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大村の歴史
古代の道、福重の修験道
も  く  じ
主   な   内   容
状 況
はじめに
<1>彼杵郡家(肥前国の役所)からの道
<2>一の鳥居のあった石走

<3>道は石走り沿いにあった?

<4>福重の修験道想定図

<5>釈迦峰などの地名と「お釈迦様の足跡石」
<6>寄り道になるが鼓石
<7>修験場だった御手水の滝(裏見の滝)
<8>道は拂川沿いから中腹の本坊へ
<9>三尊をまつった太郎岳大権現
あとがき

皆同町内から郡岳を望む
古代の道、福重の修験道

はじめに
 このページは、長崎県大村市、福重地区(旧・福重村)にあった古代の道跡について、記述しています。この奈良時代の頃よりあった古代の道跡は、福重に二つ(肥前国の官道と山岳信仰の修験道)あります。今回のページは修験道の方で、その多くが現在の福重地区を通っていますが、一部松原地区(野岳町、東野岳町)もあります。

 この道の経路は、主に古代に肥前国の役所(彼杵郡=長崎県央地区)彼杵郡家(そのぎぐうけ、現在の大村市寿古町好武周辺との説が有力)から、”太郎岳”(郡岳の旧称)にあった太郎岳大権現までです。現在の町名にするならば大村市、寿古町、皆同町、福重町、弥勒寺町、野岳町、立福寺町、東野岳町、重井田町です。

 あと当然のことながら奈良・平安時代の道ですから、江戸時代に出来た野岳湖を始め近代の各施設などは、その当時全くありません。ただし、このページ掲載地図は奈良時代の物はありませんので現在の地図を使いながら道の想定図を描きました。

 また、今回の『古代の道、福重の修験道』は、参考資料について一部(大村)郷村記などを参照しています。しかし、別途既に掲載中の『大村の古代の道と駅(主に肥前国の官道跡)』のように長崎県教育委員会の調査報告書みたいなものは、この古代の道跡については全くありませんので、上野個人が少ない史料や地域に伝わる伝承からまとめました。このページ掲載地図も、以上のことから公式なものではなく、あくまでも個人の研究目的で想定したものですので、あらかじめご了承の上ご覧頂けないでしょうか。

 本題の記述にもなりますが、そもそも、この『古代の道、福重の修験道』は、どのようなものとか言いますと、その名の示すとおり、山岳信仰のために登る修行の道です。後で詳細に書きますが(大村)郷村記によりますと現在の郡岳(826m)は、奈良時代には”太郎岳”と呼ばれていました。

 さらに郷村記には奈良時代の初期に僧の行基が”太郎岳”に三尊を祀る神社を開山したと記述されています。行基伝説は全国に数多くあり、真偽も定かではありません。でも郷村記には「山の中腹には本坊跡がある」とか「八合目には坊岩(ぼうのいわ)がある」とか記述されているため、この”太郎岳”には神社があったことは確かと言えます。

 また、いつの時点から不明ですが、この太郎岳大権現は(現在の)多良岳に移り、この名称の語源も「たろうだけ」から「たらだけ(多良岳)」になったと言われています。多良岳に移る前まで、この(現在の郡岳にあった)太郎岳大権現は、肥前国彼杵郡(長崎県央地区)では、山岳信仰において最も力を持っていたことが推察されます。

 あと、福重地区には山岳信仰と関係しているような地名もいくつかありますので、後の項目で記述していきたいと考えています。『古代の道、福重の修験道』は現在、郡岳登山コースや野岳湖などの一部を除けば、いずれも車で走行できます。奈良・平安時代は歩くしかなかったでしょうから、その意味でこの道を実際歩いて頂くと「まさしく修験道だなあ」と実感されるかもしれません。

 ただし、この道はほぼ総てがのどかな田畑、川や山林を見ながら、ゆっくり歩けるコースが多いです。このページをご覧になり、さらに福重に来て頂き「さすが修験道だなあ」と思いながら実際歩いて頂ければ無上の喜びです。原稿などの準備できしだい順次掲載していきますので、よろしく、お願いいたします。

 (内容の構成上、ホームページ上は総て同じページにして、順次並べて記述しています。上記のもくじ表のリンク部分(掲載中)をクリックして頂ければ、ご覧になれます)(初回掲載日:2007年5月7日)

