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大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など

も  く  じ
主   な   内   容
状 況
再掲載に当たって
掲載中
はじめに
用語解説(一部)
1)標石発見当時の新聞報道内容(概略)と標石の写真
2)標石紹介の書籍
掲載中
 <その1>、『九州の石塔 上巻』の<妙宣寺石塔残訣>について
(同上)
 <その2>、『大村史話 中巻』の<妙宣寺>について
掲載中
3)標石のあった場所と妙宣寺
掲載中
4)標石の年代と山号についての主に二つの意見
掲載中

  ・二つの意見について

(同上)
  ・和銅年間創建の太郎岳大権現からも考えて
掲載中
  ・素人的発想と解釈ながら
  ・大村の経筒との関係から
掲載中
5)法相宗は最古の宗派の一つ
6)大村への仏教伝播は奈良時代からではないか
大村への仏教伝播の意味するもの
掲載中
あとがき
掲載中

再掲載に当たって
 この『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など』については、当初2008年8月16日の第一次掲載からスタートしていました。しかし、一連の記述の中で「紫雲山延命寺(しうんざんえんみょうじ)の標石が大村市福重町にある妙宣寺に、なぜあったのか?」と言う部分で私は推論含めて書いていました。極簡単に書けば「江戸時代に創建された妙宣寺の敷地が、そのずっと以前、紫雲山延命寺の標石と関係あるのではないか」と言う書き方でした。

 それは私の思い違いで後日、この紫雲山延命寺のことと江戸時代の妙宣寺の住職のこととについて聞く機会がありました。そのお話を聞いて私の推論は違うのではないかと思い、その他のこともあり一旦削除していました。このような経過もあり、このシリーズは途中で中断もしていました。ただ、私は、今回のシリーズで、ずっと述べている「大村への仏教伝播は平安・中世時代よりも、もっと早く奈良時代頃ではないか」と言う考え方は、いささかも変わっていません。また、このテーマ自体を書きたいので、その後も色々と調べてはいました。

 今回、上記の私の思い違いの部分を修正して、今度再掲載することにしました。特に、「3)標石発見場所と妙宣寺」は、ほぼ全面改訂し、その他の項目も、そのことと関連して修正しました。また、ご覧頂ければ嬉しい限りです。

(掲載日:2009年12月3日)

上側:単体仏の一体
下側:弥勒寺の経筒

はじめ
 
私は、大村へ、いつの時代に仏教が伝播したのか、また最初に寺院が創建されたのはいつ頃か調べてみました。そのようなことを語る上で参考例に出されるのが、福重町(旧・矢上郷)の妙宣寺から発見された(現・松原3丁目にあったと言われる) 紫雲山延命寺の標石(台石)<台石=建築物などの土台として据える石。土台石。礎石。(大辞泉より参照)>です。 あと、大村郷村記の「松原村 紫雲山延命寺蹟」なども取り上げてあります。

 なぜ、このようなことを触れたいかと申しますと、私は2008年5月より大村に現存する5個の経筒紹介を中心とした『大村の経筒』シリーズを掲載してきました。この時、5個全部の計測や発見された場所の環境などにも興味を持ちました。それとともに、末法思想の影響と言う概要は分かってはいたものの、「なぜ、このような経筒を、このような場所に作ったのか」とか「当時の大村の仏教は、どんな状況や経過があったのだろうか」と考えてもいました。また、相前後して福重に現存する単体仏の計測も当然おこない『仏の里 福重』ページに掲載しています。

 あとまた、全国に沢山点在する経筒や経塚を調査され、それを報告されているホームページの中には経筒及び経塚の上には、これらを祀る、あるいは目印として単体仏や五輪塔みたいな石塔などを紹介されています。また、このことも参考に、福重に(2009年現在)存在が8体確認されている経塚の上にあったと思われる単体仏は、平安末期頃のものと推定されています。

 私はこれまで「郡地区(松原・福重・竹松)の寺院は中世時代ではないか」みたいな論文ばかり見てきました。ただ、漠然と「それはおかしいのではないか。もっと早くから仏教は伝播し、寺院も創建されたのではないか」と思っていても確信が持てませんでした。その後、『大村の経筒』や石仏の調査なども含めて、「やはり、中世時代はおかしいなあ。もっと早い時代に郡地区には仏教が伝播し寺院も建てられたのではないか」、「そうでないと目の前にある経筒、単体仏などの制作年代と合わないなあ」と思うようになってきました。

 今回、紫雲山延命寺の標石(台石)や大村郷村記など、いくつかの参考資料をもとに大村への仏教伝播や寺院創建のことをご紹介していきます。素人の書いた文章なので、記述に的外れや不足があるかもしれませんが、ご一読して頂ければ幸いです。


(初回掲載日:2008年8月16日、一部修正し再掲載:2009年12月4日)

用語解説(一部)
 
下記の用語解説
は、国語辞典『大辞泉』、大村史談会発行『大村史談』、大村郷村記(1982〜1987年、藤野保氏発行)などを引用、参照して書きました。(順不同) 下記「」内が国語辞典の大辞泉からの引用で、<>内は大村史談会発行『大村史談』、大村郷村記などを引用です。

・仏教
(ぶっきょう)=「釈迦(しゃか)の説いた仏となるための教え。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。人生は苦であるということから出発し、八正道(はっしょうどう)の実践により解脱(げだつ)して涅槃(ねはん)に至ることを説く。前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。」

・法相宗(ほっそうしゅう)=「中国十三宗・日本南都六宗の一。瑜伽論(ゆがろん)・成唯識論(じょうゆいしきろん)などを根本典籍とし、万有は識すなわち心の働きによるものとして、存在するものの相を究明する宗派。」

・行基
(
ぎょうき)=「 [668〜749]奈良時代の僧。百済(くだら)系の渡来人、高志(こし)氏の出身。和泉(いずみ)の人。法相(ほっそう)宗を学び、諸国を巡って布教。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが、僧尼令違反として禁止された。のち、聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。行基菩薩。ぎょうぎ。」

・太郎岳(たろうだけ)=現在の郡岳(826m)の旧称である。(詳細は、郡岳を参照)
・太郎岳大権現(たろうだけだいごんげん)=<大村郷村記によると、僧の行基が奈良時代の和銅年間(708〜715年)に弥陀(みだ)、釈迦(しゃか)、観音(かんのん)の三尊をまつって太郎岳大権現を開山したことを伝えている。この太郎岳大権現は後世に現在の多良岳(たらだけ)に移ったと言われている。多良岳の語源は、この「たろうだけ」が変化したものと言われている。(詳細は、太郎岳大権現を参照)>

紫雲山延命寺
(しうんざんえんみょうじ)=<旧松原村北木場今山(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院である。下記の縁起には「本来、法相宗(ほっそうしゅう)であった」と記されている。
・紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんみょうじえんぎ)=<大村郷村記「松原村」の項に、この寺の縁起(起源・沿革や由来)が記述されている。>

紫雲山延命寺の標石(しうんざんえんみょうじのひょうせき)
=<昭和30年代に当時の大村市矢上郷(現・福重町)妙宣寺で見つかった標石(土台石、礎石)で「天平念戊子八月(てんぴよう つちのとね はちがつ) <天平戊子=西暦748年>と掘りこまれている。現在は大村市立史料館所蔵。>

・妙宣寺
(みょうせんじ)=<大村市福重町にある日蓮宗の寺院である。江戸時代1602年に宮小路にて創建され、その後1614年に現在地に移設された。>

(用語解説の第一次掲載日:2008年8月17日、再掲載日:2009年12月5日、今後も順次追加予定)

