鮮との交通、仏教の興隆などにつれて、日本の文化・芸術が大きく開花した。聖武天皇の時代が最盛期。美術史では天平時代ともいう。奈良朝。」

平安時代(へいあんじだい)=「平安京に都が置かれた時代。延暦13年(794)の桓武天皇の平安遷都から文治元年(1185)鎌倉幕府の成立までの約400年間。平安朝時代。 」

鎌倉時代(かまくらじだい)=「鎌倉に幕府が置かれていた武家政権時代の称。ふつう、文治元年(1185)源頼朝が守護・地頭を設置したときから、元弘3年(1333)北条高時が滅亡するまでの約150年間をいうが、始期については諸説がある。 」

室町時代(むろまち‐じだい)=「足利(あしかが)氏が京都室町に幕府をおいて政権を保持した時代。尊氏(たかうじ)が幕府を開いた延元元年=建武3年(1336)から15代将軍義昭が織田信長に追放される天正元年(1573)に至る約240年間。また、元中9=明徳3年(1392)の南北朝合一までを南北朝時代、応仁元年(1467)応仁の乱勃発以降を戦国時代とよぶこともある。足利時代。 」

(用語解説の第一次掲載日:2008年5月17日、第二次掲載日:2008年6月7日)

経筒、経塚、末法思想とは
 日本では平安時代後期から鎌倉時代にかけて末法思想(まっぽうしそう)が流行しました。この末法思想とは、仏教の歴史観のひとつで釈迦の教えから数えて1,000年の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法(まっぽう)と呼びます。三つの時代の内、この末法の世になると釈迦(しゃか)の教えが衰えていくと言う考え方でした。

 この末法は平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えました。そのため、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めました。

 このことは、もちろん経典を残そうとすることだけでなく、自らの信仰心の深さを示すことによって現世でも救済を求め、さらには来世でも往生楽土を願っておこなったことと言われています。あと、平安後期だけでなく、なぜ鎌倉時代にも流行したのかと言いますと、それは特に、外的要因として2回<文永11年(1274)と弘安4年(1281)>にわたる元寇も大きな要因と言われて当時の人々は大きな不安に陥りました。

経塚のイメージイラスト(円墳タイプ)

注:経塚、経筒、単体仏も縮尺は実際と違う。上記、経筒が壊れないように周囲に石の天井板、側壁、小石で囲んだ想像図である。
  経筒とは、経塚に埋める写経を納めるための蓋(ふた)付きの容器のことです。日本全国では銅製の円筒形のものが多いと言われていますが、北部九州では滑石製の経筒も沢山見られます。滑石製と限るなら、その産地はほぼ特定できていて長崎県西海市(大瀬戸町)や福岡県大牟田市などです。滑石は加工しやすいためか、同じ産地で経筒だけでなく滑石製石鍋も多く産出されています。

 滑石製経筒は私も直接目で見て、写真を撮るため移動などをするため、手に持ちましたが、ずしりとする重量感は明らかに大村市内によくある安山岩みたいなものと違っていました。石材の質量自体が違っている感じに思えました。個別の大村の経筒紹介は、後の項目で掲載していく予定ですので、次に経筒がおさめられていた経塚について書いていきます。

 経塚とは、経文を経筒・経箱に入れて埋めた塚のことです。経塚にも様々な種類があります。その中の一つに円墳(円形の古墳)タイプがあります。右の「経塚の想像図」は、どこか実際の遺跡をもとに描いたのではなく色々な文献から例えば円墳形式なら、このような経塚ではないだろうかと言うイメージ図です。

 お経の入っている経筒を後世まで守るために平べったい敷石、四方の側壁、さらには天井板などで囲い、その周囲を小石や土で固め、ちょっとしたした小山みたいな形式と想像されます。また、経塚の上には単体仏を置き、願いが叶えられるようにまつったと思われます。

 ですから、たまに単体仏、経塚、経筒は同時に出土、発見される場合もあります。もちろん、経塚は円墳形式だけではありません。また、経筒単独で後世に伝えられてきた例も多くあり、単体仏や経塚が不明と言う例も当然あります。(以上のことから、右の想像図はあくまでも一つの参考例として、ご覧願います)

 あと、全国の経筒で一番有名なのは藤原道長(966年〜1027年)の経筒で、国宝(金銅藤原道長経筒)にもなっています。このことについて、大村市立図書館所蔵の「週刊朝日百科、日本の国宝、第10号(1997年4月出版)には写真付きで詳細に掲載されていますので、これをもとに概略紹介します。

 この金銅藤原道長経筒は奈良県吉野の金峰山(きんぷせん)の山頂から出土したと言われています。藤原道長が自ら写経した法華経などが経筒に納められていました。その経筒は銅板製の円筒形で全面に金が厚く塗られています。この経筒の周囲には24行で510文字が刻まれて、寛弘(かんこう)四年(1007年)八月十一日の銘も刻まれていて約1000年前に作られたものです。日本最古の経筒といわれています。
(掲載日:2008年6月7日)

大村に現存する経筒

現存6個の概要について
  大村の経筒について、次の項目から個別にご紹介しますが、その前に大村に現存している6個の経筒(2018年10月現在)の概要について、ふれたいと思います。(なお、江戸時代に既に壊されていたようですが、大村郷村記に記述されています経ヶ岳の経筒含めれば最低でも7個はありました) 歴史事項ですから極力推定や想像は避けなければならないと思っています。しかし、経筒自体に制作年や何かの文字が書かれていないので、あえて推定も含めて記述していきますが、現存5個の状況は下記の通りと思われます。

<大村に現存する経筒の状況>
1)経筒の現存数は、(2018年10月現在)6個である。(中に入っていたはずの経典は、いずれも現存していない)
2)経筒の石材は、6個とも滑石製である。その産地は推定であるが大村との距離関係から現在の長崎県西海市(大瀬戸町)と思われる。
3)現存6個の内、蓋(ふた)付きが2個、蓋なしが4個である。ただし、全部の経筒に当初から蓋はあったと思われる。

4)形状は極おおざっぱに形容すれば、上記3)で書いた蓋付き2個どうしは似ているし、蓋なし4個どうしも似ている。
5)制作年代は、平安時代末期と鎌倉時代と二つの時代のものと思われる。
6)経筒発見場所は、6個とも特定できている。しかし、その経筒ごと、どの場所に経塚があったかについては不確かな経筒もある。