郡川の本庄渕(左の土手後方が好武周辺)
好武城跡(寿古町)
<1>彼杵郡家(肥前国の役所)からの道
 
まず、私が
古代の道、福重の修験道』出発地点にしている彼杵郡家のことから書きます。その前に郡家(ぐうけ)、郡衙:ぐんが)とは、どう意味かといいますと(フリー百科事典『ウィキペディア』には)「郡衙(ぐんが)とは律令制のもとで、郡の官人(郡司)が政務をとった役所である。郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)・郡院(ぐんいん)という。また、中国の古制に倣って郡治(ぐんち)とも呼ばれた」と書かれてあります。

 大化の改新(645年)から奈良時代(710年-794年)以前、日本の国家体制が出来上がる頃、律令制にもどづき各地方にはピラミッド型の<国、郡、郷、里>が置かれました。現在の佐賀県や長崎県(対馬、壱岐を除く)には肥前国が成立しました。その肥前国の一地方組織として、彼杵郡がありました。

 この彼杵郡の役所のことを彼杵郡家(そのぎぐうけ)とか彼杵郡衙(そのぎぐんが)と言われています。その位置は、現在の寿古町の好武周辺と言われています。

 つまり、ここが当時の彼杵や大村(大村湾岸を含む長崎県央地域)の中心地=”都”みたいなものだったと言うことです。ここに役所が置かれるくらいですから、当然古くからこの周辺(現在の郡地区=松原、福重、竹松)は穀倉地帯でした。

 その証拠と言うべき縄文・弥生時代の遺跡や古墳も多数出土していますし、隣の沖田町には班田収授法に基づいた沖田条里制の田んぼもあります。

 また、郡地区にはその後、穀倉地帯の関係から京都の荘園もありました。それらのことから、この好武周辺の前にある郡川の渕のことを「本庄渕」(「役所の前にある川の渕」と言う意味と思われる)とも長年呼称されてきました。

 仏教の伝来(552年説など色々あり)は、この肥前国の成立より早い時期なのですが、後年になって各地で山岳信仰も活発になりました。この山岳信仰については、後で書く予定にしています。

 以上の事柄から、この彼杵郡家周辺は、穀倉地帯で
人も沢山住んでいましたし、山岳信仰が活発な時代になり、太郎岳大権現のあった”太郎岳”(現在の郡岳)を結ぶ道として、次に書く予定の<一の鳥居のあった石走>の項目とも関連してきますが、修験道の出発地点としました。(掲載日:2007年5月11日)

石走の道祖神(別の説もあり)
<2>一の鳥居のあった石走
 彼杵郡家を出発して、現在の皆同町に入り、さらに国道34号線を横切り踏切をまたぎ少し歩くと川があり、ここを渡ると福重町(旧・矢上郷)となります。この付近は二つの川が合流する地点で、二つとも石走川ですが、今回の
古代の道、福重の修験道と関係あるのは、郡岳方面から流れている方です。

 これから
現在の福重町(旧・矢上郷)の地名について、次の本を紹介します。1977年3月発行の大村史談・第12号(執筆者:深草静雄先生)の「大村地方の地名(一)」に書かれている関係の文章を下記に掲載いたします。< >内がその引用で、省略している部分もあります。

 < 四、矢上 
矢(ヤ)はヤツ(谷)、ヤト(谷戸)、ヤチ(谷地)の略された形であり、湿地、沼地を意味する。 (中略) 今も船つなぎ石とよばれる石が、今富城跡の南東部と妙宣寺の南西方(耕地整理のため若干移動されている)に見られる。このような点からヤの意味のとおり湿地帯であり、古代のころは入江(地図参照)になっており、舟が往き来していたと思われる。したがって矢上とは入江(湿地)の上の方の集落と解することができる。

 つぎに矢神からきたものとは考えられないだろうか。矢神といえば、矢をもって山の神を祭る古い習慣が日本にはある。昔山に入って薪をとったり、猟をする者は山の神の領域を犯すというので、まず山の神を祭って入山したそうで、木樵は斧、百姓は鎌、猟師は矢を立ててこれを放ち、鉄砲時代になると一発天に向って発砲して山の神の許しをえたといわれている。その場所を矢神、山の神、山口といったという。 (中略)

 
土地の人の話によれば、郡岳にあった太郎山大権現に通ずる参道が石走より発していて、そこに一の鳥居が建っていたという。現在は松原より郡岳野岳方面に上る主道があるが、古くは矢上郷石走から主道があったのであろう。今も平たい自然石に「道有」と刻んだ道祖神が建っていることで証明されるし、 (後略) >  (以上で引用終わります)

