大村の経筒 |
も く じ |
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主 な 内 容 |
状 況 |
はじめに | |
用語解説(一部) | |
経筒、経塚、末法思想とは | |
大村に現存する経筒 |
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現存5個の概要について | |
1)弥勒寺の経筒 |
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2)草場の経筒その1、その2、その3 | |
3)御手水の滝の経筒 | |
4)箕島の経筒 |
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補足:経ヶ岳の経筒 | |
大村の経筒のまとめ | |
あとがき |
はじめに |
用語解説(一部) |
日本では平安時代後期から鎌倉時代にかけて末法思想(まっぽうしそう)が流行しました。この末法思想とは、仏教の歴史観のひとつで釈迦の教えから数えて1,000年の時代を正法(しょうぼう)、次の1,000年を像法(ぞうぼう)、その後10,000年を末法(まっぽう)と呼びます。三つの時代の内、この末法の世になると釈迦(しゃか)の教えが衰えていくと言う考え方でした。 この末法は平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えました。そのため、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めました。 このことは、もちろん経典を残そうとすることだけでなく、自らの信仰心の深さを示すことによって現世でも救済を求め、さらには来世でも往生楽土を願っておこなったことと言われています。あと、平安後期だけでなく、なぜ鎌倉時代にも流行したのかと言いますと、それは特に、外的要因として2回<文永11年(1274)と弘安4年(1281)>にわたる元寇も大きな要因と言われて当時の人々は大きな不安に陥りました。
滑石製経筒は私も直接目で見て、写真を撮るため移動などをするため、手に持ちましたが、ずしりとする重量感は明らかに大村市内によくある安山岩みたいなものと違っていました。石材の質量自体が違っている感じに思えました。個別の大村の経筒紹介は、後の項目で掲載していく予定ですので、次に経筒がおさめられていた経塚について書いていきます。 経塚とは、経文を経筒・経箱に入れて埋めた塚のことです。経塚にも様々な種類があります。その中の一つに円墳(円形の古墳)タイプがあります。右の「経塚の想像図」は、どこか実際の遺跡をもとに描いたのではなく色々な文献から例えば円墳形式なら、このような経塚ではないだろうかと言うイメージ図です。 |
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大村に現存する経筒 | |||||||
現存6個の概要について |
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弥勒寺の経筒は、大村市弥勒寺町の個人所有地(石堂屋敷、せきどうやしき)から出土しました。当時の発見者及び発見年などは不明です。なお、この弥勒寺町及びその周辺は、他の大村領内と同じく戦国時代、キリシタンが神社仏閣を徹底焼き打ち、破壊、略奪の限りを尽くした所です。しかし、すさまじいまでのキリシタンの破壊行為にもかかわらず、その難を逃れ、この一帯には戦国時代以前の単体仏、不動明王、線刻石仏、仏頭などが数多く現存している場所でもあります。
また、この石堂屋敷とは距離的には約300メートル離れた同じ弥勒寺町、字(あざ)上八龍には、上記三体の単体仏と形状が、ほぼ同じ『上八龍の単体仏』も個人宅の庭でまつられてきました。 なぜ石仏が集中しているのか あと、なぜ現在の弥勒寺町に、このように平安時代末期頃からの単体仏や経筒、さらには鎌倉・室町時代に制作されたと推定されている不動明王、線刻石仏、仏頭などが数多く、この地に存在しているのか。(長崎県内でも、このような時代のものが、これだけ多数存在しているのは唯一この福重の弥勒寺町だけと言われています。石仏類の詳細は『仏の里 福重』ページから、ご覧下さい) この点についての明解な根拠を述べておられる史料類は、ないようです。 江戸時代に大村藩によって編纂された(大村)郷村記によりますと奈良時代の初期(和銅年間)に奈良の僧の行基が、郡岳の旧称である”太郎岳”に三尊をまつる太郎岳大権現を開山したと記されています。(郡岳や太郎岳大権現についての詳細は、ここからご覧下さい) この太郎岳大権現の山岳宗教との関係では、修験道が弥勒寺町と福重町(旧・矢上郷)との境を流れる石走川沿いあったことから、この弥勒寺町の石堂屋敷周辺が、その通り道であったことも地理的には言えます。いずれにしましても経筒との関係では、この弥勒寺町には平安時代末期頃の制作と推定されている単体仏4体(2008年6月現在)が現存してるのは事実で、今後の古代から中世史を紐解く意味でも、この弥勒寺の経筒の存在は役割があると言えます。 (掲載日:2008年6月12日) |