<大村の経筒が語るもの>

 このテーマは、もっと別の機会に詳細に書きたい事柄ですが、今回下記に箇条書き風にまとめておきます。また、個別の経筒紹介が終了しましたら、あとがきでも再度触れたいと考えています。

(1)経筒は日本で流行した時代が、主に二つ平安末期頃と鎌倉時代頃と言われています。大村では後の戦国時代、キリシタンが神社仏閣を徹底焼き打ち、破壊、略奪、僧侶阿乗などの殺害までした時に、奈良・平安時代からあったと思われる貴重な史料や文化財は総てなくなったと言われています。大村に現存する経筒の年代は、かなり幅はあるものの、この二つの時代を調べるのに意義ある遺物です。

(2)経筒(経塚)と単体仏は密接な関係があると言われています。経筒だけでは時代測定は出来なくても、石仏については、その彫刻形態あるいは石材の状況から、おおよその年代が分かるため、大村の経筒が現存していた場所が、どの年代から文明は開けていたのか、あるいは仏教伝来はいつ頃なのかについても有力な解明の手がかりとなる可能性があります。

(3)大村でも江戸時代頃より文献による歴史記述が増えてきました。しかし、その内容はいったん文章化すれば例え間違い、あるいはあえて内容を偽装した歴史事項であっても、記述されているがゆえに後世になっても信じられる傾向があります。その点、先人が直接、石で作られた、あるいは残された経筒・石仏類は誰かに箔を付けるような饒舌さはなくても、たんたんと当時の真実を現代人に語りかける重みは、はるかに文献より大きいと思われます。

 次の項目から現存しています大村の経筒6個を個別に紹介していきます。なお、写真は全て上野が撮った印刷用にもできるくらいの解像度のものですが、ホームページ版は画像粗いため、この点ご了承願います。また、文章記述につきましては、次の本を参照しています。
・『大村史談 第七号』(大村史談会、1972年3月発行)の表紙解説文=箕島の経筒
・『大村史話』(大村史談会、1974年12月発行)の「箕島の今昔 −空港となって消えゆく島の物語-」(志田一夫氏の論文)


(掲載日:2008年6月9日、改訂:2018年12月21日)

1)弥勒寺の経筒
 弥勒寺の経筒は、大村市弥勒寺町の個人所有地(石堂屋敷、せきどうやしき)から出土しました。当時の発見者及び発見年などは不明です。なお、この弥勒寺町及びその周辺は、他の大村領内と同じく戦国時代、キリシタンが神社仏閣を徹底焼き打ち、破壊、略奪の限りを尽くした所です。しかし、すさまじいまでのキリシタンの破壊行為にもかかわらず、その難を逃れ、この一帯には戦国時代以前の単体仏、不動明王、線刻石仏、仏頭などが数多く現存している場所でもあります。


弥勒寺の経筒


高さ=34cm
幅 =11cm

出土場所:
大村市弥勒寺町(個人所有地)
 経筒に関連する
三体の単体仏

場所:
大村市弥勒寺町
(個人所有地)

  中でも弥勒寺の経筒との関係では、同じ場所である石堂屋敷、三体の単体仏(右上の3枚写真)のいずれかが、経塚に鎮座されていた可能性があると推定されます。他の単体仏もこの三体とも形状などから制作期は、平安時代末期頃もしくは鎌倉時代とも言われています。

 また、この石堂屋敷とは距離的には約300メートル離れた同じ弥勒寺町、字(あざ)上八龍には、上記三体の単体仏と形状が、ほぼ同じ『上八龍の単体仏』も個人宅の庭でまつられてきました。

なぜ石仏が集中しているのか
 あと、なぜ現在の弥勒寺町に、このように平安時代末期頃からの単体仏経筒、さらには鎌倉・室町時代に制作されたと推定されている不動明王、線刻石仏、仏頭などが数多く、この地に存在しているのか。(長崎県内でも、このような時代のものが、これだけ多数存在しているのは唯一この福重の弥勒寺町だけと言われています。石仏類の詳細は『仏の里 福重』ページから、ご覧下さい) この点についての明解な根拠を述べておられる史料類は、ないようです。

 江戸時代に大村藩によって編纂された(大村)郷村記によりますと奈良時代の初期(和銅年間)に奈良の僧の行基が、郡岳の旧称である”太郎岳”に三尊をまつる太郎岳大権現を開山したと記されています。(郡岳や太郎岳大権現についての詳細は、ここからご覧下さい)

 この太郎岳大権現の山岳宗教との関係では、修験道が弥勒寺町と福重町(旧・矢上郷)との境を流れる石走川沿いあったことから、この弥勒寺町の石堂屋敷周辺が、その通り道であったことも地理的には言えます。いずれにしましても経筒との関係では、この弥勒寺町には平安時代末期頃の制作と推定されている単体仏4体(2008年6月現在)が現存してるのは事実で、今後の古代から中世史を紐解く意味でも、この弥勒寺の経筒の存在は役割があると言えます。

(掲載日:2008年6月12日)
2)草場の経筒その1、その2、その3

 草場の経筒その1、その2、その3は、大村市草場町の如法寺跡(にょほうじあと)近く(この寺院跡から約100mh\北側へ行った)畑から出土しました。(当初の)発見者は土地所有者の家族の方で、発見年は戦後間もない頃(1946年頃)と聞いています。しかし、長年、この筒が、経筒とは分からず保管されていました。

 その後、2003年3月1日に『福重のあゆみ』を出版された寿古町の増元義雄氏が、(その1、その2は、本宅にあったので直ぐ見れるので)、先の冊子作成以前に、「これ(2個)は、経筒ではないか」と思われ、大村市教育委員会の方とも相談された結果、その2個は経筒に間違いないことを確認されました。

 当時、経筒と確認されたのは、2個だけでした。そのため、高さの高い方を『草場の経筒その1』、低い方を『草場の経筒その2』と呼称してきました。そして、さらに2018年10月16日に、小屋と本宅間の通路に置かれた草場の経筒その3を、上野が再発見しました。次の日(2018年10月17日)に、大村市教育委員会・文化振興課の2名(学芸員)の方に確認して頂きました。