1)標石発見当時の新聞報道内容(概略)と標石の写真

 この標石(台石)が発見されたことが書いてある新聞をご紹介いたします。ただし、残念ながら新聞社名も発行年月日も不明です。新聞裏側にダム建設反対運動で有名な「蜂の巣城」の記事があり、そこから私が推測して発行年は1959年(昭和35年)6月もしくは1963(昭和38)年6月頃と思っています。なお後で紹介予定の論文では標石の発見自体は「昭和三十五年五月の初夏の或日」と書いてありますので、可能性が高いのは前者の方だと考えられます。

紫雲山延命寺の標石
石には「 紫雲山延命寺 天平念戊子八月 」と彫られている。大きさは、高さ70cm、横幅35cm。写真は増元氏のご親戚から提供。

 また後日、正確な新聞社名や年月日が分かれば、この項目に補足・改訂するを予定ですので、この件、あらかじめご了承願います。いずれにしましても、この新聞発行年は昭和30年代に、ほぼ間違いないと思われます。新聞記事内容は、次の< >内の通りです。 (太い文字は見出しで、(注)などは上野が付けました)

 「天平の石」を発見  大村市福重の妙宣寺 仏教文化解明にカギ
 大村市の妙宣寺=日蓮宗、住職小佐々恵朋氏(五八)=裏参道入口で天平時代の石が発見され、これまで不明だった郡地区(郡川流域一帯)の古代仏教文化の創立時期のナゾを解朋する貴重なカギとして喜ばれている。発見された石は高さ約七十センチ、横幅三十五センチの四角などっしりしたもの。一面に「紫雲山延命寺」その横に「天平念戊子八月」と刻んであり、石の表面はあお黒く風化している。天平念戊子(ツチノエネ)は天平二十年(聖武天皇時代で西暦七四九年(注1)で、石の形から延命寺建立の際の台石ともみられるもの。

 (上野注:一行省略。この省略理由は、この部分に大村の歴史で一番の偽装と呼ばれている「大村直純」が大村に来たことなどが書かれていて間違いであるため)
 
 郷村記には“郡村“に南都(奈良)七山になぞらえて郡七山十坊(十ヵ寺)が古くから仏教の伝統を伝えているが、その創立は不詳となっており『大村家が領有する前から郡地区に極楽寺(竹松)、妙光寺(松原)、冷泉寺(今富)、本来寺(黒丸堀池)、白水寺(今富) (注2)、東光寺(草場) (注2)、竜福寺(今富) (注2)、浄宮寺(黒丸タッ木)、弥勒寺(今富) (注2)、延命寺(松原今山)の十寺があったことを伝えている。

 この十寺はキリシタン大名として有名な十八代(注3)純忠公の時代(天正二年(一五七四年)領民六万がキリシタンに改宗、領内の寺社すべてを焼き払った。妙宣寺はこのあと十九代(注3)喜前公の時代、慶長七年(一六〇二年)日蓮宗本山として建立され、現在におよんでおり『焼却された七山十坊はその後の二十一代(注3)純信公、正保四年(一六四七年)に再建されたから七山十坊の一つ延命寺の台石が、妙宣寺建立の際に運ばれ、これまで気づかれなかったのではないかとみられ、天平二十年の文字は郡七山十坊が天平時代に建立されたとも推定され、郷土史研究家を活気づかせている。

 なお和鋼年間(七一〇年ごろ)に行基菩薩が大村の松原から多良岳(注5)に登って神体を得たとの伝説があり、奈良朝の聖武天皇が地方の国々に国分寺や国分尼寺をつくったのが天平十三年で、肥前の国では、佐賀市春日に置かれたらしい。それから七年後の天平二十年ごろに郡川の穀倉地帯に七山十坊が建設され、天平文化がここで花ひらいたとみるのも不可能ではないと小佐々恵明氏は語っている。なお天平時代の石は妙宣寺の本堂前に置かれている。
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延命寺標石発見の新聞記事
新聞社名及び発行年月日不明のため
判明しだい掲載予定
(提供:上記写真と同様)

(注1)=「西暦七四九年」の記述は間違いで、正しくは西暦748年である。
(注2)=郡七山十坊の所在地が江戸時代の表記になっているため、次に書く寺院の現在地(現町名)は、「白水寺(今富)」=皆同町、「東光寺(草場)」=松原一丁目、「竜福寺(今富)」=立福寺町、「弥勒寺(今富)」=弥勒寺町である。

(注3)=この大村家「十八代」、「十九代」、「二十一代」と言う数え方は、「初代」自体が偽装の歴史ため大村家の代数を最初から数える方法は正確には間違いである。ただし、江戸時代の大村藩初代藩主とか第三代藩主と言う表記は正しい。(この件は『大村の偽装の歴史や表現一覧表など』をご覧下さい)

(注4)=この「多良岳」は間違いで正確には郡岳(826m)の旧称である太郎岳のことと思われる。江戸時代の郷村記「松原村」を書いた役人が、そもそも記述間違いをしたものと推測される。なぜなら大村郷村記の「福重村 郡岳並坊屋鋪之事」の項に、僧の行基が郡岳の旧称である太郎岳に太郎岳大権現を創建したこと、この山にあったと言う本坊、泉さらに今でも現存している坊岩(ぼうのいわ)について詳細に記述されている。ちなみに、この太郎岳大権現は、後年に現在の多良岳に移ったと言われている。そのような関係から多良岳の呼称は、この太郎岳(たろうだけ)の名前から、「たらだけ(多良岳)」に変化したものと言われている。(この件は、「郡岳」をご覧下さい)

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 この紫雲山延命寺の標石(台石)について、私なりに上記の新聞報道以外に何か書かれた文献はないか調べてみました。一番詳細に記述されているのは、『九州の石塔 上巻 』(著者:多田隈豊秋氏 発行:西日本文化協会 1975年8月)の225ページです。この論文は、次の項目で、ご紹介したいと思います。それ以外にもいくつかの論文に、この石の銘について数行程度の紹介はされてはいます。

 しかし、大村市立史料館に所蔵されているにも関わらず大村市内発行の書籍類では発見年、発見者、大きさ、写真付きなどで、この標石の解説や意義などについて詳細な紹介書籍(論文)はなかったようです。そのようなことからも、上記の新聞記事は一部間違い記述などもありますが、標石発見当時の模様を良く伝えていて分かりやすい内容と思いましたので、ご紹介いたしました。 

(第一次掲載日:2008年8月25日、一部修正し再掲載:2009年12月9日、一部修正し再掲載:2009年12月15日)

2)標石紹介の書籍

 この項目では、紫雲山延命寺の標石について記述されている主に二つの書籍(論文)をご紹介します。二つの書籍は、<その1><その2>に分けて書いています。各本の名前、見出し、内容などについては、下記2項目をご覧願います。この中で全文を記述している内容もあれば、事実関係で先の項目と重複している箇所もあるので、概要の紹介にとどめている項目もあります。

<その1>、『九州の石塔 上巻』の<妙宣寺石塔残訣>について
 今回の紫雲山延命寺の標石について最も詳細で写真付きで記述されている書籍類では、『九州の石塔 上巻 』(著者:多田隈豊秋氏 発行:西日本文化協会 1975年8月1日発行)が挙げられます。この本の225ページには、次の< >内が記述されています。簡潔にまとまった文章なので途中で省略することもできませんし、また旧町名などが書いてありますが、そのままご紹介します。

 なお、原文は縦書きです。太文字は強調するために上野が変えてますが、本来は改行して一行になっている部分です。また、今回横書きにしているため、原文の改行とも違っています。()は、上野が付けて下記に注釈文を書いています。

