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大村の歴史
彼杵郡家(そのぎぐうけ)
彼杵郡家(そのぎぐうけ)=彼杵郡衙(そのぎぐんが)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった
(彼杵郡家ー彼杵郡衙の位置や役割を考える)
主 な 内 容
掲載状況
はじめに
掲載中
用語解説(一部)
掲載中
古代を中心とした時代区分表と主な出来事
掲載中
1)肥前国とは
掲載中
2)寿古の地形や地理から考えて
掲載中
3)寿古遺跡の遺物が語るもの
掲載中
  (1)戦国時代以前の輸入陶磁器が大量に出土した
掲載中
  (2)須恵器など古代の遺物が多いのは何を意味するのか
掲載中
  (3)郡川河口付近に貿易港があり貿易商社があったのでは
掲載中
  (4)中国製のこね鉢は”誰が”、”何のために”
掲載中
  寿古遺跡の遺物のまとめ
掲載中
4)
準備中
5)
準備中
あとがき  

はじめに
 この肥前国の彼杵郡家(そのぎぐうけ)について結論から先に書きますと、古代・肥前国時代に現在の長崎県大村市寿古町(字「好武」付近)には彼杵郡家(そのぎぐうけ)=彼杵郡衙(そのぎぐんが)と言う役所があったと推測されます。上記のタイトルは見出しですから簡略して書いています。しかし、やや長くなりますが正確に表現すると、「古代・肥前国時代から中世時代の頃まで、寿古町の好武周辺は長崎県央地域の中心地で郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)や彼杵庄園管理の役所などがあった所ではないか」と言う推論です。(その役所の名称は、以降、”彼杵郡家”を主に使って書いています)

 あと、もう少し補足しますと、肥前国は”国”と言う名称にはなっていますが、現在なら「県」に当たります。さらに、その中の彼杵郡の「郡」は、現在なら町・村などのまとまった行政組織とも言えます。その町・村などがまとまったものですから、本来なら「彼杵郡家は”郡役所”だった」と表現すべきと思います。

 しかし、”郡役所”は、過去にあったのは事実ですが、現在の人には全くなじみのない、イメージさえも浮かびにくい行政や役所イメージなので、あえて分かりやすく「彼杵郡家は長崎県央地域の“県庁”みたいな所だったのではないか」と表現を用いていますので、この点はご了承願います。なお、彼杵庄園のことは、初めてこの言葉を見られた方は分かりづらいと思います。この庄園は県央地域に広がっていたことは事実ですが、今回詳細説明は省略しています。いずれ、別テーマの時に詳しく書きたいとも思っています。

右側(右岸):寿古町、中央部右側:郡川本庄渕の下流側、左岸:沖田町黒丸町、橋は郡大橋、奥は大村湾 (彼杵郡家本庄渕の右側周辺にあった) 手前側は皆同町

 今回このページの文章を書くに当たり、これまでの書籍類だけではなく彼杵郡家も含めた大村の郷土史について福重で2回 (2007年2月10日と同年3月28日) 講演や現地説明をして頂いた大村市文化振興課の大野安生氏より頂いた資料や講演内容を引用、参照しています。また、寿古遺跡で発掘された遺物写真についても同氏のご協力を得て撮影いたしました。大変ありがとうございました。

彼杵郡家(そのぎぐうけ)=彼杵郡衙(そのぎぐんが)の名称ついて
 古代国家の場合、分かりやすく言いますと各国の首都として国庁があり、さらに地方の郡の役所には郡家(ぐうけ、ぐんけ)、郡衙(ぐんが)などがありました。郡家も郡衙もほぼ同じ意味で国語辞典の大辞泉には、郡家のことについて次の通り書いてあります。<律令制で、郡司が執務していた所。郡の役所。こおりのみやけ。ぐうけ。>

 今回の場合、肥前国の彼杵郡にありましたので彼杵郡家(そのぎぐうけ)または彼杵郡衙(そのぎぐんが) と言います。どちらも名称は正しいのですが、福重郷土史同好会では最初から彼杵郡家(そのぎぐうけ)との呼び名で通してきましたので、今回この名称で統一表示したいと思っています。

 あと、この彼杵郡家が置かれた後、この地域(現在の松原・福重・竹松地区)は郡村と呼ばれていました。これと同じように「」の名称が付いたもので郡岳(こおりだけ826m、旧称は太郎岳)、郡川(こおりがわ、15.9km)などがあります。