草場の経筒その1
高さ=45cm
幅 =16cm
草場の経筒その2
高さ=34cm
幅 =17cm
草場の経筒その3
高さ=36cm
幅 =20cm

 この項目冒頭と、繰り返しになりますが、この草場の経筒3個は、いずれも畑の中から出土しました。発見者は土地所有者の家族の方で、発見年は戦後間もない頃(1946年頃)と聞いています。そして、畑からリヤカーで小屋に運ばれました。後で、草場の経筒その1、その2の方は、汚れていたためか洗浄され、石の表面を磨かれたそうです。

 また、姿形が良かったためか、本宅の部屋で置物(もしくは花瓶)みたいにして大事に置かれていました。『草場の経筒その1』が、やや白っぽい色、『草場の経筒その2』が、ややグレー色をしています。

 草場の経筒その1、その2は、(2個の経筒とも)滑石製らしくローソク肌みたいにスベスベした滑らかな感じがしました。また、どちらともズシリとする重量感がありました。大きさは先に紹介しました弥勒寺の経筒に比べて、ふたまわりほど大きく経典も多く入ったものと推定されます。

 草場の経筒その3は、一部に穴や傷があったためか、そのままの状態で小屋に置かれていました。それから、2015年頃の小屋の建て替え(新改築)工事前の解体作業時まで同様の状態でした。そして、先に書いています通り、再発見となりました。この経筒の色は、やや白味がかった肌色系か黄色系の薄い色に見えます。

 また、他の2個の経筒と違って、畑から発見された当時のままに近い状態です。全体で見るならば、一部に欠損があるが、それ以外は、ほぼ全て良好の保存状態といえるでしょう。先の2個の経筒と同じように滑石製で、表面は触れば滑らかです。制作当時の加工痕も、そのままといえ史料的価値も高いといえます。

 草場の経筒その1、その2、その3の制作年代は、いずれも末法思想の流行した同時期で、形の古さからして平安時代末期(今から約900年前)のものと、私は推測しています。

草場の経筒発見場所は、元・如法寺跡周辺
 上記3個の経筒が出土した場所は、旧字で「女法寺」の畑です。この畑から直線で100mくらいの所には戦国時代頃までは、如法寺(にょほうじ)と言う仏教寺院があったと言われ、大村純忠時代のキリシタンによって焼き打ち、破壊にあったと思われます。

 この如法寺は、いつ頃に創建されたものか不明です。「如法寺」は(全国例で)、一説によると、経塚と関係の深いといわれています。ただし、ここ草場町の如法寺も関係あるか、どうかは、まだ検証が必要ありとも思えます。ただ、言えるのは、この経筒出土の場所は、尾根伝いに連なる丘陵部の低い位置ではあるのですが、見晴らしのいい所です。

・同じような場所から経筒3個の出土は、珍しい
 なお、完全な場所の断定までできていませんが、同じような畑から経筒が3個も出土した例は、文化振興課の方のお話によりますと、「珍しい」とのことでした。

草場の単体仏
全体の高さ43cm、幅23cm

草場の単体仏(滑石製平安仏)との関係は
 あと、経筒・経塚に乗っていたとも言われている単体仏(滑石製平安仏)の件です。これについて関係あるかどうかは不明ですが、草場町には『草場の単体仏』(右側写真参照)があります。この単体仏がある所は、経筒が出土した畑より約300m離れています。

 ただし、距離が遠いからと言って、私は全く無縁とは思えません。なぜなら、後世に経塚全体が開墾され田畑や宅地などになった場合、経塚の上にあったと思われる単体仏(滑石製平安仏)だけは、どこかに移されて安置された可能性が大きいからです。

 この福重の地で、石仏・石塔類を破壊する行為をする例は、戦国時代のキリシタンを除けば、ほとんど見られません。ですから、畑や水田の耕作上その地で、その土地でまつりきれなくなった石仏類は、仏教寺院、神社、墓などに移されているか、あるいは個人宅の家神様などと一緒に見られる例が多いです。実際、既に紹介しました(弥勒寺の経筒項目の)「上八龍の単体仏」は、個人の庭先で長年まつられていて、2008年5月に単体仏(滑石製平安仏)として、発見された例もあります。

(掲載日:2008年6月16日、改定日:2018年12月21日)

3)御手水の滝の経筒
御手水の滝(通称:裏見の滝)
経筒発見記念碑

  この御手水の滝の経筒(おちょうずのたき、通称:裏見の滝とも言う)の名称について先に書きます。他の『大村の経筒』(現存5個)の4個までは全て地名=(現在の)町名や元の島の名前が付いています。しかし、この御手水の滝の経筒だけは、滝の名前から付けています。実は、発見された場所も特定できるので地名付きの呼称も出来ますが、長年の様々な経過があるので今回の名称がよりふさわしいと思い使用しています。

 あと、この滝の詳細記述ついては、大村郷村記の内容も含めて『御手水の滝』ページに掲載していますので、併せてご覧下さらないでしょうか。この経筒の発見者、発見年やその概要について、御手水の滝の近くに記念碑が建立されています。この記念碑には、次の< >内の通りに書いてあります。

御手水の滝の経筒経筒発見記念碑の碑文(全文)
 昭和十年旧正月元日ヨリ観世音ノ神通力ニヨリ七回ノ霊夢ニ感ズル所アリ現場ヲ試ミ一尺五寸程掘(注1)リ石ノ蓋アリ其ノ下ニ上圖ノ石壺ヲ発見セリ之ハ木炭ニテ覆い週圍(注2)ニハ平石ヲ立テ維持ナラシメアリ石器時代の製品トノ説アリ依テ神前ニ備ヘ此所ニ霊感ヲ記シテ後日ニ傳ウ 祭主 岩崎郡太郎  

(注1): 堀の文字が碑文では「土」へんに「屈」となっている。  (注2):周囲の周の文字が碑文では「週」となっている。

碑文の現代語訳
 (注:上野の素人訳なのでご参考程度に、ご覧願います) 次の<>内です。
 昭和10(1935)年旧正月の元日、観音菩薩の神通力により7回のお告げ(夢枕に立たれた)を感じて、この現場を試しに一尺五寸(約45 cm)掘ったところ、石の蓋(ふた)が出てきた。(さらに掘ると)その下に上図の石壺(経筒)を発見した。これを木炭で覆って、周囲には平たい石を立て維持(保全)するようにした。石器時代の製品ではないかとの説も出たので神前へおそなえして、この場所は霊感を記念して後日(後年)へ伝えることとした。  主宰者 岩崎 郡太郎 