 15 妙宣寺石塔残訣(注1)<寺号標石> (室町)  大村市矢上郷(注2)妙宣寺(注3) 凝灰岩 総高六○.○糎
 本石は大村市矢上郷妙宣寺で最近発見されたもので、いま市立史料館に保管 されている下張り据え込み形の短角柱で、ほかに随伴する部石はなく、現在全く孤独の石塔残訣である。史料館では、塔面に 紫雲山延命寺 の刻銘(注4)があるので、標石と呼んでいる。それはそれで一応妥当な呼称と思われるが、この塔の原形はいま遽かに断定はできない。

 その形態から直ちに連想さ れるのは六地蔵塔(注5)の基礎である。六地蔵塔の基礎や竿石に山号寺号(注6)を彫りつけて、寺の標識とした例は他にもあるが、問題となるのは、同面の紀年銘(注7)である。 天平念戊子八月  とあり、これが天平廿年(七四八)の建塔とは倒底納得できることではない。材石には無数の微孔があり、硬い火山性の凝灰岩と見えるが、石面も痛く荒れており、字態を適確に見極めることはできないが、天平時代の運筆(注8)とは考えられない。従って造建年代の推定は甚だ困難であるが、その塔形と刻銘の字態から室町時代末期の標石残訣とするのが妥当ではあるまいか。

 そこで天平の紀年銘については、妙宣寺に伝わる「延命寺縁紀」にある、創建年代に遡って附刻したものを考える他はあるまい。延命寺縁紀は、至徳二年 紫雲山月海によって記録されたもので、それによれば、延命寺の草創は天平十一年となっておる。但し廿年という年次の出所は縁紀にも明記はない。妙専寺(注9)は延命寺の後身(注10)ので、中興以後の改號(注11)のである。 

紫雲山延命寺の標石
石には「 紫雲山延命寺 天平念戊子八月 」と彫られている。大きさは、高さ70cm、横幅35cm。写真は増元氏のご親戚から提供。

 紫雲山延命寺の標石について紹介文は、以上の通りです。下記の()の解説は、国語辞典『大辞泉』、大村史談会発行『大村史談』などを引用、参照して書きました。

(注1)の「残訣(ざんけつ)」とは直訳すれば「別れて残った」と言う意味で、この場合「妙宣寺にある石塔で一部欠損しているが残った部分」との解釈ができると思われる。
(注2)の矢上郷は、旧の名称で現在は福重町である。

(注3)の妙宣寺は、江戸時代の慶長7年(1602) 、宮小路の地に祈願所として建立され仙乗院と称する。 慶長19年(1614)には 現在地(旧・矢上郷=現在の福重町)に移り深重山妙宣寺と号し、仙乗院日順上人を開基とする。大村で最も早く創建された日蓮宗の寺院である 。
(注4)の刻銘(こくめい)とは、金属器や石碑などにきざまれた製作者の名や年月日などの文字のことである。

(注5)の六地蔵とは、仏語で六道のそれぞれにあって衆生の苦しみを救う6体の地蔵菩薩(ぼさつ)のことである。
(注6)山号寺号の山号(さんごう)とは、寺院の名前の上に付ける称号。「比叡山(延暦寺)」「成田山(新勝寺)」などの類。もと、寺は多く山に建てられたため、その山の名でよばれたが、のちに平地の寺にも用いるようになった。 また、寺号(じごう)とは、寺の名称。金竜山(きんりゅうざん)浅草寺(せんそうじ)の場合は、金竜山が山号、浅草寺が寺号。

(注7) の紀年銘とは、この場合「寺院の創建年号に彫られた文字」を指すと思われる。
(注8)の運筆(うんぴつ)とは、文字または文章や、絵をかくときの筆の動かし方、筆の運び、筆づかいのことである。

(注9)の「妙専寺」は文字の間違いで正しくは妙宣寺である。
(注10)の「延命寺の後身」説も、(注11)の「中興以後の改號」説も、現在のところ上野としては確認できていない。むしろ、(注3)の妙宣寺の項で注釈した通り、この妙宣寺は江戸時代に新たに創建された寺院と把握している。


この論文の要旨
  この『九州の石塔 上巻 』に記述された紫雲山延命寺の標石についての上野個人の判断ながら重要と思われる項目(要旨)を箇条書きでまとめると下記の通りです。

(1)この標石は六地蔵の一部分ではないかという推測がされている。さらには六地蔵の基礎部分に「寺の標識とした例」が他の寺院にもあることを述べておられる。
(2)<山号含めた仏教寺院の呼称は、この天平年間の頃はなく後世に付けられて呼ばれるようになったので> 山号に付けられた文字は後世のことで、この標石自体が天平廿年(748)年の建立ではないとの判断である。
(3)彫られた文字形態からして、標石の建立は「室町時代末期」と推定されている。
(4)延命寺の創建年代について、この標石だけでなく他の延命寺縁紀などからも判断していく必要があると思われている。

 私は、率直に申し上げて全くの素人のため、この論文の可否判断あるいは全体の評価含めて出来ていません。ただし、分かりやすく書くと「山号含めた仏教寺院の呼称は、後世に付けられたこと」、「それで、この標石自体は天平年間に建立されていなくて、後世に造られたのではないか」と言う趣旨は、私も理解できました。

 また、この論文の全体の流れからして標石自体が後世に建立されたからといって、延命寺の創建そのものも後世(例えば「室町時代」)と判断されていません。むしろ「延命寺縁紀」を用いながら、標石に彫られた年号と年数的に若干のズレはありますが、天平年間のことに触れておられます。結果として私が分かるのは、標石に彫られた山号「紫雲山」だけで建立の時代を「後世のことだ」と判断してもいけないし、年号の文字「天平念戊子八月 」(748年)だけで即断してもいけないと言うことではないでしょうか。

 つまり、この論文は、紫雲山延命寺の創建などの関係事項を調べるなら標石だけでなく他の史料、その他も含めて幅広く分析・検討すべきだと述べておられるような気もします。あと、個人的に「・・寺の標識とした例は他にもあるが、・・」と記述されている点ですが、やはり、創建の年号など寺院にとって大事な記録事項は、他の寺院でも実施されているのだなあと改めて思いました。それは、現代のビル建築でも同じで銘文入りの定礎石とか竣工記念碑と同じようなものだと推測しました。

<その2>、『大村史話 中巻』の<妙宣寺>について
  上記の次に、ご紹介する書籍は、『大村史話 中巻 』(大村史談会、1974年5月発行)の32〜39ページに記述されている妙宣寺の論文です。この文章を書かれたのは、その当時、大村史談会の会員で妙宣寺の住職だった小佐々恵明(えみょう)氏です。この36ページに<紫雲山延命寺の標石>という項目があります。この論文には、妙宣寺で標石が発見された当時のことが記されています。それは、下記の<>内です。

中央:妙宣寺、山は郡岳

 < 紫雲山延命寺の標石  昭和三十五年五月の初夏の或日今は諌早の本清寺に住している友田恵隆が、突然天平の石がありますというので木戸に出てみると、幾つかの石の中に高さ約七十センチ横幅三十センチ位の四角のどっしりした石が発見された。

 石の表面は青黒く風化していたが、一面の中央に「紫雲山延命寺」その横に「天平念戊子八月」と刻んであり、驚きながら早速調べてみると、天平戊子とは聖武天皇天平二十年(七四八)であり、一千二百年前のものである。延命寺は郡七山十坊の一つで松原の今山に天平十一年僧行基が開いたといわれる。

 此の石はその寺の標石であろう。然しこの石がどうして妙宣寺の木戸にごろごろしていたか不思議に思われた。  

標石発見は、1960(昭和35)年5月だった

 この標石については、これまで様々なことを書いてきましたが、上記の論文で新たに分かることは、次の
・標石発見の年月が、「昭和三十五(1960)年5月初夏の或日」だった。
・発見者は友田恵隆氏で、調べられたのは
小佐々恵明氏であった。
と言う点だと思います。それ以外の標石の大きさとか彫りこまれた文字及びその年代の件については、既に何回となく先の項目でご紹介してきましたので、そちらの方をご参照願います。

 あと、この論文は他のページで、「標石は、どこから妙宣寺に持ち込まれて来たのか」と言う疑問にも答えておられます。そのことについては、次の「3)標石のあった場所と妙宣寺」の項目で書きたいと思います。

(第一次掲載日:2009年12月13日、一部修正と第二次掲載:2009年12月15日)

3)標石のあった場所と妙宣寺

 私は、紫雲山延命寺の標石が、なぜ福重町(旧・矢上郷)の妙宣寺から発見されたのかも不思議に思いました。延命寺の礎石なら、本来、現・松原3丁目(旧・松原村北木場今山)にあったと言われる延命寺跡周辺から出土したなら自然です。それが、なぜ、千数百メートルも離れた場所から発見されたのでしょうか?