 上記の引用文を『古代の道、福重の修験道』に関係している点を石走周辺と限定してまとめますと、以下の通りと思われます。

1)福重町の
旧称の矢上郷の”矢上”は、矢神から来ているので、その入山口に当たる説があるということ。
2)”太郎岳”(郡岳の旧称)にあった太郎岳大権現の一の鳥居があった所と伝承されていること。
3)この周辺に「道有」と刻んだ道祖神が建っていること。

 ただし、この道祖神(『大村市の文化財』、大村市教育委員会発行)と呼ばれている自然石は、「道祖神ではないのではなか」との説もありますので、念のためご紹介しておきます。(この石についての詳細は別ページ「石走の道祖神」をご参照下さい)

 現在は歩行だけでなく車でも、この石走川沿いの道路は登れます。しかし、当時は彼杵郡家を出発すれば、今まで平坦な道だったのに、この石走周辺からいよいよ本格的な太郎山大権現への登山となります。たぶんに一の鳥居のあった所で、荷物が多ければ強力に頼んだりしながら、準備と気合入れ直して霊山信仰に向かったと思われます。(掲載日:2007年5月14日)

<3>道は石走り沿いにあった?
 
現在の福重町の地名について、右の旧・矢上郷の地名(字、あざ)をご覧下さい。写真が小さくて見えにくいですが、二つの川が合流している所に字「石走」があります。

 その「石走」の川を挟んで反対側に付近に「強力」(ごうりき)と言う地名があります。「強力」と言う意味ですが、国語辞典の大辞泉によりますと、「強力とは修験者に従って荷物を運ぶ下男」と書いてあります。

 現代風に表現するとガイド兼ポーターみたいな人達のことを言うのでしょう。つまり、太郎岳大権現(現在の郡岳826m)に当時の長崎県各地などから霊山信仰する人たちのために、一の鳥居があった付近に、この強力達はいて山まで道案内したり、重い荷物を変わりに運んでいたかもしれません。

 また、太郎岳大権現の本堂は山の中腹にあったと(大村)郷村記に書いてあります。(この件の詳細は、ここから郡岳のページをご覧下さい) この本堂には、当然住職始め僧侶などが何人か生活していますから、そこまで日常の食料品などを強力が運び上げていたことも想像されます。このように地名「強力」周辺には、このような役目を担っていた人達が住んでいたと思われます。

 後の項目で述べる予定の「釈迦峰」も含めて旧・矢上郷の地名(字=あざ)「石走」、「強力」などは上記地図の通り石走川沿いに並んでいます。つまり、この川沿いに伸びている道が、『古代の道、福重の修験道』と思えます。また、この石走川沿いの道は、山の方に登ればのぼるほど見晴らしも良くなります。

 この「見晴らしが良い所」は車社会の現代において通行上どうでもいいように思われますが、歩行中心の古代としては、まず道に迷わない、あるいは寺院など建物の好立地条件など、重要な意味もありました。また、川沿いの道は水補給の利点もありました。(掲載日:2007年5月17日)

<4>福重の修験道想定図
 
下記の地図は、これから書こうと考えている項目も含めた古代の道、福重の修験道』の想定図です。念のため、この想定図は公式なものではなく上野個人が様々な史料(資料)から考えたものです。それと当然この古代の道は主に奈良・平安時代の道ですから、地図にあるような野岳湖(江戸時代初期に完成)や近代的な施設などは度外視して見て下さらないでしょうか。あと、下記の3項目も、ご考慮願います。

1)古代の道、福重の修験道』は下記のように一本ではなく、その他の道(例えば、現在の遠目方面、松原方面、立福寺町方面からのコースなど)から太郎岳大権現(現在の郡岳)へ、いずれも尾根伝いの道で登られたものと思われます。

2)彼杵郡家(そのぎぐうけ、現在の寿古町の好武と思われる)から石走川沿いに道は続き、そのまま鉢巻山下側を通っていた道も考慮されますが、御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝)に霊山信仰者(山伏)の修験場があった関係上、地図ではややカーブ(遠回り)した想定図にしています。

3)御手水の滝からは拂川(はらいがわ)沿いの道を通り、太郎岳大権現(現在の郡岳)中腹の本坊へ登ったコースを取りました。



(掲載日:2007年5月20日)


<5>釈迦峰などの地名と「お釈迦様の足跡石」
 
(先に述べた<3>道は石走り沿いにあった?に継続して)上図の通り『古代の道、福重の修験道』は、現在の福重町(旧・矢上郷)と弥勒寺町(旧・弥勒寺郷)の境を流れる石走川沿いをさらに登って行きます。すると、<3>項目で示した地図通り旧・弥勒寺郷の地名(字、あざ)には、「下八龍」、「上八龍」、があり、その上方面には旧・矢上郷の字「釈迦峰」があります。