  碑文は上記の通りですが、一部「石器時代の製品」は、間違いと思われます。経筒の流行は、平安時代末期及び鎌倉・室町時代と言われています。

発見場所は立福寺町
 この記念碑でもお分かりの通り、この経筒の発見年は昭和10(1935)年旧正月の元日で、発見者は当時の松原村野岳の岩崎郡太郎氏です。発見場所は、碑文通りのことなら、この記念碑の下と言うことになります。あと、この発見場所は、その当時、旧・福重村立福寺郷=現在の大村市立福寺町(りふくじまち)で、滝道の脇です。

 ちなみに、この御手水の滝自体は大村市重井田町にあります。しかし、現在、シャクナゲ公園がある所は一般には全て立福寺町と思っておられる方も多いでしょう。しかし、それは間違いで立福寺町と重井田町にまたがっています。滝の水流である拂川(はらいがわ、祓川)を境に東側を重井田町、西側が立福寺町です。あと、重井田町側にあるお堂を祀っておられるのは、大村市野岳町の方々です。その関係から、このお堂に来られた野岳の方が発見されたと言うことです。

御手水の滝の経筒
筒本体:高さ29.5cm 直径33.5cm
蓋の直径:30cm 厚さ(高さ)5cm

郡岳(この山は奈良時代初期には
太郎岳と呼称し、太郎岳大権現神社があった)

大村市立史料館に所蔵されるまでの経過
 発見された後、この御手水の滝の経筒は、碑文にもある通り滝の下にある神社か、どこかの神前でそなえられていたようです。この経筒は、その後も、いくつかの経過をたどり大村市立史料館に所蔵されることになります。そのことについて(伝承ながら)昭和30年代か40年代頃、この経筒はある一時期、理由定かではないももの長崎市内の古物商に売りに出されていました。

 色々な方々の話し合いの結果、「大村市内から出土した貴重な経筒だから買い戻そう」と言うことになり、大黒屋の社長さんが購入され、大村市に寄贈されたようです。そのような経過があり現在は大村市立史料館に所蔵されています。

経筒の石材、年代や単体仏について
 この経筒は他のものと同じく滑石製で、推定ですが西彼杵産ではないかと思われます。ただし、制作は平安末期か鎌倉時代のものか、はたまた全く違う時代のものか、分かりません。この御手水の滝の経筒は、蓋が付いたまま発見され保存状態も良好です。

 あと、経筒の形状だけを見たら他の福重地区で出土した細長い経筒と違って、ずんぐりとした小太りの形をしています。形だけを見ましたら、後でご紹介します箕島の経筒に似ているような感じはします。ただし、形が似ているから全て同時代の特徴が備わっているとの考えは早計で、これ以上の推測は控えておきます。

 また、「経筒と単体仏はセット」と言う例が多いのですが、今回、この経筒と関連する単体仏は見つかっていないようです。私も今回調べましたが単体仏のことについては分かりませんでした。あと先に紹介しました通り、この御手水の滝の経筒が発見された場所は、滝の横から登った道脇です。地形から推測して、この地に高さのある経塚は築きにくかったのでないかとも思えました。

御手水の滝は山岳信仰の修験者(山伏)の修験場だった
 既に別の、『古代の道、福重の修験道』ページに掲載していますが、この御手水の滝(通称:裏見の滝とも言う)は、山岳信仰の修験者(山伏)の修験場でした。郡岳の旧称である太郎岳には、奈良時代初期(和銅年間)に三尊を祀る”太郎岳大権現”があり、その本坊に行くための途中に、この滝はあります。(この太郎岳大権現などについては、『郡岳』ページに詳細は書いています)

 また、この御手水の滝の水で(現在の大村市草場町にある)松尾神社(まつのおじんじゃ)で酒が造られました。(「松尾神社は酒の神様」とも言われています)。山岳信仰や修験道なども含めて、この滝やその周辺は、古代より宗教的な霊地みたいな所として捉えられてきたようです。

 ただし、奈良時代と経筒とは、時代的に合わないので直接関係ないかもしれません。あと、太郎岳大権現はその後、多良岳に移りますが山岳信仰や修験道などが、この御手水の滝周辺で急に全部が絶えてしまったとも考えにくいと思われます。キリシタン時代には一時期、神社仏閣が破壊されましたが、その後も、この滝の神社や(上側の駐車場横に)重井田太神宮の一の鳥居がありますが、ずっとまつられてきたようです。

(掲載日:2008年6月29日)

4)箕島の経筒

箕島(みしま)
中央左端の上側はがろう島、その下側はそうけ島、箕島側にあるのが赤島。写真左側が大村市街地方面、右側が西彼杵半島方面。
(市制30周年記念特集号『大村のあゆみ』1972年2月11日発行より)

箕島について(概略史)
 箕島の経筒を述べる前に、この島について少し長い紹介になりますが書いていくことにします。箕島(みしま)とは、大村市の本土側から約1キロ先にかつて浮かんでいた瓢箪(ひょうたん)の形をしていた島の名前でした。ここからの記述は、大村史話(下巻)「箕島の今昔」(志田一夫氏)を参照して書いています。

 この箕島は多良岳(たらだけ)が噴火(約100万年前から開始、約25万年前頃に終了と言われている)盛んな頃、近くにある臼島(うすしま)とともに東西に走る断層線に沿って海から隆起してできた火成岩の島と呼ばれていました。箕島は近くには「がろう島」、「そうけ島」、「赤島」もありました。このように臼島含めて、島の名前が農機具から付けられているのは興味深いことです。

 江戸時代以前の記録は今回ご紹介する経筒を除き、ほとんど残っていませんが、経筒が発見された近くから縄文式土器も出土していて、古代から人の形跡はあったようです。あと、江戸時代の頃からは、この箕島について大村藩の古記録が残っているようです。それらによると、この島に居住していた人達、さらには陸側にある前船津から船で通いながら農業をされていた人たちもいました。。

 また、戦前戦後を通じて、この島では冬でも霜が降らないなどの気候温暖の反映からか農産物もとれていて、特に、箕島大根や箕島スイカは有名でした。その中でも大正時代頃から栽培されていた箕島大根は評判が良く、長崎県下だけでなく九州各地でも、さらに遠くは上海など中国にも売られていたそうです。