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草場の経筒その1、その2、その3は、大村市草場町の如法寺跡(にょほうじあと)近く(この寺院跡から約100mh\北側へ行った)畑から出土しました。(当初の)発見者は土地所有者の家族の方で、発見年は戦後間もない頃(1946年頃)と聞いています。しかし、長年、この筒が、経筒とは分からず保管されていました。
この項目冒頭と、繰り返しになりますが、この草場の経筒3個は、いずれも畑の中から出土しました。発見者は土地所有者の家族の方で、発見年は戦後間もない頃(1946年頃)と聞いています。そして、畑からリヤカーで小屋に運ばれました。後で、草場の経筒その1、その2の方は、汚れていたためか洗浄され、石の表面を磨かれたそうです。
草場の単体仏(滑石製平安仏)との関係は |
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この御手水の滝の経筒(おちょうずのたき、通称:裏見の滝とも言う)の名称について先に書きます。他の『大村の経筒』(現存5個)の4個までは全て地名=(現在の)町名や元の島の名前が付いています。しかし、この御手水の滝の経筒だけは、滝の名前から付けています。実は、発見された場所も特定できるので地名付きの呼称も出来ますが、長年の様々な経過があるので今回の名称がよりふさわしいと思い使用しています。
大村市立史料館に所蔵されるまでの経過 |
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箕島について(概略史)
(注1):千米=1000m |
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大村郷村記の引用と私の現代語訳が長くなりますが、これからご紹介いたします。できるだけ旧漢字体も変換できる文字についてはそのように努めましたが、例えば経ヶ岳の「経」は変換できないため、「経」の字を使用して表示しています。その他の難しい文字も同様です。また、文字不明のところは「?」を付けています。 経の岳之事 一 此経の岳は黒木の原より壼里程丑寅の方にあり、大巖石屹立して山峰創成すか如し、其高サ測るへからす、雲霧常に山嶺を包纏す、岳の頂上長サ拾七間、横五尺程あり、麓より絶頂迄の間石南草・槐・楓・樫・柘等の諸木多し、然れとも寒風の爲に損われ幡屈し木立高からす、 此岳彼杵郡中第一の高山にして、鄰國眼下に見ゆるといへとも、今樹木繁茂して風景を失ふ、此岳の絶頂藤津・彼杵・高來の三郡の境にして、東高來、北藤津、南西彼杵郡なり、又當領と佐賀領との境なり、往昔此絶頂に壺に経文を納埋めし所なる故、経の岳と號すと云傳 土人曰、此経の岳、上古ハ或時は高くなり、又俄に低くなり、高低更に定まらず、種々の奇怪あるゆへ、此絶頂に経文を納めし所、其後怪異やむとなり 天明元年十月、或人此岳の頂上を掘見るに、果して一ッの壷を得たり、其壷中を見るに経文あり、然れとも壷割居紙腐敗して運讀せす、可惜故に唯其文字の存せし處のみを寫とり、所持せしを予乞得て左に記す 後に聞、本文経の嶽に納る斯の経文ハ、須田内証山奉行たりし時、登山改め之書寫すと伝々、右寫須田家にありしを、乞て爰に記すもの也 敬白 此所に施主の名ありと見へたり、壷われ紙きれて知れす 今如法経者永仁二年卯月上旬永仁二年?安政六年迄五百五拾五年ニなる 奉書爲同年九月十四日供養 此間に文字ありといへとも不分明 上六郡部也、光經爾記不知以下又不分 又鏡の割ありと云ふ、予或日登山して、右壺を埋めし所を掘改めしに、今は嚴石の中に穴ありて壷の形もなし、唯土中に梵字書たる平石を得るのみ 土人曰、毎歳九月十五日には此處に幣を立、諫早領太良村の郷士何某祭之と云 -------------・・・・・------------・・・・・・-------------・・・・・------------- 下記からは、私の現代語訳についてですが、これはあくまで私の素人訳です。正確性を欠くと思っていますので、ご参考程度にご覧下さらないでしょうか。( )内に補足や注釈をしながら書いています。 経ヶ岳のこと