 この中で釈迦峰は、(「峰」はここが丘の上の高い所ですから直ぐ分かるとしても)なぜ、「釈迦」の名前が付いているのでしょうか。ここには、かつて「お釈迦様の足跡石」がありました。この石について、地元では別の言い方もあり「お釈迦様の足型石」とか「仏の足跡石」などです。今回は「お釈迦様の足跡石」の呼称で統一しました。

お釈迦様の足型石の
イメージイラスト
お釈迦様の足跡石の場所=
中央付近 (右側は石走川)
 「お釈迦様の足跡石」は、一般的には「仏足石(ぶっそくせき)」と呼ばれていて国語辞典の大辞泉によると、下記の通り書いてあります。< >内が、その引用です。

 < 釈迦の足の裏の形を表面に刻んだ石。インドの初期仏教では仏がそこにいることを示すしるしとして用いたが、のち礼拝の対象とされ、千輻輪(せんぷくりん)などの図が刻まれる。日本では奈良の薬師寺にあるものが最古で、天平勝宝5年(753)の銘がある。 (引用を終わります)

 この仏足石は上記説明文にもある通り、インドなどで仏像が盛んになる前に、お釈迦様を偲ぶため足形を信仰したとも言われています。なお、日本では中国から入って来たようで薬師寺だけでなく全国的にも広まり色々な場所にありますが、その期間は限られていたとも推測されています。

 
字「釈迦峰」周辺にあった「お釈迦様の足跡石」は、弥勒寺町のあるご家族によれば(2007年5月現在)「今から約15年前におこなわれた田んぼの圃場整備(基盤整備)の時までは、左右の足型を見た。場所も特定できる。今見つからないのは、その後(今から10数年前)石走川の護岸工事の時になくなったものと思われる」とのことでした。

 右側上のイメージイラストは、私が写真加工ソフトで描いた大変下手な図です。地元の方の感想と「お釈迦様は足の指が長かった」との言い伝えからイラスト化しましたが、正確さに欠いていることは、ご了承願います。この「お釈迦様の足跡石」のあった場所(右側写真参照)から大村湾側を見ると大変見晴らしの良い所です。

 今となっては推測の域を出ませんが、もしも「お釈迦様の足跡石」が全国にある仏足石と同様とするなら(見晴らしも良い)この周辺に仏教寺院があったことも推測できます。それは、時代が下って鎌倉か室町時代になると思われますが「下八龍」、「上八龍」の線刻石仏とも関係してくるような気がします。

 ただし、今回は古代の道の話ですから、字「釈迦峰」か「上八龍」周辺に仏教寺院があった可能性があると言う指摘のみで先に進んでいきたいと思います。なお、「下八龍」と「上八龍」の線刻石仏については、別のテーマで触れたいと考えています。

 この項のまとめみたいになりますが、今まで述べた「お釈迦様の足跡石」もしくはこの周辺に仏教寺院が存在したと推定して、そのことが由来で旧・矢上郷の字「釈迦峰」は付いたものと思われます。それはまた同時に『古代の道、福重の修験道』に面している所でもあります。(掲載日:2007年5月22日)

鼓石(大村市弥勒寺町)
郡中学校の生徒さんが叩いている
<6>寄り道になるが鼓石
 
上記の項目で示しました通り『古代の道、福重の修験道』は地名の「釈迦峰」を登り切ると、二つの道の選択になるかと思います。それは、今まで通り石走川沿いのコースと、現在の県道に沿ったコースです。

 私は、この両コースとも、古代の道はあったと思っています。ちなみに石走川沿いの道は、しばらく登るともう一方の古代の道(官道)に繋がっていきます。(この件については別ページに掲載中の『大村の古代の道と駅』をご参照願います)

 あと、一つは御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝。ここには霊山信仰者の修験場があったと言われている)に繋がる修験道です。このコースは、御手水の滝に行く関係上、別の古代の道(官道)に比べ、やや遠回りになります。

 しかし、日常普段の食料品や物資を上げるなら近道利用も当然ですが、霊山信仰となると修験場(御手水の滝)を無視して果たして太郎岳大権現(現在の郡岳)に直登したでしょうか。

 現在でも山岳信仰で有名な所は拝む所を順番に登り最後本山あるいは頂上を目指しているのが普通と思われます。そのようなことから、こちらのコースを中心に今回のテーマは、ご紹介しています。