 時代は下り、1969(昭和44)年に大村空港の新しい候補地として箕島が有力地と見なされ、その当時、島の13世帯や島外地主などとの用地買収を終え1972(昭和47)年1月から新しい空港の建設が始まりました。3年余りの工事を経て1975(昭和50)年5月1日に現在の長崎空港が開港しました。島の名前は、空港島と陸側をつなぐ箕島大橋(970m)として残っています。

 なお、この空港島南側(掲載写真、上側の右面の海岸線の一部)は、空港建設用地とはならず自然のままに残っており、箕島誕生時代から現在を見る上で貴重な海岸線であるとも言われています。

箕島の経筒
  箕島の経筒について調べる時、最初に目にする文献が、大村史談・第七号(大村史談会1972年3月発行)の表紙写真とその表紙解説文です。ここにけっこう箕島や経筒について、詳細に記述されています。この文章を引用して、次の< >内を書いています。なお、省略文もありますので、ご了承願います。

  大村扇状地平野の沖合千米(注1)の箕島は、(中略)  古代縄文土器も発見されたが、鎌倉時代文治元年作(注2)と伝えられる経筒が先年島の北側高台から出土し、田野純三氏から大村高校(注3)に寄贈された。この経筒は高さ四十三糎(注4)、直径二十七糎(注4)の滑石製円筒で、蓋は八角形笠型である。鎌倉を中心に末法思想流行の頃極楽往生、追善、逆修を祈願した豪族か高僧かが、来世に出現する弥勅菩薩のために法華経などを書写した経文を埋納地中に保存したものであろう。(後略) 

箕島の経筒
全体の高さ:45cm、周囲:97.5cm
筒のみの高さ:38cm、直径27cm
 筒の内側の高さ34cm
 筒の内側の直径(内径)21.5cm
蓋の直径31.5cm、厚さ(高さ)6.5cm

(注1):千米=1000m
(注2):この頃は、まだ大村市立史料館ができる前で、当時、長崎県立大村高等学校が、いくつか文化財を保管していたと思われる。
(注3):文治元年は、西暦1185年である。
(注4):糎=cmであり、この文章の場合「この経筒は高さ43cm、直径27cm」である。


 上記の< >内の文章は、これ以上の解説は必要ないくらい分かりやすいとおもいますが、あえて、今回の『大村の経筒』シリーズで取り上げた項目と似た分類にするため、いくつか補足も含めて次に書きます。

箕島の経筒、発見年・発見場所・発見者は
 箕島の経筒は、大村史話(下巻)「箕島の今昔」(志田一夫氏)を参照しますと大正時代末期頃に山口亀太郎氏が、西大村小学校・箕島分校の上の畑から発見されたとのことです。(注:箕島分校は1960年に大村小学校の分校となったが、長崎空港建設にともない1972年に廃校となった)

 発見場所は、箕島分校の上の畑と言うことですから、瓢箪型の島のくびれた所に学校はありましたので、やや高台にあったようです。ただし、この時に経塚あるいは単体仏も発見されたかどうか不明で、そのことを書いてある論文などもありません。

 あと、箕島の経筒は前記の文章にある通り、一時期、長崎県立大村高等学校に保存されていましたが、1973年に大村市立図書館・史料館落成したと同時に、史料館に移管されたものと思われます。

補足として、私は写真撮影の時に箕島の経筒を計測し、両手で持ってみました。滑石製の滑らかな感じとともに、全体の大きさ(高さ45cm、周囲97.5cm)や、およそ20〜30キロくらいはあろうかと思える重量感には、やや驚きでした。お経を入れていた内側も広く高いもので、これならいくらでも経典が入るなあと思いました。

 蓋(ふた)は割れていましたが、八角形の形状は珍しいものでした。なぜ、このような形になっているのか、論文その他には書かれていないようです。あと、この重量からしても滑石の産地・西彼杵半島から運搬するには舟に乗せて箕島に来たものと想像しました。

 あとさらに想像をたくましく考えるとこれだけの大きな経筒は、当時の価値観は全く不明ながら、それなりに財力がないと生産地や制作者に注文できなかったのではとも考えました。その意味から前記解説文の「豪族か高僧か」が、この経筒を作らさせたとの記述は当たっているなあと思いました。

 また、大村市内に現存している経筒5個の中で、いずれも経筒それ自体に年号が入っている訳ではありませんし、経典も全て紛失しています。ただし、箕島の経筒だけは、伝承として「鎌倉時代文治元年作」が伝わっています。これは私の推測ですが、この経筒に納められていた経典の中に、この年号が書かれてあったものではないかと思われます。

 しかし、発見当初から経典の痛みが激しくて、その後紛失などあり伝承のみが残ったものと思われます。伝承は真偽が常につきまといますが、「文治元年作(西暦1185年作)」は、源平合戦の壇ノ浦の戦いや源頼朝が守護地頭を設置した頃で、全国的には激動期でした。

一時期は文化財にする動きもあった箕島の経筒
 私の調べた昭和30年代頃の新聞記事に箕島の経筒を調べた長崎県文化財専門委員(元大学教授)の話が書いてあります。残念ながら新聞社名も発行年月日も正確には分かりませんませんが、どうも1960年6月頃に発行されたものと推測されます。この新聞切り抜きを見ますと見出しに「大村高にある石の経筒 間違いない重要文化財」とあり、その本文には「・・・申請すれば重要文化財指定は間違いない・・・」などとも書かれています。

 さらに「・・・八月十五日ごろには、東大、京大、明大、広大、九大などの教授たちが大村の古墳調査を行う予定だという。 こうして、大村を中心とする大和奈良時代の古墳や遺物が学者の関心を集め、あらためて研究されようとしている・・・」との記事内容もありました。この当時、大村の古墳や箕島の経筒などに関心が高まっていたと思われます。

 しかし、この箕島の経筒は、現在でも国、県レベルでも大村市としても重要文化財などの指定になっていません。なぜ、そのようにならなかったのか理由は、私の調査では分かりませんでした。いずれにしても、この箕島の経筒は、大村で最も有名な経筒です。

(掲載日:2008年7月20日)

補足:経ヶ岳の経筒

経ヶ岳(きょうがだけ)の頂上1,076m
大村市黒木町から早朝に撮影
(この頂上に経筒が埋められていた)