  この疑問について、何かの書籍に手掛かりはないか探していました。すると、先の項目でご紹介しました、『大村史話 中巻 』(大村史談会、1974年5月発行)の37ページの「3紫雲山延命寺縁起」の項目に小佐々恵明氏が書いておられました。標石発見の経過を述べる前に本来なら、この紫雲山延命寺縁起というものが、そもそも何なのか記述する必要もあります。

 特に、今回のテーマ「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」と密接不可分の関係があります。しかし、この紫雲山延命寺縁起を書き始めますと相当の文章量が必要となってきますので、今回は下記にほんの少し触れる程度に留め、いずれ個別のテーマを設けて書きたいと思っています。小佐々氏の論文には、標石がなぜ妙宣寺にあったかについて、次の<>内のことを書いておられます。

延命寺跡(大村市松原3丁目)
(中央の階段左は案内門柱)

妙宣寺(中央は階段登り口と本堂)

   3 紫雲山延命寺縁起  所が不思議な縁で紫雲山延命寺の縁起が私の手にはいった。あちこち虫が食っているが、二十四五枚のもので紫雲山延命寺縁起は久寿二年春三月(一一 五五)書かれたもので、縁起序はその後至徳二年乙丑三月(一三八五)紫雲山月海書と書かれている。

 然もその末尾の一枚は後世書きそえられたもので、それによって凡てが解明された。 その一枚には「此書は当先住恵*院所持せり。三十五六年前に見せられたり」とその冒頭に書いてお り、藤原氏が尋ねたのはこれだと思った。恵*院は 当山十世だから、これを書いたのは十一世能事院日衛であることとがわかった。

 更にこれを読むと、昔松原の今山に紫雲山延命寺という大寺があったのを知って、訪ねて行って、石塔などないかと探したが、今山の権現様の宮守の今平というのが申すのに、二十年前には沢山塔があっ たが、松原の浦人達が網のおもりに切り崩して持って行ってしまい、又立派な塔は彼杵の安全寺の住持が持って行ってしまったといって殆ど無かった。

 その後再びさがしに行った所竹藪の中に古い石を見つけ洗ってみた所、天平二十年紫雲山延命寺とあり、 それを持ち帰って枕肱亭のほとりにおいたが、人々がみて古い物だと称美したとある。    (注:*の文字は変換できない文字)

標石は江戸時代に日衛が松原の今山で発見して妙宣寺に運んだ

 上記のことで標石に関係することを箇条書き風にまとめてみると下記の通りと思われます。
・標石は江戸時代の妙宣寺(第11世)住職の日衛が元々、紫雲山延命寺があった松原の今山(旧・松原村北木場今山=現・松原3丁目)の竹やぶの中で見つけた。
・日衛が石を洗ってみたら「天平二十年」の年号入りと分かった。
・標石は、妙宣寺の枕肱亭(ちんこうてい)のほとりに置かれた。

 上記のことから、江戸時代、住職だった日衛が松原の今山で、この標石を発見し、妙宣寺に運んだことが分かりました。あと、次の疑問として「なぜ、重たい石(標石)を遠く離れた妙宣寺まで運んだのか」という疑問が残りますが、この件について解明されている文章はないようです。日衛という方はもちろん妙宣寺の住職が本業ですが、それ以外にも詳細にここでは述べませんが、残された古記録などから今風に分かりやすく言えば”文化人”や”文章家”だったようです。

 やや本論から脱線しますが、その日衛が、なぜ松原の今山まで行って紫雲山延命寺のことを調べていたのか、これも興味をひかれます。ここからは私の完全な想像ですが、江戸時代当時の大村藩内において、それよりも以前の戦国時代(大村純忠時代)にキリシタンによって徹底的に焼き討ち破壊され再建もできなかったとはいえ紫雲山延命寺の名跡は大きかったのではないでしょうか。

 紫雲山延命寺は大村領内で最古に創建された仏教寺院だったこと、さらにその後は郡七山十坊と言われる位の大寺院であったことなどから、宗派は違えど日衛は関心を持って調べていて標石を発見したのではないでしょうか。この私の推測や想像が、もしも正しければ日衛は郷土史の研究にも熱心だったのかもしれません。

(第一次掲載日:2009年12月21
日)

4)標石の年代と山号についての主に二つの意見
 この標石が発見された当時、銘文についての一般的な解釈は先ほどの新聞記事の通りだったと思われます。その後、この標石について、大村市内で発行された論文や本で述べられていることを大別すると、主に二つの意見が出されてきました。それは、極簡潔な記述にすると下記の通りです。

(1)「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである。
(2)「紫雲山延命寺」と山号を付けるのは平安時代初期からなので、奈良時代の延命寺創建は信頼性が薄い。


  私は、大村市立図書館で今回この二つの論拠が書かれてある論文や本などを改めて探してみると、いくつかありました。ただ、紫雲山延命寺(しうんざんえんみょうじ)やその標石を中心に(専門的に)書いてある記述はなかったようです。それで、ここではそのような本の紹介は止めて、まとめると上記(1)(2)のにみたいになりますよと言う程度のみに留めておきます。

 それら以外の論文や大村郷村記に書いてある内容を紹介しながら先に進みたいと思っています。ご参考まで、今回と関係している出来事を中心にまとめた下表もご覧願います。なお、下線(アンダーライン)のある文字行は、大村での事柄です。
和    暦
西    暦
主 な 事 柄 (出 来 事)
 698年 ・法相宗の本山・薬師寺が完成
 和銅年間  708〜715年 ・行基が太郎岳(現・郡岳=826m)に太郎岳大権現を創建
 天平13年  741年 ・国分寺・国分尼寺の建設開始
 天平16年  744年 ・難波京に遷都
 天平17年  745年 ・薬師信仰の詔(みことのり=天子の命令)を発す
 天平19年  747年 ・東大寺大仏鋳造開始
 天平20年  748年 ・延命寺創建(当時は山号はなし。山号は後世に付いた)
 平安初期以降  ― ・延命寺が山号も含め紫雲山延命寺と呼ばれるようになった
 室町時代  ― 紫雲山延命寺の標石(台石)が造られた

 この項目の中心テーマは、先に上記に書いています(1)(2)のことです。つまり、紫雲山延命寺(しうんざんえんみょうじ)の標石に彫られた年号を見て、この寺院は天平年間に創建されたか、はたまたそれは違っていて平安時代以降の中世時代頃に創建されたか、どちらかだと思います。後者の説を取るなら特に論拠などはいらないと思います。

 しかし、(前者の)紫雲山延命寺の創建は奈良時代説を申し上げている者としては、具体的な根拠などをご紹介したいと思っています。いくつかありますが、再録や写真紹介も含めて次から書いていきたいと思っています。