 あと、この道よりはそれていますので寄り道になりますが、現在の大村市弥勒寺町の一番上、野岳町との境近くの田んぼ道横にある自然石をこの項目では掲載しています。

 この石は、穴がいくつもあいた自然石で、その中のひとつに直径3cm、深さ28cmほどの丸い穴があります。穴の口を手のひらでたたくと「ポンポン」と、鼓(つづみ=和楽器の一種)を鳴らすような音がします。このことから、この石は「鼓石」と昔から呼ばれてきました。

 この鼓石は、天気の良い日にうまく叩くと澄んだ良い音がしますが、天気の悪い日は良い音はしません。地元の方のお話によりますと「天気予報のなかった昔は、この石を叩いて天気の良し悪しを判断したかもしれない」とのことでした。テレビゲームなどに慣れている現代の子どもたちも、自然石である鼓石を叩いて楽しんでいました。

 この周辺には地名の字(あざ)鼓石があります。一般に地名は「山、川、海、森」など自然と関係している所は500年位では付かないそうです。それ以上長い間言い伝えて来た名前がほとんどです。この鼓石も多良山系の火山石と思われますが、その後この周辺に人が住み始めた頃から叩いたり、あるいは和楽器の鼓がこの地にも知られるようになってから、石の名前も付いたものと推測されます。

 『古代の道、福重の修験道』とは、直接関係ない鼓石ですが、古代の人も山岳信仰の帰りなど、ちょっと寄り道されて天気予報がわりに叩かれたかもしれません。(掲載日:2007年5月24日)

シャクナゲも新緑も見もの
<7>修験場だった御手水の滝(裏見の滝)
 
先の項目で述べた通り『古代の道、福重の修験道』は、石走川沿いの道に比べ、やや遠回りになりますが、次に御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝)に進みます。

 この滝周辺は前回項目でもご紹介した通り、太郎岳大権現のあった”太郎岳”(現在の郡岳)に向かう修験者(山伏)の修験場があった所と言われています。この御手水の滝の説明文について、別ページ「福重の名所旧跡と地形」の「御手水の滝(裏見の滝)」ページに詳細は書いています。(御手水の滝のことは、ここからご覧下さい

 また、この滝に近づくには今回のコース以外に(現在の重井田ダム=野田町や立福寺町の)佐奈河内川から登るコースもあります。ただ、この道が整備されたのは近代のことで、明治時代以前もちろん古代もあまり利用されなかったと思われます。(大村郷村記にも、この登りコースは書いてありませんでした)

 
なお念のため、現在滝の手前周辺は大村市立福寺町になりますが、滝そのものやその後方は重井田町となります。滝の水は拂川(はらいがわ)から流れていており、落差は約30メートルあります。春の新緑、シャクナゲの花、秋の紅葉などで1年中、楽しめる滝です。また、横幅約80mあまりある巨岩を始め、拂川(はらいがわ)渓谷のいたる所にある奇石も見ものです。

経筒が発見された
 この滝と古代のことが関係あるのではないとか思われる事項がありますので、ご紹介したいと思います。実は昭和時代に、この滝周辺から経筒(きょうづつ)が発見されました。現在この経筒は大村市歴史資料館に収蔵されているとのことです。(なお念のため、右写真は別の場所で発見された経筒ですのでイメージ写真として、ご覧下さらないでしょうか)
経筒
(
イメージ写真)


 なお、経筒とは国語辞典の大辞泉によると、「経塚に埋める写経を納めるための蓋(ふた)付きの容器」と書いてあります。平安時代中期頃から末法思想が起こり、人々は不安になり仏教がすたれるのをおそれ経典(お経)を書いたものを経筒に入れて未来に託したとも言われています。(俗な言い方をすると、遠い将来に願いを込めた”タイムカプセル”とも言えるでしょうか)

 ご参考までに大村市内でもいくつかありますが、有名な経筒として次の発見場所のものがあります。(1)御手水の滝(裏見の滝)、(2)弥勒寺町の石堂屋敷、(3)箕島です。それに、あと二つは草場町で発見されたものです。  

 さらに経ヶ岳(1,076m、長崎県央地域最高峰の山)の名前の由来は、この経筒(お経)から来ていると伝承されてきました。また、箕島の経筒は、(大村市1972年2月発行)『市制施工30周年記念特集号 大村のあゆみ』(22ページ)に筒と蓋一対のカラー写真が掲載されており、さらに大村史談会1972年3月発行「大村史談・第7号」の表紙写真にもなっています。

 これらの経筒は日本では、大きく分けると2度ほど流行したと、私は聞いたことがあります。一度目は平安時代終わりの末法思想の頃、二度目は中世時代(鎌倉時代、元寇の後頃)です。二つの時期は信仰や目的は似たようなものでも、その当時の背景は異なっていたようです。