  冒頭からお断りを書きますが、この経ヶ岳の経筒は、現存を確認されていません。ただし、江戸時代にはあったようで、大村郷村記にそのことが記載されています。それは、大村郷村記の「萱瀬村、経ヶ岳」の項に記述されています。

  大村郷村記の引用と私の現代語訳が長くなりますが、これからご紹介いたします。できるだけ旧漢字体も変換できる文字についてはそのように努めましたが、例えば経ヶ岳の「経」は変換できないため、「経」の字を使用して表示しています。その他の難しい文字も同様です。また、文字不明のところは「」を付けています。

経の岳之事
 此経の岳は黒木の原より壼里程丑寅の方にあり、大巖石屹立して山峰創成すか如し、其高サ測るへからす、雲霧常に山嶺を包纏す、岳の頂上長サ拾七間、横五尺程あり、麓より絶頂迄の間石南草・槐・楓・樫・柘等の諸木多し、然れとも寒風の爲に損われ幡屈し木立高からす、

此岳彼杵郡中第一の高山にして、鄰國眼下に見ゆるといへとも、今樹木繁茂して風景を失ふ、此岳の絶頂藤津・彼杵・高來の三郡の境にして、東高來、北藤津、南西彼杵郡なり、又當領と佐賀領との境なり、往昔此絶頂に壺に経文を納埋めし所なる故、経の岳と號すと云傳

土人曰、此経の岳、上古ハ或時は高くなり、又俄に低くなり、高低更に定まらず、種々の奇怪あるゆへ、此絶頂に経文を納めし所、其後怪異やむとなり 天明元年十月、或人此岳の頂上を掘見るに、果して一ッの壷を得たり、其壷中を見るに経文あり、然れとも壷割居紙腐敗して運讀せす、可惜故に唯其文字の存せし處のみを寫とり、所持せしを予乞得て左に記す

後に聞、本文経の嶽に納る斯の経文ハ、須田内証山奉行たりし時、登山改め之書寫すと伝々、右寫須田家にありしを、乞て爰に記すもの也 敬白 此所に施主の名ありと見へたり、壷われ紙きれて知れす

今如法経者永仁二年卯月上旬永仁二年安政六年迄五百五拾五年ニなる 奉書爲同年九月十四日供養 此間に文字ありといへとも不分明 上六郡部也、光經爾記不知以下又不分 又鏡の割ありと云ふ、予或日登山して、右壺を埋めし所を掘改めしに、今は嚴石の中に穴ありて壷の形もなし、唯土中に梵字書たる平石を得るのみ

土人曰、毎歳九月十五日には此處に幣を立、諫早領太良村の郷士何某祭之と云

-------------・・・・・------------・・・・・・-------------・・・・・-------------
 下記からは、私の現代語訳についてですが、これはあくまで私の素人訳です。正確性を欠くと思っていますので、ご参考程度にご覧下さらないでしょうか。( )内に補足や注釈をしながら書いています。

経ヶ岳のこと
 この経ヶ岳は、黒木の原(萱瀬村黒木郷の平坦な所)より4kmほど丑寅の方角(北東方向)にある。大岩石がそびえ立っていて山の頂上は初めて出来上がったように見える。その高さは測っていない。雲と霧が常に山の峰にまとわり包んでいる。山の頂上(部分)は、長さ約31m、横約1.5mほどである。

 山麓より頂上までの間には、石南草(しゃくなげ)、槐(えんじゅ)、楓(かえで)、樫(かし)、柘(くわ)などの木が多い。しかし、寒風のために損なわれてしまって旗が屈したように木が高くない。  この山は、彼杵郡の中で第一の高い山なので、隣の国も眼下に見えるはずだけれども、現在は樹木が茂っているため、その風景(眺望)が失われている。 この山の頂上は、藤津、彼杵、高来の三郡の境で、東は高来郡、北は藤津郡、南西は彼杵郡となる。また、当領(大村領)と佐賀領の境でもある。

 大昔、この山頂には壺(つぼ)に経文(経典)を納めて埋めた所なので、経ヶ岳と名付けられたと伝聞されてきた。地元の人が言うには、「この経ヶ岳は大昔、ある時には高くなり、また急に低くなったりと、高低がいっこうに定まらなかった。種々(様々)な奇怪(怪しく不思議)なこともあったので、この山頂に経文(経典)を埋めたところ、その後、怪異(不思議な現象)は止んだ。

 天明元年(西暦1781年)十月にある人が頂上を掘って見たところ、一つの壺(つぼ)を手にした。その壺の中を見ると経文(経典)があった。しかし、壺が割れ、経典は腐敗してキッチリは読めなかった。惜しかったので、ただ文字の見えるところだけを写しとったのをあらかじめ持ってきたので左に記すこととする。

 後で聞いたが、本文は経ヶ岳に納めた。この経典は、須田内証氏が山奉行(山林の役人のことか?)だった時に、改めて登山してこれを写したなどと伝聞もある。右の写しは須田家にあったものを頼んでここに書いたものである。

 敬白(謹んで申し上げる) ここに当主の名前があったと見える。 壺が割れて紙きれにて知らせる。  この如法経(筆写した経文)は、永仁二年(西暦1294年 (注1))卯月(陰暦で四月)上旬である。永仁二年から安政六年(西暦1859年))までは555年になる。  この書写しを奉り、同年9月14日に供養した。 この間に文字があったが不鮮明で上から6部分くらいの文字である。光経(注2)に記したが不明で以下また分からず。 この文書の写しは、同年9月14日に供養した。 この間に文字があったが不鮮明である。上から6部分くらいの文字である。それ以下また分からず。

外輪山の様に見える多良山系(奥の山並み)
(左側:黒木小学校、手前:萱瀬ダム)
経ヶ岳は見えないが、左側の山の後方にある

 また、鏡の割れたのがあったと言う。以前のある日に登山して、右の壺に埋めた所を掘って改めたところ、現在は岩石の中に穴があったが、壺の形をしていなかった。ただ土の中に梵字(ぼんじ)(注3)で書いてある平たい石があるのみである。地元の人が言うには、毎年9月15日には、ここの所で御幣(ごへい)(注4)を立て、諫早領・太良村の郷士(注5)の何とか言う者が、これを祭っていると伝承されている。