再度、『九州の石塔 上巻 』の<妙宣寺石塔残訣>の論拠から考えて

 既に先の項目でご紹介しました『九州の石塔 上巻 』(著者:多田隈豊秋氏 発行:西日本文化協会 1975年8月1日発行)の論文で、この項目上必要部分のみを下記に再録すると、次の<>内の通りです。

 (前略) 「問題となるのは、同面の紀年銘である。 天平念戊子八月  とあり、これが天平廿年(七四八)の建塔とは倒底納得できることではない。材石には無数の微孔があり、硬い火山性の凝灰岩と見えるが、石面も痛く荒れており、字態を適確に見極めることはできないが、天平時代の運筆とは考えられない。従って造建年代の推定は甚だ困難であるが、その塔形と刻銘の字態から室町時代末期の標石残訣とするのが妥当ではあるまいか。そこで天平の紀年銘については、妙宣寺に伝わる「延命寺縁紀」にある、創建年代に遡って附刻したものを考える他はあるまい。 

 この論文は、先の項目に書いたことと重複しますが、まとめると「山号含めた仏教寺院の呼称は、後世に付けられたこと」、「それで、この標石自体は天平年間に建立されていなくて、後世に造られたのではないか」と言う趣旨を述べておられます。ただし、だからと言って「延命寺の創建自体も中世時代だ」と言っておられるのではなく、むしろ「延命寺縁紀」を参考にして「創建当時(天平年間)にさかのぼって彫られたもの」みたいに記述されています。

(現在の)郡岳(826m)
坊岩
(左側8合目付近)
坊岩(ぼうのいわ、高さ約35m)
郡岳山頂の太郎岳大権現の礎石跡?
(3個、あと1個は現在は別にある)
写真奥の方が三角点(大村湾)側
手前が遠目岳や南登山口側

和銅年間創建の太郎岳大権現からも考えて
  次に、大村郷村記に記述されている奈良時代の和銅年間(708〜715年)に創建された太郎岳大権現(注:「太郎岳」とは現在の郡岳826mのことである)から考えてみたいと思います。この山に関する事柄やその部分の大村郷村記の記述は、既に別ページで掲載中の郡岳や『古代の道、福重の修験道』に書いています。下記は一部重複していますが、大村郷村記の太郎岳大権現の部分を書いています。

 一 郡岳 (前文は省略) 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 

 上記部分を現代語訳すると概要下記の< >通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧下さい。( )内は補足や注釈です。

 < かつて、元明天皇の治世の和銅年間に管原寺の最高位の僧侶である行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ) 釈迦(しゃか) 観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した。  今は大村の池田の里にあって多羅大権現となっている。大昔より(太郎岳大権現の)あった跡でもあるので、今も頂上にまつるための礎石跡が残っている 

 なお、和銅年間に開山したこの太郎岳大権現はその後、年代は不明ながら後世に現在の多良岳(996m)に移ったと言われています。このことから多良岳(たらだけ)の名称も、この太郎岳(たろうだけ)から変化して付いたと言われています。さらに、この多良岳にあった神社は戦国時代(大村純忠時代、天正2年=1574年)にキリシタンからの破壊・略奪・焼き討ち攻撃に逢い一旦はなくなりましたが、江戸時代に池田(現在の大村市池田2丁目)に多羅山大権現として再建されました。しかし、1871(明治4)年に廃社になりました。

 私は、『古代の道、福重の修験道』を書く前に、この太郎岳大権現が存在した根拠を上記の大村郷村記の郡岳の項だけでなく坊屋敷(ぼうやしき)の項も参考にしてまとめてみました。それは、次の項目1,山頂に礎石跡があること、2,坊岩(ぼうのいわ)があること、3,郡岳南側の中腹に本坊の跡(縦9m、横36mの平地)があること、4,本坊跡付近に106cmの杉の木が1本あること、5,本坊の南東の方角に汲川といって清水があることなどです。

 これらをメモして、私は地元で郡岳に詳しい方への聞き取りや自ら郡岳登山もして、中腹の調査も数回おこないました。私は、上記の1,5,までの具体的な根拠を歩き回った結果、そのまとめ(概略)は、既に『古代の道、福重の修験道』に掲載しています。さらに今後詳細な報告は、別シリーズで載せたいとも思っています。

 以上のようなことからして、私は太郎岳大権現は”まぼろし”ではなく、当時は現存したものと思います。江戸時代に大村郷村記を記述した人でも福重村の項を書いた人以外で、この件でいくつか間違いを書いておられるようです。さらに、その間違い記述を知らずに、現在の郷土史研究の方々も、多良岳にあった神社は、いきなり最初から多良岳で開山されたごとく書かれている人もいらっしゃいますが、それは上記の通りと思います。

 あと、太郎岳大権現の開山時期と開山者についてですが、行基伝説は全国いたる所にあり、今回の件も行基が大村に本当に来たかどうかの真偽は定かではありません。年代を調べたところ一応、行基の生きた時代(668〜749)あるいは行基が筑紫(大宰府や九州)に来た年月とは合ってはいるようです。つまり、大村郷村記に書かれている太郎岳大権現の創建(和銅年間=708〜715年)時期とは合わない訳ではありません。

 ただ、和銅年間(708〜715年)創建の太郎岳大権現と、今回記述しています紫雲山延命寺の標石に彫られている天平念戊子八月=天平廿年(西暦748)年と、33年〜40年間の差があります。現代では30数年間のズレは大きいですが、大昔のことを伝聞伝承も含めて編纂された大村郷村記などの記述事項は、ある意味おおらかに言えば、この年月差はないのと同じともいえます。

<共通項は、開山の時期と法相宗>
  あと、この行基開山説の太郎岳大権現と、今回のテーマである紫雲山延命寺の共通項は、法相宗という宗派です。行基が諸国を巡って説いたのが法相宗です。紫雲山延命寺も後世に宗派は変わったようですが、創建当初は法相宗といわれています。これで(真偽は定かではないと前提にしつつも)行基と関係している法相宗という宗派と、両方の開山はほぼ同時期と言う二つの点で共通項があるのではないかと思われます。

 この項目は、「4)標石の年代と山号についての主に二つの意見」の内、一つ目の「(1)「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである」と言うことで書いてまいりました。この標石に彫られた年号の信用性について、現在でも郷土史研究の方々から様々な意見があることは確かです。しかし、ここに彫られた年号のみが、たった一つで”独り歩き”している存在ではなく、太郎岳大権現の存在含めて奈良時代前半に大村に仏教が伝播していたことを物語るものではないでしょうか。

素人的発想と解釈ながら
 話は脱線気味ながら、私は長崎県内のあるテレビコマーシャルを見ていて、今回この標石(台石)に彫られたと年号、紫雲山と言う山号、延命寺の寺号との関係で分かりやすい例だなあと思いましたので、ご紹介したいと思っています。江戸時代に創業された、長崎県を代表する食べ物を作っておられる食品メーカーがあります。この会社のCMは、ほぼ毎日のようにテレビ放送で流されております。

 これと似たような感じで仮に酒造メーカーに変えて、例えば「創業寛永元年 銘酒延命」があったとします。その後、時代は下り日本では1899(明治32)年に商法が施工され近代的な株式会社などが整えられていきました。この酒造メーカーも昭和元年に株式会社に変更されたとします。すると会社名は「株式会社 銘酒延命」となります。同時に酒蔵も改築されたとし、定礎石か記念碑には当然新しくなった正式名称を彫られたことでしょう。それと同じようにテレビCMも先のように形で続けたとしたら「創業寛永元年 株式会社 銘酒延命」となります。

