この標石が発見された当時、銘文についての一般的な解釈は先ほどの新聞記事の通りだったと思われます。その後、この標石について、大村市内で発行された論文や本で述べられていることを大別すると、主に二つの意見が出されてきました。それは、極簡潔な記述にすると下記の通りです。
(1)「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである。
(2)「紫雲山延命寺」と山号を付けるのは平安時代初期からなので、奈良時代の延命寺創建は信頼性が薄い。
私は、大村市立図書館で今回この二つの論拠が書かれてある論文や本などを改めて探してみると、いくつかありました。ただ、紫雲山延命寺(しうんざんえんみょうじ)やその標石を中心に(専門的に)書いてある記述はなかったようです。それで、ここではそのような本の紹介は止めて、まとめると上記(1)、(2)のにみたいになりますよと言う程度のみに留めておきます。
それら以外の論文や大村郷村記に書いてある内容を紹介しながら先に進みたいと思っています。ご参考まで、今回と関係している出来事を中心にまとめた下表もご覧願います。なお、下線(アンダーライン)のある文字行は、大村での事柄です。
和 暦
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西 暦
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主 な 事 柄 (出 来 事)
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― |
698年 |
・法相宗の本山・薬師寺が完成 |
和銅年間 |
708〜715年 |
・行基が太郎岳(現・郡岳=826m)に太郎岳大権現を創建 |
天平13年 |
741年 |
・国分寺・国分尼寺の建設開始 |
天平16年 |
744年 |
・難波京に遷都 |
天平17年 |
745年 |
・薬師信仰の詔(みことのり=天子の命令)を発す |
天平19年 |
747年 |
・東大寺大仏鋳造開始 |
天平20年 |
748年 |
・延命寺創建(当時は山号はなし。山号は後世に付いた) |
平安初期以降 |
― |
・延命寺が山号も含め紫雲山延命寺と呼ばれるようになった |
室町時代 |
― |
・紫雲山延命寺の標石(台石)が造られた |
この項目の中心テーマは、先に上記に書いています(1)、(2)のことです。つまり、紫雲山延命寺(しうんざんえんみょうじ)の標石に彫られた年号を見て、この寺院は天平年間に創建されたか、はたまたそれは違っていて平安時代以降の中世時代頃に創建されたか、どちらかだと思います。後者の説を取るなら特に論拠などはいらないと思います。
しかし、(前者の)紫雲山延命寺の創建は奈良時代説を申し上げている者としては、具体的な根拠などをご紹介したいと思っています。いくつかありますが、再録や写真紹介も含めて次から書いていきたいと思っています。
再度、『九州の石塔 上巻 』の<妙宣寺石塔残訣>の論拠から考えて
既に先の項目でご紹介しました『九州の石塔 上巻 』(著者:多田隈豊秋氏 発行:西日本文化協会 1975年8月1日発行)の論文で、この項目上必要部分のみを下記に再録すると、次の<>内の通りです。
< (前略) 「問題となるのは、同面の紀年銘である。 天平念戊子八月 とあり、これが天平廿年(七四八)の建塔とは倒底納得できることではない。材石には無数の微孔があり、硬い火山性の凝灰岩と見えるが、石面も痛く荒れており、字態を適確に見極めることはできないが、天平時代の運筆とは考えられない。従って造建年代の推定は甚だ困難であるが、その塔形と刻銘の字態から室町時代末期の標石残訣とするのが妥当ではあるまいか。そこで天平の紀年銘については、妙宣寺に伝わる「延命寺縁紀」にある、創建年代に遡って附刻したものを考える他はあるまい。 >
この論文は、先の項目に書いたことと重複しますが、まとめると「山号含めた仏教寺院の呼称は、後世に付けられたこと」、「それで、この標石自体は天平年間に建立されていなくて、後世に造られたのではないか」と言う趣旨を述べておられます。ただし、だからと言って「延命寺の創建自体も中世時代だ」と言っておられるのではなく、むしろ「延命寺縁紀」を参考にして「創建当時(天平年間)にさかのぼって彫られたもの」みたいに記述されています。
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(現在の)郡岳(826m)と
坊岩(左側8合目付近) |
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坊岩(ぼうのいわ、高さ約35m)
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郡岳山頂の太郎岳大権現の礎石跡?