(注1):永仁二年(西暦1294年)は、鎌倉時代、北条貞時の頃である。
(注2):光經=何かの経典のようだが意味不明である。
(注3):梵字(ぼんじ)=古代インドでサンスクリット語を書くのに用いたブラーフミー文字こと。
(注4):郷士(ごうし)=江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者。

(注5):神に供えるささげもののこと。


経ヶ岳の経筒の補足
 先に書きましたのが、江戸時代・大村藩が編纂した郷村記に書かれた経ヶ岳についての記述でした。この中に、経典の入った経筒のこと、あるいは腐敗して見えにくくなっていたものの経典及びそれを写した内容についても触れられています。ここで、改めて、経典と経筒について分かりやすく整理しますと

(1)経筒に入っていた経典は、永仁二年(西暦1294年)卯月(陰暦で四月)上旬に作成されたものであること。
(2)経筒の制作時期は、経典の書かれた時期よりは当然速いと思われるが、ほぼ同時期の西暦1294年頃であること。
(3)江戸時代の天明元年(西暦1781年)十月に、経筒が発見された時には既に割れて(経筒の蓋にひびが入った状態のことか?)いたこと。
(4)安政六年(西暦1859年)頃までには、経ヶ岳の頂上には経筒はないものの、梵字の彫られた平たい石が存在したこと。
(5)経典の写しを所有されていた人は、萱瀬村の須田家であること。

 などがまとめられると思います。これらのことから、経典は腐敗して無くなったと思われます。ただ、真偽定かではないのですが、経筒の方はどうも江戸時代に萱瀬村に降ろされた可能性があることを示唆しています。

 さらに時代は下って昭和30年代に行われた長崎県による民俗調査の時、これに近い伝承が当時の萱瀬地区、坂口の方々に伝わっていてメモもされていました。いずれにしても現在は行方不明です。伝承だけなので肯定も否定も出来ませんが、萱瀬のどこかに経筒と知らずに保管されている可能性も全くなしとは言い切れないと思います。

経筒制作時期の永仁二年(西暦1294年)頃について
 あと、上記の経典の作成(ほぼ同時期に経筒も制作)時期=永仁二年(西暦1294年)についてです。この時期は、鎌倉時代(北条貞時の頃)です。この時期よりも早い時期に、蒙古軍の襲来<文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、元のフビライの軍が日本に攻めてきた事件のこと>から、既に10数年は経ってはいます。しかし、この鎌倉時代、未曾有の大事件であった蒙古軍の襲来は、その後も人々を不安に落し入れました。

 平安末期に末法思想が流行した頃に経塚や経筒が沢山作られたと既に書きました。鎌倉時代もかなり経ったこの頃ですから直接は末法思想とは関係ないとも思われますが、蒙古軍襲来などにより、平安末期と似たような社会不安の背景がこの時期にあり、そのため経塚や経筒が制作されたと推定されます。

 大村の経筒の制作年代で、伝承含めて分かっているのは箕島の経筒(文治元年=1185年)と、この経ヶ岳の経筒(永仁二年=1294年頃)しかありません。経ヶ岳の経筒は、やや新しい時代のものと思われます。(この制作年代のことについては、後のまとめの項目でも書く予定にしています)

(掲載日:2008年8月14日)

大村の経筒のまとめ
 これから大村に現存する経筒5個と補足として経ヶ岳の経筒、併せて6個についてのまとめを下表も交えながら書いていきます。ただし、内容については、この「大村の経筒」シリーズ最初の方に既に<大村に現存する経筒の状況>、<大村の経筒が語るもの>を書いていますが、この項目と重複する記述が多い点は構成上の理由から、ご了承願います

 なお、制作年代は、大村郷村記または伝承あるものについて、そのまま記入しました。さらに時期不明なものについては、経筒そのものの形あるいは経筒とセットとも言われている経筒発見周辺から出土した単体仏の推定制作年代も参考にしながら、私の個人的な推定・推測として書き加えました。特に、福重にある単体仏は、全て平安時代末期頃の制作と言われていることも改めて、ご紹介しておきます。

 また、単体仏と経筒の数が合わないので、まだ、経筒が周辺の土の中に眠っている可能性があると思えます。ちなみに、私の調査で経筒と関係ある福重の単体仏は、弥勒寺町に5体、福重町に2体、草場町に1体が最低あります。この中にはキリシタンの破壊によって半分近くしかない単体仏も含めています。

  下表をご覧になる前に、改めて皆様にお願いしたいのは制作年代については、あくまでも一つの参考事例として、ご覧下さらないでしょうか。また、これら推定・推測している事項について、今後何か新たに年代を特定できるような史料(資料)が出てきた場合、速やかに変更していく予定です。その点も、あらかじめご了承願います。

番号
名   称
発見場所(現町名)
石   材
制作年代(推定・推測含)
大きさ(概要)
弥勒寺の経筒 弥勒寺町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約34cm 幅約11cm
草場の経筒その1 草場町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約45cm 幅約16cm
草場の経筒その2 草場町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約34cm 幅約17cm
草場の経筒その3 草場町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約36cm 幅約20cm
御手水の滝の経筒 立福寺町 滑石製 鎌倉時代頃 高さ約30cm 幅約34cm
箕島の経筒 (旧)箕島 滑石製 文治元年(1185年) 高さ約45cm 幅約27cm
経ヶ岳の経筒 黒木町

(不明)

永仁二年(1294年)頃 (不明)

<下記は現存6個の写真一覧です。ただし、写真の縮尺は各々違いますので見た目の大きさは参考になりません。詳細は、既に紹介中の個別項目の大きさをご覧下さい。また、上表にも大きさの概要は書いています>

大村の経筒、現存5個の写真一覧
弥勒寺の経筒
草場の経筒その1
草場の経筒その3
草場の経筒その3
御手水の滝の経筒 箕島の経筒 - -
- -

1)現存6個の経筒を形状から見た特徴点は
 現存、6個の内、弥勒寺・草場その1・草場その2・草場その3の4個は、大きさに違いはあるものの、ほぼ似たような細長い形状です。(蓋は埋められた当時から出土するまではあったはずです) 御手水の滝・箕島の経筒2個は、大きさと蓋の形は違っていますが、基本形はほぼ似たズングリむっくりした形状と言えます。これは、それぞぞれ、造られた時期が似通っているからだと思われますし、また、発注者や石材産地の経筒制作者の違いもあった可能性も当然あるでしょう。