 なお、郡村と呼ばれる前は、”大村郷”の名称で、その中心地と思われます。詳細は、『大村の地名発祥について』をご覧願います。あと、長崎県の例ではないですが、福島県の郡山市の名称は、彼杵郡家と同じように郡家・郡衙の所在地からの由来があり、同様な例として全国には沢山あります。

なぜ、彼杵郡家(彼杵郡衙)を取り上げたのか
 なぜ今回、彼杵郡家についての文章を作成しているかですが、いくつかきっかけがあり、それを箇条書きにすると下記の通りです。
(1)肥前国時代の彼杵郡家について、地元の福重地区含めて大村市内でも、ほとんど一般には知られていないこと。

(2)長崎県の歴史は、専門書などを除き一般には長崎港の開港以降やキリシタンの歴史ばかりしか報道やガイドブック化されていないので、まるで「長崎県の歴史は400年か500年間位しかない」と、全国の皆様には思われている可能性があること。(実際、このことについて私の大阪時代の元同僚から指摘を受けました)

(3)長崎県でも1万3千年前の旧石器時代の野岳遺跡(大村市の野岳湖周辺)を始め、中国で3世紀末頃に記された魏志倭人伝でも登場する対馬・壱岐などの歴史、さらにはお隣の佐賀県と匹敵するくらいの人の歴史の長さもあり、その一つが古代・肥前国のことではないかと思ったこと。

(4)私のささやかな文章でも何かのついでで地元の歴史に関心を持たれる方が増えたり、若い方などが郷土史に興味をもたれればなあと思ったこと。

(5)様々な歴史を知ることにより、何かのきっかけで地域起こしや史跡巡りウォーキングなどの活発化に繋がらないかなあと思ったこと。

などです。あと、今回、私の義兄に依頼して彼杵郡家の概略の想像図(色鉛筆画)として2枚(全景図と部分図)を描いてもらったことも、このテーマを書くきっかけになりました。この想像図は、後の項目でご紹介する予定です。また、寿古遺跡から発掘された遺物なども含めて関係の写真も掲載する計画があります。なお、このテーマは文章できしだい徐々に掲載していきたいと思っています。私のつたない文章かもしれませんが、閲覧して頂ければ無上の喜びです。どうか、よろしくお願い致します。


(初回掲載日:2009年11月18日

用語解説(一部)
 この古代・肥前国や彼杵郡家などの用語解説は、主に国語辞典の大辞泉を引用、もしくは私が補足して書いています。「」内が大辞泉からの引用です。さらに必要に応じて追加掲載する予定です。
なお、用語項目は順不同です。

用 語 (読み)
用 語 解 説
古代(こだい)
「歴史の時代区分の一。原始時代と中世との間。日本史では、一般に奈良・平安時代をさすが、大和政権時代を含むこともある。世界史では、原始社会のあと、封建社会の成立までの時代をいう。
国家(こっか)
「1 くに。2 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、その組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる。
律令制(りつりょうせい) 「律令を基本法とする古代日本の中央集権的政治制度およびそれに基づく政治体制。中国の隋・唐の法体系を取り入れて成立。二官八省を中心とする中央官制、国郡里制による地方行政組織が整い、公地・公民を原則として官僚による土地・人民支配が確立した。人民を良民・賤民(せんみん)に二大別し、班田収授の法により耕地を与える代わりに租・庸・調・雑徭などを課して中央および地方の財源とした。荘園制が発達する9世紀末から10世紀ごろには実質が失われた。令制。」
肥前(ひぜん) 「旧国名の一。西海道に属し、現在の佐賀県と、壱岐(いき)・対馬(つしま)を除く長崎県にあたる。肥州。」
肥州(ひしゅう) 「肥前(ひぜん)国・肥後(ひご)国の総称。」
肥前風土記(ひぜんふどき) 「奈良時代の肥前国の地誌。1巻。和銅6年(713)の詔により撰進された風土記の一。肥前国風土記 」
郡衙(ぐんが) 「律令制下の郡の役所。」 <注:下記の郡家も参照>
郡家(ぐうけ、ぐんけ) 律令制で、郡司が執務していた所。郡の役所。こおりのみやけ。ぐうけ。
郡司(ぐんじ) 「律令制で、国司の下で郡を治めた地方官。大領・少領・主政・主帳の四等官からなり、主に国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が世襲的に任ぜられた。また、特に長官の大領をいう。こおりのみやつこ。」
(ぐん) 古代の郡は律令制の行政区画で国の下に置かれた。明治・大正時代は町村を含み、国または都道府県の下の区画。大正10年までは地方公共団体であった。
郡役所(ぐんやくしょ) 古代の場合、郡は律令制の行政区画で国の下で、郡役所はその役所のこと。(補足:彼杵郡家も、その内の一つである)<注:上記のも参照>
古代の地方行政区画 律令制で定められたもので、五畿七道(ごきしちどう)と言われています。
五畿七道(ごきしちどう) 「律令制で定められた地方行政区画。五畿と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)。また、日本全国の意。」
西海道(さいかいどう) 「五畿七道の一。今の九州地方全域。大宰府(だざいふ)が統轄。初め筑前・筑後・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・肥前・肥後・日向(ひゅうが)の7国と壱岐(いき)・対馬(つしま)の2島。天長元年(824)以後、薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)を加えた9国2島となる。慶長14年(1609)に琉球も含む。西の海の道。西海。鎮西(ちんぜい)。」
国府(こくふ) 「国ごとに置かれた地方行政府、また、その所在地のことである。(もっと分かりやすく表現するなら国の政治中心地=首府)」
肥前国の国府 肥前国の国府は現在の佐賀県佐賀市大和町にあった。ここには政庁の遺跡もある。
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(第一次掲載日:2009年12月19日)