 このページでは詳細は書きませんが、各々の特徴点として、一度目の末法思想の頃は主に(庶民も含めて)山岳信仰と関連していると、お聞きしました。二度目は、どちらかと言うと平地でお金持ちがおこなったようです。

 九州では北部地域で多く見られ、色々な形状があるようです。(右写真と同じような)滑石製の経筒は、その類似型からして産地が大体同じで、年代も平安時代のものと言われています。この滝周辺で発見された経筒が同種のものなら同様のことが言えると思います。

 この経筒と太郎岳大権現の修験場と直接関係あるかないかは不明ですが、いずれにしても、この御手水の滝周辺は古代の頃から信仰の場所であったことは言えるのではないでしょうか。

 この周辺が深山幽谷の世界で、しかも(まだ野岳湖などがなかった古代の頃ですから水も豊富で)
滝に打たれる修行をしたかもしれませんし、急な坂もあり、日々の修行をするにはもってこいの場所だったと思えます。また、古代の道、福重の修験道』を登っていた人達は、ここで拝んで次の本山に向かったことも推測できます。(掲載日:2007年5月26日)

拂川(払川)の上流部付近
坊岩(ぼうのいわ)
<8>道は拂川沿いから中腹の本坊へ
 
前の項目で、ご紹介した通り『古代の道、福重の修験道』は、御手水の滝(通称:裏見の滝)で拝んだり修行したりして、次に拂川(はらいがわ)沿いに登ったものと思われます。

 今回の項目では、まず、この拂川(はらいがわ)について説明致します。拂川の「拂」は「払」の旧漢字です。ですから、現行では「払川」でもいいのではないかと思いますが、この言葉は大村郷村記に登場してきます。ただし、現在の地図などには拂川を「祓川」とも表記されています。

  御手水の滝  野岳大堤下拂川と云処にあり」と書かれてあり、現代語訳すると<御手水の滝 野岳大堤の下にある拂川(はらいがわ)と言う所にある。>との意味だと思います。

 これは野岳堤(野岳湖)が出来た後に編纂された郷村記ですから、これでもいいのですが、古代にはこの堤は当然ありません。それで拂川(払川)は、現在の御手水の滝から上流、さらに野岳湖、上流部はゴルフ場を経て、源流部は郡岳中腹に達していたと思われます。

 ただ、念のため、この拂川は現在の野岳湖北東部及びその上流付近では、ゆるやかになりますので、川沿いのコースだけでなく、他にも道はいくつかあった可能性もあります。また、<5>の項目まで同じ経路だった石走川沿いのコースとこの付近で道は合流したと思われます。

 さらに山の中腹に登ると、古代には太郎岳大権現の本坊がありました。このことについては(既に「坊岩」のページで紹介中ですが)大村郷村記に書いてあり、下記の通りです。

  坊屋鋪
  郡岳南の方半腹に堅五間横弐拾間程の平地あり  此処往古太郎岳権現垂跡の時本坊ありし蹟にて今に此処を坊屋鋪と云 側に凡三尺五寸廻リの杉壱本あり 此処辰巳の方に汲川とて清水あり 又西の方に坊岩とて高サ弐拾間余の大岩あり 山の八合目位にあたり郡往還より能みゆるなり  (注:以下省略) 」

 
上記を現代風に口語訳すると次の 内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですので、間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

 <坊屋敷(ぼうやしき) 
  郡岳南側の中腹に縦9m、横36mの平地がある。ここは大昔、太郎岳権現があった頃の本坊の跡で、現在ここを坊屋敷と言う。そばにおおよそ106cmの杉の木が1本ある。ここから南東の方角に汲川といって清水がある。また、西の方に坊岩(ぼうのいわ)と言って高さ36mあまりの大きな岩がある。山の八合目くらいにあって郡村の道路から良く見える。 

 上記の大村郷村記に書いてあることもヒントにし、山に詳しい方にもお聞きして太郎岳大権現の本坊=坊屋敷(ぼうやしき)跡は、どこにあったのか私は数回探しました。しかし、候補地みたいな所はいくつかありましたが現時点(2007年5月現在)では特定できませんでした。

 ただ、人が住んでいた本坊ですから急斜面にあったとは考えにくく、さらに水が常時確保できる場所ではなかったかと考えました。それで現在のゴルフ場よりも、やや上付近と推測しています。『古代の道、福重の修験道』は、この本坊で拝んで一呼吸してから、次に道は登山のようなコースになり太郎岳大権現(現在の郡岳)を目指したものと思われます。(掲載日:2007年5月28日)