 このように”株式会社”と言う名称は、後世に法律や会社の株式変更に伴って加わっただけです。つまり、江戸時代から使ってきた名称の上に昭和時代に何か加わっただけで「創業の年代までおかしい」と言う訳ではないのです。これと同じように「(創建)天平念戊子八月 (天平20年、748年) 紫雲山 延命寺」と彫られた標石(台石)は、例え後世に紫雲山と言う山号が寺号の上に平安初期以降に付け加えられたとしても、天平20年=748年の延命寺創建年まで疑わしいと言うのは飛躍しすぎと思います。

 むしろ、寺の標石(台石)を作れば半永久的に続く可能性があるので寺に伝わる縁起書か何かで調べて”天平念戊子八月”と慎重に年号を彫りこんだと考えるのが素直な見方とも思えます。ただし、有名な仏教寺院でも創建の年月に諸説(例えば本堂の創建年と、安置された仏像の開眼年の違いなども含めて様々)あるところもあります。

 ですから、今回も約1300年も前のことですから、私は一年一月までも延命寺創建年の天平念戊子八月 (天平20年、748年)が正確無比だとも思えません。ただし、例え若干の年月のズレがあったとしても、この標石に彫られた年号の大枠は正しい創建年ではないかとも思えます。

大村の経筒との関係から
 既に掲載中の『大村の経筒』シリーズと言うページがあります。詳細は、このページをご覧頂くこととし、この項目では、なぜ今回のテーマと関係あるのかを書きたいと思います。その前に極簡単に末法思想や経筒ついて書いておきます。平安時代末期頃に末法思想が流行しました。(永承7=1052年に末法の世を迎えるとしたので流行はその相当以前からあったと言われている) 末法思想とは本来は仏教の歴史観の一つで末法に入ると仏教が衰えるとする思想を言うのですが、当時の地震を始め天変地異や火災・水害など社会全体が不安に脅えた状態になりました。

 そこで民衆を救って下さると言われている弥勒菩薩の再来を信じ、お経を経筒の中に入れ、その上に経塚を作り、さらにその上には単体仏や五輪塔などを置いていました。(全国にも、その例がありホームページにも紹介されている) そのような状況下、大村でも一番早い時期では平安時代末期頃の経筒や単体仏があります。下記は既存のページと重複しますが、大村の経筒(現存している)5個の一覧表や一部の写真をご覧願います。(5個全部の写真や表は、大村の経筒のまとめをご覧下さい)

番号
名   称
発見場所(現町名)
石   材
制作年代(推定・推測含)
大きさ(概要)
弥勒寺の経筒 弥勒寺町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約34cm 幅約11cm
草場の経筒その1 草場町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約45cm 幅約16cm
草場の経筒その2 草場町 滑石製 平安時代末期頃 高さ約34cm 幅約17cm
御手水の滝の経筒 立福寺町 滑石製 鎌倉時代頃 高さ約30cm 幅約34cm
箕島の経筒 (旧)箕島 滑石製 文治元年(1185年) 高さ約45cm 幅約27cm
経ヶ岳の経筒 黒木町

(不明)

永仁二年(1294年)頃 (不明)

 この経筒5個があった場所付近に全てあった訳ではありませんが、単体仏が福重には8体あります。この経筒や単体仏の制作年代を調べると、おおよその時代が分かってきます。それらを総合すると大村市内では、大別すると平安時代末期と鎌倉時代に分かれます。この平安時代末期頃と言うのが、今回のテーマと関連があります。

上側:単体仏の一体
下側:弥勒寺の経筒

 この項目の中で「主に二つの意見」の一つとして<(2)「紫雲山延命寺」と山号を付けるのは平安時代初期からなので、奈良時代の延命寺創建は信頼性が薄い。>があります。これは「郡地区(松原・福重・竹松)の寺院は中世時代ではないか」みたいな論文と相通じる内容です。つまり、「大村(郡地区)への仏教の伝播は、平安時代以降」と言う推測です。

 しかし、私は、平安末期頃に作られた経筒あるいは単体仏を直接見て、その説はおかしいと思うようになりました。それは、宗教をどれだけ信じていたか、あるいはどれだけ広まっていたかと言う側面からも考えなければなりません。その意味から、仮に大村への仏教の伝播が鎌倉時代では、平安末期制作の単体仏や経筒があるのですから完全に時代が遅すぎます。

 次に、仮に単体仏や経筒と合わせて平安末期頃に仏教が伝播したとします。これも遅すぎると思われます。なぜなら、私は宗教上のことは全く素人ですが、「末法思想を信じるか、信じないか」は、それ相当の長期間の信仰があったからだと思います。仮に、この当時に「大村に仏教が伝播した」そして、とたんに「末法の時代にもなったから、さあ経筒、単体仏を作ろう」と思うでしょうか。そんなに器用に信仰や行動が同時進行するとは考えにくいものです。

 しかも、単体仏なら1体、経筒なら1個ではないのです。しかも、どちらとも大村の石ではなく、(推定ながら西彼杵半島産出)滑石製の石です。また、石鍋の技術を応用すれば器具みたいにして筒状の経筒も作れたと思います。しかし、単体仏は仏様を作る技術を必要とします。信仰心もさることながら、それ相当の財力と技量も要ると思われます。これらのことは、何を意味しているのでしょうか。

<大村への仏教の伝播は、相当早くからではないのか>
  上記のことを簡単にまとめてみると、次のことが言えると思えます。
1,平安末期の制作と思われる経筒(推定3個)、単体仏が、福重にかなりの数で存在しているため、当時の時点で相当仏教は広まっていた。
2,地元の大村産出でない(推定ながら)西彼杵半島産出の滑石製の単体仏と経筒であるため、信仰心と財力のある者が制作した。
3,かなりの数の単体仏を制作する技量を既に持っていたことは、仏教(仏様)の知識が石工もしくはその関係者みたいな人まで広まっていた。

  以上の項目から導き出される答えは、大村(郡地域)でも、この末法思想(永承7=1052年に末法の世を迎えるとしたので流行はその相当以前からあったと言われている)が流行した当時、一部の僧侶だけではなく一般にも相当仏教が広まって、しかもそれは相当早くから長期間にわたって信仰されていたと言うことではないでしょうか。また、そのことは、「大村に仏教が平安末期か中世時代に伝播して、郡地区(松原・福重・竹松)の寺院が創建された」みたいな論文では説明できないことも示しています。

<主に二つの意見についてのまとめ>
 この項目は、見出しに書いています通り紫雲山延命寺の標石について、大村市内で出されている「4)標石の年代と山号についての主に二つの意見」の論文について書いてきました。私は、その中でも<(1)「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである。>の意見に賛同する者として、それを補強する形で、「和銅年間創建の太郎岳大権現からも考えて」、「素人的発想と解釈ながら」、「大村の経筒との関係から」などを書きました。

 この項目のまとめは何回となく重複した同じ表現になっていますが、先に述べた事例から考えて、この標石に彫られた年号「(創建)天平念戊子八月 (天平20年、748年) 」及び大村への仏教の伝播は、やはりこの奈良時代のことだったと言えるのではないでしょうか。

(第一次掲載日:2008年9月3日、全面修正し再掲載:2009年12月24日、第三次掲載:2009年12月29日、第四次掲載:2009年12月31日、第五次掲載:2010年1月1日)

5)法相宗は最古の宗派の一つ
  あと、もう一つ延命寺(えんみょうじ)が奈良時代に創建された可能性のある根拠として、「紫雲山延命寺縁起」に書かれている内容があります。その一部が、『大村市の文化財』(大村市教育委員会、1990年3月31日発行)の76ページの「延命寺跡」に記述されています。このページに(概要)「延命寺は本来、法相宗であった」、「その後、真言宗に宗旨替えがあり、さらに禅宗に替わったものと思われる」と記述されています。
延命寺跡(大村市松原3丁目)
(中央の階段左は案内門柱)