(3個、あと1個は現在は別にある)
写真奥の方が三角点(大村湾)側
手前が遠目岳や南登山口側
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和銅年間創建の太郎岳大権現からも考えて
次に、大村郷村記に記述されている奈良時代の和銅年間(708〜715年)に創建された太郎岳大権現(注:「太郎岳」とは現在の郡岳826mのことである)から考えてみたいと思います。この山に関する事柄やその部分の大村郷村記の記述は、既に別ページで掲載中の郡岳や『古代の道、福重の修験道』に書いています。下記は一部重複していますが、大村郷村記の太郎岳大権現の部分を書いています。
< 一 郡岳 (前文は省略) 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり >
上記部分を現代語訳すると概要下記の< >通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧下さい。( )内は補足や注釈です。
< かつて、元明天皇の治世の和銅年間に管原寺の最高位の僧侶である行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ) 釈迦(しゃか) 観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。 今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている >
なお、和銅年間に開山したこの太郎岳大権現はその後、年代は不明ながら後世に現在の多良岳(996m)に移ったと言われています。このことから多良岳(たらだけ)の名称も、この太郎岳(たろうだけ)から変化して付いたと言われています。さらに、この多良岳にあった神社は戦国時代(大村純忠時代、天正2年=1574年)にキリシタンからの破壊・略奪・焼き討ち攻撃に逢い一旦はなくなりましたが、江戸時代に池田(現在の大村市池田2丁目)に多羅山大権現として再建されました。しかし、1871(明治4)年に廃社になりました。
私は、『古代の道、福重の修験道』を書く前に、この太郎岳大権現が存在した根拠を上記の大村郷村記の郡岳の項だけでなく坊屋敷(ぼうやしき)の項も参考にしてまとめてみました。それは、次の項目1,山頂に礎石跡があること、2,坊岩(ぼうのいわ)があること、3,郡岳南側の中腹に本坊の跡(縦9m、横36mの平地)があること、4,本坊跡付近に106cmの杉の木が1本あること、5,本坊の南東の方角に汲川といって清水があることなどです。
これらをメモして、私は地元で郡岳に詳しい方への聞き取りや自ら郡岳登山もして、中腹の調査も数回おこないました。私は、上記の1,〜5,までの具体的な根拠を歩き回った結果、そのまとめ(概略)は、既に『古代の道、福重の修験道』に掲載しています。さらに今後詳細な報告は、別シリーズで載せたいとも思っています。
以上のようなことからして、私は太郎岳大権現は”まぼろし”ではなく、当時は現存したものと思います。江戸時代に大村郷村記を記述した人でも福重村の項を書いた人以外で、この件でいくつか間違いを書いておられるようです。さらに、その間違い記述を知らずに、現在の郷土史研究の方々も、多良岳にあった神社は、いきなり最初から多良岳で開山されたごとく書かれている人もいらっしゃいますが、それは上記の通りと思います。
あと、太郎岳大権現の開山時期と開山者についてですが、行基伝説は全国いたる所にあり、今回の件も行基が大村に本当に来たかどうかの真偽は定かではありません。年代を調べたところ一応、行基の生きた時代(668〜749)あるいは行基が筑紫(大宰府や九州)に来た年月とは合ってはいるようです。つまり、大村郷村記に書かれている太郎岳大権現の創建(和銅年間=708〜715年)時期とは合わない訳ではありません。
ただ、和銅年間(708〜715年)創建の太郎岳大権現と、今回記述しています紫雲山延命寺の標石に彫られている天平念戊子八月=天平廿年(西暦748)年と、33年〜40年間の差があります。現代では30数年間のズレは大きいですが、大昔のことを伝聞伝承も含めて編纂された大村郷村記などの記述事項は、ある意味おおらかに言えば、この年月差はないのと同じともいえます。
<共通項は、開山の時期と法相宗>
あと、この行基開山説の太郎岳大権現と、今回のテーマである紫雲山延命寺の共通項は、法相宗という宗派です。行基が諸国を巡って説いたのが法相宗です。紫雲山延命寺も後世に宗派は変わったようですが、創建当初は法相宗といわれています。これで(真偽は定かではないと前提にしつつも)行基と関係している法相宗という宗派と、両方の開山はほぼ同時期と言う二つの点で共通項があるのではないかと思われます。
この項目は、「4)標石の年代と山号についての主に二つの意見」の内、一つ目の「(1)「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである」と言うことで書いてまいりました。この標石に彫られた年号の信用性について、現在でも郷土史研究の方々から様々な意見があることは確かです。しかし、ここに彫られた年号のみが、たった一つで”独り歩き”している存在ではなく、太郎岳大権現の存在含めて奈良時代前半に大村に仏教が伝播していたことを物語るものではないでしょうか。