<9>三尊をまつった太郎岳大権現
 
前の項目に書きました通り、山の中腹に太郎岳体権現の本山がありました。その後の『古代の道、福重の修験道』は、登山そのもの道です。中腹から現在の郡岳頂上へ、やや急な道である西登山口コースに行き坊の岩を見ながら登ったか、あるいは少しだけ緩やかな南登山口コースかです。

 全く個人的な推測ながら、私はどちらのコースも利用されたのではと思います。太郎岳大権現に登る目的は同じでも、例えば道に慣れているか、そうでないか、体力との関係あるいは登り道と下り道とを違えるやり方もあったと想像しています。

 あと、太郎岳(現在の郡岳826m)の頂上についてですが、そのことについては(大村)郷村記に福重村の「郡岳」の件で下記のように書かれてあります。(詳細は既に掲載中の「郡岳」を、ご覧下さい) 「 」内が郷村記の関係部分(太字)です。

    曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 

 これを現代語訳すると概要下記の< >内通りと思われます。ただし、私の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧下さい。( )内は補足や注釈です。

かつて、元明天皇の治世の和銅年間(注1)に管原寺の最高位の僧侶である行基(注2)が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ) 釈迦(しゃか) 観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。

 今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている >:

郡岳頂上と坊岩(左側8合目付近)
太郎岳大権現の礎石跡(平らな4個)
写真奥の方が三角点(大村湾)側
手前が遠目岳や南登山口側

(注1) :和銅年間とは(奈良時代初期)708〜715年のこと。
(注2) :行基(ぎょうぎ)とは[668〜749]奈良時代の僧。百済(くだら)系の渡来人、高志(こし)氏の出身。和泉(いずみ)の人。法相(ほっそう)宗を学び、諸国を巡って布教。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが、僧尼令違反として禁止された。のち、聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。行基菩薩。(国語辞典の大辞泉より)

 以上のように大村郷村記には行基のことが書かれていますが、行基伝説は全国各地にあり、真偽のことが常につきまといます。この点の注意は必要ですが、当時の太郎岳(現在の郡岳)に太郎岳大権現があったこと、山の中腹に本坊があり、そのことの由来から西の方に坊岩(ぼうのいわ)があること自体は、事実と思われます。

太郎岳大権現の礎石跡か、平たい石が4つあり
 あと、郷村記解釈に「今も頂上にまつるための礎石跡が残っている」と書いていますが、そのことの確認もしようと思い私は郡岳登山をしました。ただ、「礎石が残っている」と言う表現だけでは、太郎岳大権現の規模も不明ですし、江戸時代に現存していた礎石が2007年5月27日現在もそのまま現存しているか、五里霧中みたいな調査でした。

  太郎岳大権現の規模についてですが、極めて個人的な推測ながら山の頂上にあった神社ですから大村市内どこの町でも見られるような神社(権現様)の拝殿みたいな大きさではないと思いました。また、三尊をまつるのですから、石の祠みたいな小ささでもないだろうとも考えました。それで、それらの中間より小さいくらい(少人数で担ぐ御輿のサイズ位)と思い色々と探してみました。

  結果、草も一部かき分けたところ一箇所だけ興味深い平たい石を2007年当時は3つ発見できました。そして、2010年6月10日に再度登山し、今度は前回、萱(かや)と地中に埋まっていた最後の1個の柱石跡も発見し、これで合計4個そろいました。また、今回は巻尺で計測もおこないました。右側の上から2番目写真でもお分かりの通り、4個いずれも表面が平らです。

 しかも、一列目も二列目の石も間隔が、ほぼ同じです。また、左右あるいは前後の石同士の中心点間隔は、長さは同じでした。 計測の結果、(写真で見れば横幅となる)中心点間隔は、前後の列とも同じ110cmです。また、(写真で見れば奥行きとなる)左列と右列の石の中心点間隔は、両列とも同じ長さの100cmでした。あと、自然石のため大きさに違いがあるので、石の両端同士なら前後の列間や左右の列間の長さの違いは若干あります。ただし、石一杯の大きさの柱を立てる訳はありませんので、長さの違いはないのと同じことでしょう。

  もしも、これが太郎岳大権現の礎石跡と想定して、この石の上に本殿があったと考えるなら、写真手前側が東側(現在の郡岳・南登山口から登ってきた場合)になるのでピッタリかなあと思いました。これ位の横幅があれば三尊は安置できるとも考えました。この礎石跡らしき所から15メートル位行った先が郡岳の三角点で大村湾などを始め、まるでパノラマのように見える所です。