 この法相宗(ほっそうしゅう)について、国語辞典の大辞泉で調べると次の<>内のことが書いてあります。   法相宗(ほっそうしゅう)=中国十三宗・日本南都六宗の一。瑜伽論(ゆがろん)・成唯識論(じょうゆいしきろん)などを根本典籍とし、万有は識すなわち心の働きによるものとして、存在するものの相を究明する宗派。玄奘(げんじょう)の弟子、基(き)が初祖。日本には白雉(はくち)4年(653)道昭が初めて伝え、平安時代まで貴族の支持を受けた。現在、奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。唯識宗。慈恩宗。

 私のような全くの素人で不勉強な者には、この辞典を見ても分かりずらいものです。ただ、薬師寺のホームページには、私のような者のためにか、ありがたいことに「法相宗とは(教義について)」と言うページがあります。このページは、内容まで理解できたと言う訳ではありませんが、平易な文章で書いてあるので私も一通りは読みました。

 特に、このページの一部を引用して、次の< >内をご紹介致します。  (前略) 私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。

 例えば、『手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池』という歌があります。旅行客が猿沢の池(奈良にある池)の旅館で手を打ったなら、旅館の人はお客が呼んでいると思い、鳥は鉄砲で撃たれたと思い、池の鯉は餌がもらえると思って集まってくる、ひとつの音でもこのように受け取り方が違ってくる。一人一人別々の世界があるということです。 (後略) 

 私は、「なるほど、手の音一つで、そんなとらえ方、見方もあるのか」と思いつつ、「うーん」と唸ならざるを得ませんでした。ただし、この項目は法相宗の教義を書くページではありませんので、先に話は進めます。薬師寺の創建は、西暦698年に完成したと言われ、法相宗は日本の仏教のなかでも最古の宗派と呼ばれています。今回取り上げています延命寺も「紫雲山延命寺縁起」の通りなら「本来は、法相宗」です。また、そのことは延命寺の創建が極めて古く奈良時代説を裏付けるものです。

  なお、ここでまた話が脇道にそれますが、薬師寺には国宝の仏足石(ぶっそくせき)があります。国語辞典の大辞泉で調べると次の<>内のことが書いてあります。 仏足石(ぶっそくせき)=釈迦の足の裏の形を表面に刻んだ石。インドの初期仏教では仏がそこにいることを示すしるしとして用いたが、のち礼拝の対象とされ、千輻輪(せんぷくりん)などの図が刻まれる。日本では奈良の薬師寺にあるものが最古で、天平勝宝5年(753)の銘がある。   

 実は、現在行方不明になっているため詳細は分かりませんが、15年程前までには大村市弥勒寺町の字「釈迦峰」もしくは「上八龍」周辺には「仏様の足形石」あるいは「お釈迦様の足跡石」=仏足石が存在していました。その関係から、字「釈迦峰」の地名が付いたと思われます。 弥勒寺町にあったと言う「お釈迦様の足跡石」が、本来の薬師寺にあるような仏足石だったとするなら、これまた相当歴史のあるものと推測されます。

 この項目は、日本最古の宗派ともいわれている法相宗から考えてきました。以上のことから延命寺は大村で最古と言うより、先にご紹介しました『大村市の文化財』に書いてある通り日本の地方でも最古の創建時期と考えられます。

(掲載日:2010年1月7日)

6)大村への仏教伝播は奈良時代からではないか
 これまでずっと同じ内容を何回も書いてきて、さらにこの項目で重複するのは誠に申し訳ありませんが、今回のテーマ『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など』の総まとめをしたいと思います。私がこのテーマを書くきっかけは、大村市内で発行された書籍類で「大村への仏教の伝播や郡地区(松原、福重、竹松地区)の仏教寺院の創建は中世時代説」と言う書き方がされていたためです。

  私は「そのように遅いことではなく、仏教の伝播も寺院の創建も、もっと古く奈良時代からだ」と、福重にある石仏や経筒を見て思っていました。そして、今回それに併せて紫雲山延命寺の標石のことも含めて書いてきました。今までの記述した事項を下記の通り一覧表にして、さらに箇条書き風にします。
-
大村への仏教伝播・奈良時代説根拠の主な内容

このページ記述先

関係ページ先
(1)

 太郎岳大権現の開山(和銅年間=708〜715年 )

ここから、ご覧下さい。
郡岳古代の道、福重の修験道
(2)
 紫雲山延命寺の標石の年号(創建)「天平念戊子八月」(748年)
ここから、ご覧下さい。
-
(3)
 平安末期頃の単体仏(経塚の上にあった)の存在
ここから、ご覧下さい。
大村の経筒
(4)
 平安末期頃の経筒の存在
ここから、ご覧下さい。

大村の経筒仏の里 福重

(5)
 平安末期頃の線刻石仏の存在
-
仏の里 福重

(1)郡岳(826m)の旧称である太郎岳に奈良時代の和銅年間に創建された太郎岳大権現は、大村郷村記に記述されているだけでなく、そのことと関係している坊岩、(推定ながら)頂上の礎石跡、本坊跡近くの泉など史跡も残っていて行基伝説の真偽はありますが、当時存在していたと思われる。

(2)紫雲山延命寺の標石に彫られた山号の部分は別としても、創建年号(天平念戊子八月=748年)それ自体はほぼ正確と思われる。

(3)、(4)、(5)平安末期頃に制作された単体仏、経筒、線刻石仏の存在は、相当以前から仏教が大村に伝播していて当然同時期に寺院なども創建されていないと、この時代に制作された自体がおかしいことになる。

 以上のことから、私は大村に仏教が伝播し太郎岳大権現が開山したのは奈良時代の和銅年間(和708〜715年 )、しばらくして紫雲山延命寺の標石に彫られた年号)「天平念戊子八月」(748年)と同じ頃に延命寺は創建され、現在の郡地区を中心に徐々に広まっていったものと思われます。

 同時に郡七山十坊とも呼ばれていた仏教寺院の創建は、従来の「中世時代に創建された説」ではなく、相当古い時期(遅くても平安時代)ものと思われます。ただし、この説はあくまでも決定的とか確定的とか言っている訳ではありません。

 私は、和銅年間開山の太郎岳大権現、天平年間創建の紫雲山延命寺、平安末期頃制作の経筒・単体仏・線刻石仏と言う一連の流れは、自然な歴史的経過とも思えます。ただし、歴史事項は「これにて終り」ということではないと思われますし、石仏の多い福重を中心に今後も、この件の調査を続けたいと考えています。さらに今までと違った史料関係が見つかり、新たに書き加えや訂正がなどがあれば、そのことは追加掲載したいとも思っています。

(掲載日:2010年1月12日)

大村への仏教伝播の意味するもの
 仏教は、国語辞典の大辞泉の通り「釈迦(しゃか)の説いた仏となるための教え。キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一つ」です。このことについて専門知識もない私が改めて何か述べることはありません。ただ、古代の日本にインド・中国などから伝来し、国内各地に伝播して行った仏教の経過を知ることは、宗教という側面だけではなく、その地域への情報伝達や歴史の進展状況を知る上でも大きな意義があると思われます。

 なぜ、このようなことを書いているかといいますと、私は古代から近代前まで人の歴史発展の原動力を非常に大雑把に別けると、経済と情報だと思っています。その経済の要は水や穀物を中心とした食糧がベースになり、そこに国内外の情報(交通運輸、文化、宗教、技術、物など含む)を取り入れて進展してきたのではないかと思っています。