素人的発想と解釈ながら
話は脱線気味ながら、私は長崎県内のあるテレビコマーシャルを見ていて、今回この標石(台石)に彫られたと年号、紫雲山と言う山号、延命寺の寺号との関係で分かりやすい例だなあと思いましたので、ご紹介したいと思っています。江戸時代に創業された、長崎県を代表する食べ物を作っておられる食品メーカーがあります。この会社のCMは、ほぼ毎日のようにテレビ放送で流されております。
これと似たような感じで仮に酒造メーカーに変えて、例えば「創業寛永元年 銘酒延命」があったとします。その後、時代は下り日本では1899(明治32)年に商法が施工され近代的な株式会社などが整えられていきました。この酒造メーカーも昭和元年に株式会社に変更されたとします。すると会社名は「株式会社 銘酒延命」となります。同時に酒蔵も改築されたとし、定礎石か記念碑には当然新しくなった正式名称を彫られたことでしょう。それと同じようにテレビCMも先のように形で続けたとしたら「創業寛永元年 株式会社 銘酒延命」となります。
このように”株式会社”と言う名称は、後世に法律や会社の株式変更に伴って加わっただけです。つまり、江戸時代から使ってきた名称の上に昭和時代に何か加わっただけで「創業の年代までおかしい」と言う訳ではないのです。これと同じように「(創建)天平念戊子八月 (天平20年、748年) 紫雲山 延命寺」と彫られた標石(台石)は、例え後世に紫雲山と言う山号が寺号の上に平安初期以降に付け加えられたとしても、天平20年=748年の延命寺創建年まで疑わしいと言うのは飛躍しすぎと思います。
むしろ、寺の標石(台石)を作れば半永久的に続く可能性があるので寺に伝わる縁起書か何かで調べて”天平念戊子八月”と慎重に年号を彫りこんだと考えるのが素直な見方とも思えます。ただし、有名な仏教寺院でも創建の年月に諸説(例えば本堂の創建年と、安置された仏像の開眼年の違いなども含めて様々)あるところもあります。
ですから、今回も約1300年も前のことですから、私は一年一月までも延命寺創建年の天平念戊子八月 (天平20年、748年)が正確無比だとも思えません。ただし、例え若干の年月のズレがあったとしても、この標石に彫られた年号の大枠は正しい創建年ではないかとも思えます。
大村の経筒との関係から
既に掲載中の『大村の経筒』シリーズと言うページがあります。詳細は、このページをご覧頂くこととし、この項目では、なぜ今回のテーマと関係あるのかを書きたいと思います。その前に極簡単に末法思想や経筒ついて書いておきます。平安時代末期頃に末法思想が流行しました。(永承7=1052年に末法の世を迎えるとしたので流行はその相当以前からあったと言われている) 末法思想とは本来は仏教の歴史観の一つで末法に入ると仏教が衰えるとする思想を言うのですが、当時の地震を始め天変地異や火災・水害など社会全体が不安に脅えた状態になりました。
そこで民衆を救って下さると言われている弥勒菩薩の再来を信じ、お経を経筒の中に入れ、その上に経塚を作り、さらにその上には単体仏や五輪塔などを置いていました。(全国にも、その例がありホームページにも紹介されている) そのような状況下、大村でも一番早い時期では平安時代末期頃の経筒や単体仏があります。下記は既存のページと重複しますが、大村の経筒(現存している)5個の一覧表や一部の写真をご覧願います。(5個全部の写真や表は、大村の経筒のまとめをご覧下さい)
番号
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名 称
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発見場所(現町名)
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石 材
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制作年代(推定・推測含)
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大きさ(概要)
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1
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弥勒寺の経筒 |
弥勒寺町 |
滑石製 |
平安時代末期頃 |
高さ約34cm 幅約11cm |
2
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草場の経筒その1 |
草場町 |
滑石製 |
平安時代末期頃 |
高さ約45cm 幅約16cm |
3
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草場の経筒その2 |
草場町 |
滑石製 |
平安時代末期頃 |
高さ約34cm 幅約17cm |
4