古代を中心とした時代区分表と主な出来事
 古代・肥前国の彼杵郡家(現在の大村市寿古町にあったと推定される)を知るには、この当時の日本や九州の主な出来事なども知る必要があろうかと思われます。それで、この項目では、古代の概要を把握するために表を作成しました。まず、下表の
「時代区分」は、あくまでも大まかな区分です。時代ごとに、その年代の分け方で色々な学説があり、さらに文化面でも学者さんや専門家で意見が分かれています。

 あと、「主な出来事」の欄は、今回のテーマと関係あると思われる事柄を列記しただけで、本来ならもっと多数の項目があります。下線(アンダーライン)のある文字行は、肥前国及び大村と直接関係あると思われる出来事です。以上のようなことから、下表は、あくまでもご参考程度にご覧願えないでしょうか。この表の作成にあたり、主に国語辞典の大辞泉を引用、参照しました。下記「」内が大辞泉からの引用です。また、主な出来事などは、これからも追加掲載していく予定です。

時代区分
文 化
主 な 出 来 事
旧石器時代
旧石器文化
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縄文時代
(約12000年、13000年前

2300〜2400年前)
縄文文化
・約8000から7000年前頃の遺跡として岩名遺跡がある。
弥生時代
(約2300〜2400年前

約1700年前 )
弥生文化
・黒丸遺跡(沖田町の遺跡含む)

古墳時代
(3世紀末頃

飛鳥時代
(6世紀末〜7世紀頃)

古墳文化

飛鳥文化

白鳳文化
・「57年、倭の奴国王が後漢に朝貢し、光武帝より印綬を受けたという「後漢書」東夷伝にみえる印が「漢倭奴国王印」といわれる。(福岡県粕屋郡志賀島から出土した金印)」
・4世紀末か5世紀頃に黄金山古墳が造られた。

・「414 年、広開土王の功業を記念して建てられた石碑の建立。中国の吉林省の鴨緑江中流北岸にある。古代の日朝関係を語る重要な史料。好太王碑。 」
・「645(大化元)年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革=大化の改新」を行った。
・「660年、唐・新羅によって百済(くだら)が滅んだ。」
・「663年、白村江(はくすきのえ)での日本・百済連合軍と唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦い。日本は唐・新羅軍に攻略された百済の救援のために軍を進めたが大敗し百済は滅亡。」
・「680年、天武天皇により薬師寺建立を発願し、697年に持統天皇によって本尊開眼。」
・「701(大宝元)年、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となって大宝律令を編集。」 この前後頃に肥前国は成立か。
奈良時代
(710年 - 794年)

天平文化

・「710(和銅3)年、元明天皇の藤原京から平城京へ遷都し、桓武天皇が784(延暦3)年、長岡京に遷都するまでの間に奈良に都が置かれた。」
・和銅年間(708〜715年)に太郎岳(郡岳の旧称)に三尊を祀る。(太郎岳大権現)