 ただし、このようにこれだけ開けたのは(パラグライダーとの関係もあるのか)近年のことだろうと思います。古代の当時も強風などの関係から、三角点側より少しでも風対策にもなる礎石跡らしき所が本殿には向いていたのではないでしょうか。いずれにしましても、約1300年前のことですし、古文書などに正確に大きさや規模が書かれていないので、どの石を探したとしても確定的には言えないと思いました。

 でも、何も持たずに登るだけでも閉口するのに、奈良時代初期に礎石を整え三尊をまつる本殿を作り、太郎岳大権現を開山した先人の苦労は並大抵ではなかったと思います。また、山岳信仰や霊山信仰は、尊いもので色々な困難さがあっても古代の修験者の方々は、ここを目指して登られたのだろうなあと考えました。それは同時に『古代の道、福重の修験道』の最終地点でもありました。(掲載日:2007年6月1日、一部補足改訂:2010年6月13日)


あとがき
 
この
古代の道、福重の修験道ページも、あとがきを書くことになりました。はじめにも書いていますが、これらの文章を書くのに限られた史料(大村郷村記など)と地域に伝わる伝承しかありませんでした。それは丁度2005年春に完成しました『重井田町の天狗伝説』の調査作業と同じように一つひとつ手探りの状態でデータ作りと、それに基づく文章化の連続でした。

 もう一つの古代の道の文章=
大村の古代の道と駅(主に肥前国の官道跡)』作成時には、長崎県教育委員会の調査報告書と言う立派なお手本がありましたが、今回は何もなく、ある種自問自答しながら、ここまで来ました。ですから、自ら「これだけでいいのかなあ。もっと違う角度で検証しなくていいのかなあ」と言う考えはあります。

現在の郡岳山頂(中央:三角点)
坊岩(ぼうのいわ)の側面、高さ約36m
 でも、また今後何か書くべき事項や写真などあれば追加掲載もしていこうと考えていますので、これを機に、このページをご覧になった皆様、何か情報をお持ちの方、どうか教えて頂けますよう、お願い申し上げます。

 思えば「福重町の石走に太郎岳大権現の一の鳥居があった」、「字の釈迦峰付近にはお釈迦様の足跡石があった」、「御手水の滝(通称:裏見の滝)は、修験者の修行場だった。経筒もこの滝周辺から発見された」などの伝承、それに
大村郷村記による太郎岳大権現(頂上に礎石跡あり)、本坊や坊岩などの記述をもとに私の書いた文章だけでは、なかなか皆様をご納得させ得るまでに至らなかったかもしれません。

 それでは申し訳ないと思い、文章能力が落ちるなら行動力でかせごうと思い
古代の道、福重の修験道』の想定路を何十回となく車で走行し、特に2007年3月28日には大村市立郡中学校の先生や生徒さん63名と一緒に説明しながら実際歩いてもみました。(この時の写真集ページは、ここからご覧下さい

 また、2007年5月27日には郡岳登山もおこない(中腹にあった本坊跡周辺から)頂上まで、どんなコースでどのくらいの時間かかるものか確かめました。さらには頂上に江戸時代にはあったと郷村記に記されている「礎石跡」は、「石だから今もあるかもしれない」と思い探してもみました。

 ただ、大村郷村記にしても、地域の伝承でも、さらには実際私が行った調査にしても、全部を足しても『古代の道、福重の修験道』を裏付ける100%にはならないと思っています。かと言って、これだけ具体例も揃っていますので全否定でもないかとも考えています。

 全国でも、アジアでも、あるいは遠くは南米アンデス山脈でも山岳信仰・霊山信仰は、大昔からあると各種の本にも書かれ先日テレビでも報道されていました。約1300年前の古代の先人の方々が、山岳信仰に何を求め、何を得られたのか詳細分からずとも、今回のこの『古代の道、福重の修験道』を頂上まで歩いてみて、ほんの少し私なりに分かったことがあります。

 それはこの太郎岳大権現のあった山(現在の郡岳)は、大村の地名発祥の地でもある郡地域になくてはならない豊かな恵みを与えてくれる山、自然に尊く敬いたくなるような山、親しみやすさがある山、そのようなことを感じました。古代の方々は困難さをいとわず太郎岳大権現の山に、各地から様々な感謝を込めて登られていたのではないだろうかと言うのが、私の一つの結論です。

 今まで、この『古代の道、福重の修験道』ページをご覧下さった皆様、大変ありがとうございました。今後とも、機会みつけて、追加補充していきますので、よろしく、お願い致します。(掲載日:2007年6月3日)


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