郡中学校で草場の経筒3個展示(概要報告)
開催日時:2018年12月18日08:0〜15:00 、 場所:郡中学校・図書室 、 見学者:(目測で)約150名 、 展示物:「草場の経筒その1、その2、その3」、図や資料など 、 主催者:上野(福重郷土史同好会)
”900年前のものか” ”経筒は初めて見た” ”スベスベしている” ”なぜ、お経を入れていたのか?” ”歴史が好きだ” ”こんな石(滑石)は初めて見た”
意見感想などの概要:
上記の日時や場所で、郡中学校の先生や生徒さん向け「草場の経筒3個の展示」を開催しました。また、配布資料、説明時に用いた経塚の想像図、大村の経筒写真なども見て頂いた。展示の時間帯で、1年6組の皆さんは授業時間の約20分間、あるいは他の生徒さんは、休憩や昼休みなどに入れ替わり立ち代わりの見学をしてもらいました。
また、見学者全員で経筒(滑石)をさわって、大村の石の違いを実感して頂きました。なお、郡中・郷土史クラブのメンバーは、昼休み時間に先と同様のことをしてもらい、説明や質疑応答もいたしました。そして、感想・意見なども出され、その概要は、順不同で以下の通りです。あと、見出し、太文字や( )内補注は、分かりやすいように上野が付けました。
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(写真2) 経筒をさわって、熱心に見学中 |
”経筒は初めて見た”
念のため、見学者のほぼ全員から、最初に「経筒は始めて見た」との話でした。そのようなことから、それに近い意見含めて、下記「」内には書いていません。なお、下記は私が覚えている範囲内です。実際には、もっと多くの意見・感想がありました。
「(この経筒以外にも)他にあるのか?」 「900年前のものか」 「福重のもの(経筒)ばかりか?」 「(この石を触ったら)スベスベしている」 「(その1は)筒の内側に加工した痕(あと)があり、それが良く分かる。さわったら、溝がゴツゴツしている」
「なぜ、お経を入れていたのか?」 「歴史が好きだ(もっと知りたい)」 「(経筒は同じようでも、この3個)とも)ちょっとだけ違うと思う」 「西彼杵半島のこと、今まで知らなかった」
あと、見学された先生の中から、「このような古代の遺物を見る機会がない。(本当に始めて経筒というものを見た)」 「通常、このような展示物は触れないので、今回)直接さわれるとは思わなかった」 「いつも、このような展示もしているのか?」 「(生徒も)見て触ったことは、これからも、ずっと覚えているのではないか」などの感想もありました。
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(写真3) 左から草場の経筒その1、その2、その3 |
<上野からのお礼や感想などについて>
郡中学校の先生や生徒の皆さん、熱心に見学・質疑応答され、大変ありがとうございました。また、様々な質問を受け、むしろ私の方が勉強になりました。
「末法思想や経筒のことなどは高校で習う」と聞きました。そのようなことから、直接、中学校・教科書の補足とか、社会の授業に役立ったということでなかったかもしれません。
しかし、平安時代末期(約900年)からある校区内=地元の「草場の経筒3個」の、実物・本物の持つ遺物の力は、中学生の皆さんへも、訴える力や重みが強くあったようにも思えました。そのようなことは、何回も経筒を触りながら、興味津津(きょうみしんしん)という感じで、友達と話している姿を見て直接、私も感じました。
準備や後片付けの時、重たい経筒(1個約20kg)運びのお手伝いまでして頂いた先生や生徒の皆様、本当に助かりました。重ねて、感謝申し上げます。
----------・・・----------<下記は、配布資料から>----------・・・----------
“約900年前の経筒は何を語っているのか”
古代のタイムカプセルとも言われている経筒とは
経塚のイメージイラスト
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注意:上側の(上野が描いた)「経塚の想像図」は、あくまでも経筒、経塚、単体仏(滑石製の平安仏)の関係を分かりやすくイメージイラストしたものであって、実際に出土した遺跡から描いたものではない。 |
この
経筒は、滑石
(産地は西彼杵半島と推測)をくり抜いて筒を造り、お経(経典)を入れていたものです。
それは、なぜか?
末法思想が平安時代末期から鎌倉時代に流行し、同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅え
(おびえ)ました。
そのため、56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、人や命あるものを救済するという弥勒菩薩
(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて
経塚に
経典を入れ
経筒を納めました。
(右側の想像図を参照)
残念ながら経典は残っていませんが、この
経筒は、歴史研究にとって平安時代末期(今から約900年)頃の様々な事柄を語っている、あるいは古代史解明の一助ともなりうるものです。<詳細は「
福重ホームページ」の「
大村の経筒」参照>
歴史学は、“未来学“
経筒が造られた時代の先人は、不安や言い知れぬ怯え
(おびえ)がありましたが、それでも力強く生き抜いてきました。その先人が残して下さった
経筒・経塚・
滑石製平安仏(単体仏)などは、今日にも相通じる何かがあるような気がします。
また、「
歴史学は、“未来学“」という言葉もあります。この言葉は、過去の歴史を丹念に調べれば、今後どうなるのか、将来何が起こるのかなどが予測できる」という意味でもあります。
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(写真4) 左から草場の経筒その1、その2、その3 |
<参考資料>
・末法思想 (まっぽうしそう) =末法に入ると仏教が衰えるとする予言的思想。中国では隋代頃に流行し、三階教や房山石経を生んだ。日本では平安後期から鎌倉時代にかけて流行し、人々を不安に陥らせる一方、仏教者の真剣な求道を生み出した。(広辞苑より)
・経筒=経典を入れて経塚に埋めるために用いる筒。多くは円筒形・六角形・八角形で、青銅製・金銅製・鉄製・陶製・石製。筒の周囲に多くは埋経の趣旨が刻される。(広辞苑より)
・経塚=経典を永く後世に伝えるため、経筒などに入れて地中に埋め納めて塚を築いたもの。上に五輪塔などを建てることもある。経石・瓦経なども埋納する。(広辞苑より)
・滑石製平安仏(単体仏)=この単体仏は滑石でできている、その滑石は大村の場合、距離との関係から西彼杵半島(にしそのぎはんとう)産出の石材と推測される。この単体仏は信仰、あるいは経筒が埋まっていることを示す目印から、経塚の上に乗っていたといわれている。