・732 年以後数年の間で肥前国風土記が成立か。
・741年、聖武天皇は諸国に国分寺建立の詔(みことのり=天子の命令)を発した。
・748年(天平念戊子八月)、紫雲山延命寺の創建。
(当時は山号はなし。山号は後世に付いた)
・749(天平勝宝元)年、奈良東大寺大仏殿の本尊。(通称「奈良の大仏さん」)創建。752(天平勝宝4)年に開眼供養。

平安時代
(794年- 1185年)

弘仁・
貞観文化

・「794年(延暦13)、桓武天皇が平安京へ遷都。ここからから1185年(文治元年)の鎌倉幕府の成立までの約400年間を平安時代と言う。」
・「延喜式=弘仁式・貞観式以降の律令の施行細則を取捨・集大成したもの。50巻。三代式の一。延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長5年(927)成立。康保4年(967)施行。」
・「平安後期から鎌倉時代にかけて末法思想(仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想)が流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。」
1007(寛弘4)年の在銘がある藤原道長奉納の経筒がある。(金峯山経塚、きんぶせんきょうづか)日本最古の経筒と言われている。

鎌倉時代
(1185年 - 1333年)
鎌倉文化

・「1185(文治元)年、源頼朝が守護・地頭を設置したときから、元弘3年(1333)北条高時が滅亡するまでの約150年間を鎌倉時代というが、始期については諸説がある。 」

(第一次掲載日:2009年12月10日)

1)肥前国とは
 この項目を書くにあたって、最初からお断りを書きます。私は、まず、この当時の日本全体の状況をかつまんでもいいから記述して、さらに今回のテーマの「古代・肥前国の状況は、どうだったのか」と言う流れにしたかったのですが、なかなか先に進みませんでした。その最大の理由は、私の不勉強からくるものなのですが、率直に申し上げて、この当時の日本全体あるいは肥前国自体についても正確に把握できていません。

 上記項目の古代を中心とした時代区分表と主な出来事の一覧表でも、この当時の一部の事柄を書いています。しかし、肥前国の成立自体に諸説あって専門家の方々でも、まだまだ定まっていないようです。また、単にこの時代のことだけでなく本来は、縄文・弥生時代さらには古墳・奈良時代までを調べないと、なかなか国の成り立ちは分かりづらいものです。ところが一番肝心と思われる国の成立直前直後の部分が肥前国含めて私自身として正確に把握できていない状況です。

 それらを調べようと、私なりに書籍類に分かりやすいことが記述されていないか調べてみました。古代のことについての本は、けっこう沢山出版はされています。しかし、私が学生当時習った例えば好太王碑とか百済や白村江の事柄についても教科書と違うような説も見受けられます。今も色々な方によって研究が進んでいるようですが、まだまだ、定まった見方が出来ない状況とも思えます。つまり、この時代のことは専門家の方々でも研究途上のような状態と考えられます。

 あと、肥前国についても現在の佐賀県側はけっこう記述含めて多くあるようですし、例えば古代の道がどうだったのかにつても解明が進んでいるようです。しかし、長崎県側はかなりの不足と言いますか、分かりずらさがあります。この原因は、”長崎独特の歴史観”(例えば日本の長い歴史からすれば新しい歴史事項とも言える400年前の長崎港開港からの記述ばかりとか、キリシタンの歴史中心の書き方ばかり)が多くて、それよりも以前の歴史が通史とか専門書類を除けばほとんど取り上げられないことも起因していると思えます。

 ただ、自分の勉強不足を棚に上げて、このようなことばかりを書いていては、さらに進みませんので今回、長崎県大百科事典に肥前国について分かりやすく簡潔に書いてありますので、引用してご紹介致します。辞典の性格上、省略しましたら分かりずらくなりますので、この全文を下記<>内に書きました。この引用は長崎県大百科事典(発行者:長崎新聞社、発行日:1984(昭和59)年8月10日、724ページよりで執筆者は外山幹夫氏です。

  肥前国(ひぜんのくに)
 肥前国はもと肥国であったものが肥前、肥後の二国に分かれたものである。肥前国の国名は七三二年(天平四年)に著述されたといわれる『肥前国風土記』に初見されるが、実際は大宝令の施行された七〇二年(大宝二)前後には成立していたとみられる(長崎県史古代・中世編)。