 世界の4大文明を例に出すまでもなく人や都市が発展してきた所は、ほぼ川の近くの穀倉地帯、さらには情報も集まりやすい交通の要衝みたいな地域が多いです。そのような視点から考えれば、九州の地域というのは、その立地環境からして魏志倭人伝を例に出すまでもなく、日本の他の地域のどこよりも早く中国や朝鮮半島などから様々な情報、技術、宗教、物含めて伝来してきたと思われます。

仏教は九州から、じわじわと伝わったのではないか?
 仏教の伝来時期については諸説あって、しかも従来説もけっこう変化しているようです。ただ教科書など一般的には飛鳥時代の538年に伝わったようになっています。そして、しばらくして近畿方面から全国に広まったみたいな記述が多いです。この伝わり方なら九州の場合、「中国や朝鮮半島などから九州の地に伝来した仏教は一旦素通りして、その後また近畿方面から九州へ戻ってきた」となるのでしょうか。

 このことを仮に「一旦九州を素通りして再度戻ってきた説」とするなら、その説も全くない訳ではないでしょうが、最終的には庶民まで信仰する宗教の伝わり方は果たしてそうなのでしょうか。むしろ、私は538年よりも早く伝来し、じわじわと九州各地も含めて全国に伝播していったのではないかと言う説があるとするなら、その方が自然なような気がします。ただし、僧侶など仏教を伝える指導者は、当然各地に必要だったでしょう。

大村にも奈良時代に仏教は伝播していた
 ここ大村の地(今回の場合、現在の郡地区を指している)も、近畿方面から来た説も当然考えられますが、むしろその立地条件からして、中国や朝鮮半島などから九州のいずれかの地点に伝来した仏教がじわりじわりと伝わり、さらに近畿からの逆伝播も含めて発展していったのではないかとも思えます。それらを総合して考えると、「大村への仏教の伝播は、奈良時代ではなく中世頃に伝わり寺院が創建された」とする説は、あまりにも遅すぎる考えだと言えます。

 現代みたいに情報伝達の速いインターネット(光ファイバー網)、テレビ、ラジオなどが、古代にあった訳ではありません。しかし、例えば敵の襲来情報など重要伝達事項は、山の上に烽火(のろし)を焚いて伝えていました。このことは、あるテレビ番組で数100km離れた所からの情報でも数時間内に伝わったことを実験していました。仏教とか宗教は、烽火みたいな伝わり方とかスピード速くとまでは言いませんが、何百年もかかって国内を伝播していったものとは考えにくいものです。

 あと、この項目冒頭にも書いている通り仏教の伝来や伝播を宗教だけに考えずに見た場合、情報、技術、生活用品に至るまで様々なものが付随して伝わっています。今の日本ではあまりにも当たり前過ぎて普段は何も思いませんが、分かりやすい例としてお茶とか漢方薬なども、仏教の伝来が速かったとか遅かったとかいうことは別にしても、やはり同時期か相前後して中国や朝鮮半島などから伝わったものばかりです。

仏教含め歴史は人の多い経済力のある地域で進展してきた

 このようなことから見ていくと、大村で最初の人は約1万3千年前の野岳遺跡で見られるような木の実や野草などを食べ物とした高地生活でした。その後、米が伝わり大きく生活は変化して平地で穀物を食べ始めました。そのことは大村最古(8千年前)の縄文遺跡である岩名遺跡、その後の冷泉遺跡、黒丸遺跡、富の原遺跡などでも明らかです。

 これらの地域は、郡川、佐奈河内川、石走川などの流域であり、それはとりもなおさず穀倉地帯で人も多く経済力もありました。そのような条件だからこそ奈良時代に仏教も伝わり、太郎岳大権現あるいは紫雲山延命寺の創建に至ったのでしょう。その後、郡地区における数多くの寺院の創建、平安末期制作の経筒や線刻石仏など、さらに時代は下って中世時代には京都の東福寺や仁和寺による荘園管理まで続くことになったと思われます。

 改めて大村に伝播してきた仏教それだけを見たら全国の他の地域と比較して従来説より早期と感じるため「奈良時代に伝わった説は速すぎるのでは?」と違和感を持たれる方もいらっしゃるでしょう。しかし、元々、縄文時代より穀倉地帯で人が多く住んで遺跡も多い郡地区、そのような状況だからこそ和銅年間(708〜715年 )に開山された太郎岳大権現、紫雲山延命寺の創建(天平念戊子八月=748年)があったと思えるのです。そして、この地で長年信仰されたからこそ大村の他の地域にない形で福重に平安末期の経筒や線刻石仏が存在しているのです。

 そのようなことから当時、穀倉地帯でなく人もあまり住んでいなかった地域、例えば現在の長崎市とか大村市の中心部に最初から仏教が伝わったと思いにくいものです。やはり、宗教と言う側面だけでなく情報、技術、物までも伝えた仏教の付随した要素を考えれば穀倉地帯で人の多い=経済力のある地域なら若干のタイムラグはあったとしても九州など西日本地域なら、どこもそんなに大きな年代差はなく仏教が伝わったと見る方が自然なような気がします。

 縄文・弥生時代までの大村・郡地区は、どちらと言うと地元もしくは広くても九州の近場の物などの交換などの範囲内だったと思われます。しかし、奈良時代の仏教の伝播頃から、九州内だけでなくさらに範囲を広げ近畿圏まで、政治・経済・情報・物など様々な分野でつながりを深めていったのではないかと思えます。その延長線上で中世時代に東福寺や仁和寺による荘園管理が郡地区でおこなわれたのでしょう。

 歴史の進展を見る場合、ある年代の、ある日時から社会を形成する全てが変わったと見れるものでは当然ありません。ただ、上記の変化から考えて郡地区への仏教の伝播は、その後の様々な進展の契機をなしたものとも思えます。

(掲載日:2010年1月19日)

あとがき
 今回のテーマ『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など』の掲載は、2年越しの長期間になりましたが、やっとあとがきを書く段階になりました。内容の中心だった紫雲山延命寺の標石についても、大村への仏教の伝播についても各々の項目で私の知っている範囲内の記述とまとめもしましたので、改めこれらのことについて補足や特別に書くようなことはありません。

 人の歴史は何十万年という長さですから世界中を見渡すと、ある傑出した英雄や偉人が彗星のごとく現れて今までの経過をプツリと切断し、ぱっと何かを新しく変えたこともあったかもしれません。しかし、ほとんどの場合、人は一人では生きられないので、やはり水、食糧を始め今回のテーマの一つだった宗教関連含め様々な物、情報などをお互いに共有・伝達しあって発展してきたのだなあとも思います。

 その意味からして、古代から郡地区(大村)含めて日本のどの地域も、穀倉地帯で経済力のあった地域は、似たような状況で近隣を中心に遠来の情報や物なども「スピード速く」とまでは言いませんが、けっこう頻繁に行きかったのではないかと想像もされます。私は、福重の単体仏や線刻石仏などを見るたびに、そこに住んでいた人の様々な経過や他地域との情報交換なども感じています。何事も一朝一夕に出来るものではなく、連綿と続く長い人の歴史の延長線上にそれら石仏などはあるのだと言うことが、改めて良く分かりました。

 歴史も宗教も素人の私が書いた今回のこのシリーズですので、当然過不足その他あると思います。そのような文章ながら、このページをご覧いただき大変ありがとうございました。また、書くに当たって色々なアドバイスをして頂いた皆様に改めて感謝申し上げます。今後も、追加掲載する可能性がありますが、どうか閲覧の方、よろしくお願い致します。 (了)

(掲載日:2010年1月27日)

関係ページ:『仏の里 福重』 、 『大村の経筒
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