2)推測も含めた経筒の制作年代は
 私の推定・推測も含めて、弥勒寺・草場その1・草場その2・草場その3の4個は、平安時代の末期頃で、御手水の滝の経筒は鎌倉時代と思われます。箕島の経筒は文治元年(西暦1185年)、経ヶ岳の経筒は永仁二年(西暦1294年)頃と伝承や文献が残っていますので、より鮮明と思えます。

 これらの制作年代で分かるのは、全国で経塚・経筒が流行った二つの時期(平安時代末期頃と鎌倉時代)と、大村の経筒も一致していることです。弥勒寺・草場その1・草場その2・・草場その3・御手水の滝の経筒、合計5個が出土した福重の地は、旧石器・縄文・弥生時代の遺跡や古墳も多く出土する地域で元々人が多く住んでいた関係もあり、仏教も相当早くから伝播していたことも示しているのではないでしょうか。(この仏教伝播のことは、さらに後の項でまとめています)

3)滑石製の経筒、産地は西彼杵半島では
 このことについては既に<経筒、経塚、末法思想とは><経筒とは>の項目でも書いてきましたが、現存6個の大きさ、形状、重さなどは違いますが、石材は全て滑石製です。九州における滑石製の産地は、福岡県では大牟田市、長崎県では西海市(大瀬戸町)が有名です。大村の経筒は、その位置関係からして、西海市(大瀬戸町)の産地が可能性として一番大きいと思われます。

 また、石の重さからして運搬手段は、舟での輸送が考えられるのではないでしょうか。当然、車社会の現在よりも当時の方が、別名”琴の海”とも呼ばれている鏡のような静かな大村湾を利用して、舟で西彼杵半島と大村側を行き来していたと思われます。

4)福重は、なぜ経筒と単体仏が多いのか
 今回ご紹介した現存5個の経筒の内5個が福重からの出土、それに経筒とセットと言われている単体仏が10体近く(私の調査では、平安時代末期の単体仏が現在8体)が福重に現存しているのは、何を物語っているのでしょうか。現・大村市全体の面積からすれば福重地区は、萱瀬・大村地区についで3番目の広さがありますから決して狭い地域ではありませんが、それにしても他の地区では経筒や単体仏が少なくて、なぜ福重だけに集中しているでしょうか。

 さらに、その福重地区の中でも単体仏(私の調査で)8体の内、5体が弥勒寺町に現存しています。この町のしかも狭い地域に集中しているのは、大村の石仏を語る時にある意味、ひとつの”謎”とも言えるものです。

 このことは単に、旧石器、縄文・弥生・古墳時代から穀倉地帯で福重には人が多く住んでいた地域だからだけでは論じられないのは当然のこととしても、何らかの理由で経筒と単体仏が集中している理由があるような気がします。今後も研究していくテーマではないだろうかとも思えます。

5)経筒は、大村への仏教の伝播、文明進展を物語るのではないのか
 経筒の役目は、既に冒頭述べましたように経塚に埋める写経を納めるため容器です。さらに解釈を広げると、これを埋めた当時の方が末法思想、天変地異、飢饉あるいは蒙古軍襲来などの社会不安におびえて「56億7千万年後に弥勒菩薩の再来を託して」埋めたものとも言われてきました。

 経筒それ自体の役割や解釈は、当時も今もその通りではあるのですが、私たちが現在これら及び経筒とセットと言われている単体仏も含めて目にした時、別の角度からも様々なテーマを語りかけてきているような気がします。その中でも私が注目しているのは、大村にいつ頃から仏教が伝わり寺院が建てられ、この地でどれだけ文明が進んで行ったかと言う点です。

 特に、戦国時代のキリシタンがことごとく完全ともいえる寺社破壊攻撃をした関係上、当時の寺院とともにそれ以前の貴重な史料が極一部を除き全て灰になった大村において、これら経筒や単体仏は平安時代末期以前をも語れるものです。

 私は今まで郡地区(松原、福重、竹松)の寺院群は中世時代に建てられたみたいな論文を多く見てきました。その論拠に対して「それは、おかしい」と思いつつも、反証の確信は強くは持っていませんでした。今回の経筒や単体仏の調査をする中で、私なりに「大村への仏教伝播はもっと早くからではないか」と言えるようになりました。

(掲載日:2008年8月20日改訂:2018年12月21日)

あとがき
 私は元々、文献や資料などをじっと見て文章を書くよりも、外にカメラ、巻尺やメモ帳などを持って、実際の現場(対象物)を撮影しながら多くの方から貴重な話を聞いて原稿をまとめるのが好きな方です。その意味で、これまでの歴史シリーズものとして、例えば『古代の道、福重の修験道』(完結)、『大村の古代の道と駅』(前半部のみ完了、他は未完成)、『長崎街道内の福重往還道』(完結)を原稿化する時は、同じようにしてきました。

  今回のこの『大村の経筒』(単体仏含む)シリーズの原稿書きは、今まで以上に頻繁に出歩きました。特に、経筒を所蔵されている方々には、お邪魔になるとは分かりつつも、お話だけではなく撮影、計測などで、その度にご迷惑をおかけしました。また、御手水の滝の経筒発見記念碑については、自ら初めて拓本作業をしました。おかげで精密撮影によるデジタル画像のCG化でも判明しなかった文字が全て分かりました。

 私の文章能力や写真撮影の下手さ加減は、この際あえて脇において、この『大村の経筒』が今までの大村市内で出回っている書籍類にない特徴点もあるのではないかと考え、次に述べます。それは、主に次の3項目と思います。

(1)大村に現存している6個全部の経筒写真を紹介できたこと。
(2)全部の大きさを計測し、それを表記できたこと。
(3)現存6個プラス江戸時代に壊れていた1個含めて全ての経筒説明・紹介文ができたこと。


 本文の中には素人ゆえに、また私の性格上の早トチリから解釈違いその他もあろうかと思います。この点は、今後も分かりしだい速やかに直していきたいとも思っています。ご覧頂いた方で、何かご指摘その他を持っておられる方へ、どうかご教示頂けることも切望しています。

 さらには大村の郷土史に関心を持っておられる方、とりわけ私より若い世代の方々へ、ご一読して頂き、これを叩き台あるいは何かの資料にしてもらえれば無上の喜びです。 教えて頂いた皆様、ありがとうございました。 (完結)

(掲載日:2008年8月22日、改訂:2018年12月21日)
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