 肥前国は大国・上国・中国・下国の四等級のうち上国とされ、この下に基肄(きい)、養父(やぶ)、三根、神崎、佐嘉、小城、杵島、藤津、高来(たかく)、彼杵(そのぎ)、松浦の一一郡があったが、今日の長崎県に当たるのは高来、彼杵両郡および松浦郡の一部に壱岐、対馬の両島を加えたものである。 郡の下に里が置かれた。里は郷戸五〇戸をもって一里を構成させた。

 しかし七一五年(霊亀元)に里を郷と改め、この下に里を置くいわゆる郷里制が施行されることとなった。国を統治するのが国司であるが、上国である肥前の場合その定員は守(かみ)・介(すけ)・掾(じよう)・目(さかん)が各一人とされていた。

 今日、実名の分かる最初の肥前の国司は七五〇年(天平勝宝二)に任ぜられた吉備真備(きびのまきび)である。その政府である肥前国衙(こくが)については、『和名抄』は小城郡にあったとするが遺跡が確認されず、むしろ佐賀市春日(注)にあったとする説が有力である。  

(注)「肥前国庁跡」の住所は佐賀市大和町久池井(佐賀大和インターチェンジ南)で、現在「肥前国庁跡」歴史公園と資料館がある。

補足含めて
 上記の記述内容は、さすが辞典だなあともいえる内容で、私のような素人にも分かりやすいものです。ここで、分かりやすい上記内容をさらに補足して書くのは愚の骨頂みたいなものですが、原文が縦書きの関係もあるので上記の要略を下記に横書きの箇条書き風にして、さらに補足もしながら書いていきます。なお、内容の一部は、現在の長崎県側と関係の深い事柄を中心にしています。

・肥前国は元々は肥国の一つの国だったが、肥前、肥後の二国に分かれてできた。<当時、肥前は(壱岐、対馬を除く)現在の長崎県と佐賀県、肥後は熊本県である。諸説あるが肥国の「肥」は”火”の意味もあり、これらを続けると”火国”から付いた国名説もある。>

・肥前国の成立は702(大宝2)年以前のことと推測されている。(これも諸説あるようだ)
・肥前国は四等級のうち上国で、その下に郡があり(現在の長崎県側には)高来(たかく)、彼杵(そのぎ)、松浦があった。(壱岐、対馬は当時は別の国だった)

・<715年の改訂後>肥前国を統治する者として、守(かみ)・介(すけ)・掾(じよう)・目(さかん)が各一人いた。
・肥前国の国衙(こくが)<国府、首都>は、佐賀市春日(現在の佐賀市大和町久池井、「肥前国庁跡」)にあった。

 私は、これまで何回となく重複して申し上げていますが、様々な書籍類、上記の長崎県大百科や補足内容含めても肥前国の全体像解明が、まだまだ進んでいない状況と思えます。このようなことから、肥前国の成り立ち、進展、その後どうなったかなどは、何かを語るにしても本当に材料が少ないような気がします。

 今後、新たな史料とか遺跡発掘によっての遺物出土などに期待したいと思っています。この項目の「”肥前国とは”と言う見出しの割には、具体性や新味がないのではないか」と言う皆様からのご指摘も聞こえてきますが、推測ばかりで書く方法より、また新たな史料(資料)が分かれば追加していきたいと言うことを前提に、この点はご了承願います。

どの地域も似た状況で進展してきたのでは
 ここから、やや脇道にそれますが、私は古代の道シリーズ古代の道と駅』と『福重の修験道』を書く前に何十回となく、その周辺を車や徒歩で調べてみました。佐賀県側へも鹿島市、嬉野市方面へ何回か大村市との間を南北色々なコースから往復走行しました。そこで改めて実感したのですが、多良山系を中心線にして紙を折ったようにパタンと開くと、平地が佐賀県側が広く続くことは割り引いても左右案外似ている地形だなあと思いました。

  また、この多良山系が横たわっている関係上、住宅地や工場関係は当然増えたとしても、山川や平地などの地形そのものは古代・肥前国時代の約1300年前も現在も、びっくりするほどは変わっていないのではないかなあとも思いました。なぜ、このようなことを書いているかと申しますと、私は「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」(詳細はリンク先からご覧頂くこととして極簡単に書きますと「大村へも仏教は奈良時代に伝わったのではないか」)のページにも同じことを書いていますが、地形(平地、水、穀倉地帯、交通の要衝など)と、人の歴史の進展は関係あるのではないかとの推論からです。