また、鏡の割れたのがあったと言う。以前のある日に登山して、右の壺に埋めた所を掘って改めたところ、現在は岩石の中に穴があったが、壺の形をしていなかった。ただ土の中に梵字(ぼんじ)(注3)で書いてある平たい石があるのみである。地元の人が言うには、毎年9月15日には、ここの所で御幣(ごへい)(注4)を立て、諫早領・太良村の郷士(注5)の何とか言う者が、これを祭っていると伝承されている。 |
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大村の経筒のまとめ これから大村に現存する経筒5個と補足として経ヶ岳の経筒、併せて6個についてのまとめを下表も交えながら書いていきます。ただし、内容については、この「大村の経筒」シリーズ最初の方に既に<大村に現存する経筒の状況>、<大村の経筒が語るもの>を書いていますが、この項目と重複する記述が多い点は構成上の理由から、ご了承願います。 なお、制作年代は、大村郷村記または伝承あるものについて、そのまま記入しました。さらに時期不明なものについては、経筒そのものの形あるいは経筒とセットとも言われている経筒発見周辺から出土した単体仏の推定制作年代も参考にしながら、私の個人的な推定・推測として書き加えました。特に、福重にある単体仏は、全て平安時代末期頃の制作と言われていることも改めて、ご紹介しておきます。 また、単体仏と経筒の数が合わないので、まだ、経筒が周辺の土の中に眠っている可能性があると思えます。ちなみに、私の調査で経筒と関係ある福重の単体仏は、弥勒寺町に5体、福重町に2体、草場町に1体が最低あります。この中にはキリシタンの破壊によって半分近くしかない単体仏も含めています。 下表をご覧になる前に、改めて皆様にお願いしたいのは制作年代については、あくまでも一つの参考事例として、ご覧下さらないでしょうか。また、これら推定・推測している事項について、今後何か新たに年代を特定できるような史料(資料)が出てきた場合、速やかに変更していく予定です。その点も、あらかじめご了承願います。
<下記は現存6個の写真一覧です。ただし、写真の縮尺は各々違いますので見た目の大きさは参考になりません。詳細は、既に紹介中の個別項目の大きさをご覧下さい。また、上表にも大きさの概要は書いています>
1)現存6個の経筒を形状から見た特徴点は |
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あとがき 私は元々、文献や資料などをじっと見て文章を書くよりも、外にカメラ、巻尺やメモ帳などを持って、実際の現場(対象物)を撮影しながら多くの方から貴重な話を聞いて原稿をまとめるのが好きな方です。その意味で、これまでの歴史シリーズものとして、例えば『古代の道、福重の修験道』(完結)、『大村の古代の道と駅』(前半部のみ完了、他は未完成)、『長崎街道内の福重往還道』(完結)を原稿化する時は、同じようにしてきました。 今回のこの『大村の経筒』(単体仏含む)シリーズの原稿書きは、今まで以上に頻繁に出歩きました。特に、経筒を所蔵されている方々には、お邪魔になるとは分かりつつも、お話だけではなく撮影、計測などで、その度にご迷惑をおかけしました。また、御手水の滝の経筒発見記念碑については、自ら初めて拓本作業をしました。おかげで精密撮影によるデジタル画像のCG化でも判明しなかった文字が全て分かりました。 私の文章能力や写真撮影の下手さ加減は、この際あえて脇において、この『大村の経筒』が今までの大村市内で出回っている書籍類にない特徴点もあるのではないかと考え、次に述べます。それは、主に次の3項目と思います。 (1)大村に現存している6個全部の経筒写真を紹介できたこと。 (2)全部の大きさを計測し、それを表記できたこと。 (3)現存6個プラス江戸時代に壊れていた1個含めて全ての経筒説明・紹介文ができたこと。 本文の中には素人ゆえに、また私の性格上の早トチリから解釈違いその他もあろうかと思います。この点は、今後も分かりしだい速やかに直していきたいとも思っています。ご覧頂いた方で、何かご指摘その他を持っておられる方へ、どうかご教示頂けることも切望しています。 さらには大村の郷土史に関心を持っておられる方、とりわけ私より若い世代の方々へ、ご一読して頂き、これを叩き台あるいは何かの資料にしてもらえれば無上の喜びです。 教えて頂いた皆様、ありがとうございました。 (完結) (掲載日:2008年8月22日、改訂:2018年12月21日) |
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