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御手水の滝の経筒 |
立福寺町 |
滑石製 |
鎌倉時代頃 |
高さ約30cm 幅約34cm |
5
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箕島の経筒 |
(旧)箕島 |
滑石製 |
文治元年(1185年) |
高さ約45cm 幅約27cm |
6
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経ヶ岳の経筒 |
黒木町 |
(不明) |
永仁二年(1294年)頃 |
(不明) |
この経筒5個があった場所付近に全てあった訳ではありませんが、単体仏が福重には8体あります。この経筒や単体仏の制作年代を調べると、おおよその時代が分かってきます。それらを総合すると大村市内では、大別すると平安時代末期と鎌倉時代に分かれます。この平安時代末期頃と言うのが、今回のテーマと関連があります。
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上側:単体仏の一体
下側:弥勒寺の経筒
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この項目の中で「主に二つの意見」の一つとして<(2)「紫雲山延命寺」と山号を付けるのは平安時代初期からなので、奈良時代の延命寺創建は信頼性が薄い。>があります。これは「郡地区(松原・福重・竹松)の寺院は中世時代ではないか」みたいな論文と相通じる内容です。つまり、「大村(郡地区)への仏教の伝播は、平安時代以降」と言う推測です。
しかし、私は、平安末期頃に作られた経筒あるいは単体仏を直接見て、その説はおかしいと思うようになりました。それは、宗教をどれだけ信じていたか、あるいはどれだけ広まっていたかと言う側面からも考えなければなりません。その意味から、仮に大村への仏教の伝播が鎌倉時代では、平安末期制作の単体仏や経筒があるのですから完全に時代が遅すぎます。
次に、仮に単体仏や経筒と合わせて平安末期頃に仏教が伝播したとします。これも遅すぎると思われます。なぜなら、私は宗教上のことは全く素人ですが、「末法思想を信じるか、信じないか」は、それ相当の長期間の信仰があったからだと思います。仮に、この当時に「大村に仏教が伝播した」そして、とたんに「末法の時代にもなったから、さあ経筒、単体仏を作ろう」と思うでしょうか。そんなに器用に信仰や行動が同時進行するとは考えにくいものです。
しかも、単体仏なら1体、経筒なら1個ではないのです。しかも、どちらとも大村の石ではなく、(推定ながら西彼杵半島産出)滑石製の石です。また、石鍋の技術を応用すれば器具みたいにして筒状の経筒も作れたと思います。しかし、単体仏は仏様を作る技術を必要とします。信仰心もさることながら、それ相当の財力と技量も要ると思われます。これらのことは、何を意味しているのでしょうか。
<大村への仏教の伝播は、相当早くからではないのか>
上記のことを簡単にまとめてみると、次のことが言えると思えます。
1,平安末期の制作と思われる経筒(推定3個)、単体仏が、福重にかなりの数で存在しているため、当時の時点で相当仏教は広まっていた。
2,地元の大村産出でない(推定ながら)西彼杵半島産出の滑石製の単体仏と経筒であるため、信仰心と財力のある者が制作した。
3,かなりの数の単体仏を制作する技量を既に持っていたことは、仏教(仏様)の知識が石工もしくはその関係者みたいな人まで広まっていた。
以上の項目から導き出される答えは、大村(郡地域)でも、この末法思想(永承7=1052年に末法の世を迎えるとしたので流行はその相当以前からあったと言われている)が流行した当時、一部の僧侶だけではなく一般にも相当仏教が広まって、しかもそれは相当早くから長期間にわたって信仰されていたと言うことではないでしょうか。また、そのことは、「大村に仏教が平安末期か中世時代に伝播して、郡地区(松原・福重・竹松)の寺院が創建された」みたいな論文では説明できないことも示しています。
<主に二つの意見についてのまとめ>
この項目は、見出しに書いています通り紫雲山延命寺の標石について、大村市内で出されている「4)標石の年代と山号についての主に二つの意見」の論文について書いてきました。私は、その中でも<(1)「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである。>の意見に賛同する者として、それを補強する形で、「和銅年間創建の太郎岳大権現からも考えて」、「素人的発想と解釈ながら」、「大村の経筒との関係から」などを書きました。
この項目のまとめは何回となく重複した同じ表現になっていますが、先に述べた事例から考えて、この標石に彫られた年号「(創建)天平念戊子八月 (天平20年、748年) 」及び大村への仏教の伝播は、やはりこの奈良時代のことだったと言えるのではないでしょうか。
(第一次掲載日:2008年9月3日、全面修正し再掲載:2009年12月24日、第三次掲載:2009年12月29日、第四次掲載:2009年12月31日、第五次掲載:2010年1月1日) |