 結論から先に述べれば、これら(地形からの
)水や穀倉地帯の関係が経済を支え、それにプラスする形で様々な情報伝達によって人の歴史を発展させてきた原動力があると思っているからです。それらのことからすれば、確かに古代・肥前国の国府(首都)は佐賀側にあったにせよ肥前国全体どこも大きな差がない状態で、どの穀倉地帯に住んでいた人達でも同じような進展をしてきたと思っています。

 光ファイバー網やテレビなどがない時代の古代の話ですから、即座・即刻にと言う情報伝達でなかったにせよ、現代人が想像する以上に速いスピードで古代・肥前国の人達も九州や海外の中国・朝鮮などと盛んにお互いに情報とか物を伝えていたと私は思っています。

 なぜ、私は穀倉地帯、交通、情報交換などのことを重複して何回も書いているかと言いますと、今回のテーマとも関係が深いからです。それと、郷土史の書籍類に「(長崎は)大村は(日本国全体でも)九州でも西のはずれに位置しているので情報(仏教の伝播なども含めて)や物の伝えわり方が遅かったのではないか」みたいな記述もあるからです。それらの見解は、率直に申し上げて違うのではないかと私は思っています。

 私自身は何回も書いていますが、古代・肥前国当時であっても「穀倉地帯で交通の便に恵まれている地域なら、どこでも似た状況で文明や歴史は進展してきたのではないか」と思っています。そのことを具体的な事例から見る意味で、下記の2)寿古の地形や地理、3)寿古遺跡の遺物が語るもなどの項目で、ご紹介したいと思います。

(第一次掲載日:2010年2月5日、第二次掲載日:2010年2月9日、第二次掲載日:2010年2月10日)

江戸時代、大村藩領絵図の一部分(中央下部付近、直角形状の紺色太線は郡川)
<郡川、直角部分の右岸が寿古(当時は「須古」と表記)>
(右岸側の小さな丘みたいな所が、好武=彼杵郡家のあった場所と言われている)

2)寿古の地形や地理から考えて
 
この寿古周辺の地形あるいは地理的な状況も、古代・肥前国の彼杵郡家と関係してきますので書いていきます。私は、先の項目でも、あるいは別のシリーズ「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」でも、人の歴史が進展してきた要素の中に地形、水、穀倉地帯、交通の要衝などがあるのではないかと繰り返し書いてきました。そのようなことから、この寿古周辺も様々な条件に合致していることが分かりました。

(1)寿古の地形や地理的な状況
 寿古<現在の大村市寿古町。江戸時代までは「須古(村)」と表記されていた>
は、郡川(こおりがわ)の下流域の右岸に位置し、また大村湾に面した一帯です。この川のおかげで用水路もあり、地下水も豊富な地域です。この豊かな水で大村市内でも有数の広い田んぼや畑もあり穀倉地帯です。

 さらに郡川の河口は大村湾に広がっているため大昔は海運の港としても利用されていたと推測されています。さらには木材の運搬に使われていて江戸時代に編纂された(大村)郷村記には上流域の萱瀬で切り出した玉木(薪にする木材)を管理する役所もあったと書いてあります。

 あと上記に述べた記述だけみたら、まるで寿古は全部平坦地ばかりと思われますが、一か所だけ(現在では)高さ10メートルもないような丘があります。その丘一帯が地名(字=あざ)で好武と呼ばれる所です。(右上の大村藩領絵図と説明文もご参照下さい) この丘を除く平坦地は、たびたび郡川の氾濫にあった所です。また、元々海だった所も多く、湿地帯も広がっていたと思われます。それらの関係からか、直ぐ対岸の沖田町は、どこを掘っても縄文・弥生遺跡が出土すると言われていますが、それに比べ寿古はそれらの遺跡はあまり出ない状況です。

 そして、後世になり開墾が進み田んぼの地盤改良のため、この丘の土砂が利用されました。ですから、現在では好武周辺の丘は低く見えますが、古代・肥前国時代は、もっと高かったと推測できます。この高さが、お金と同じような価値観があった米の貯蔵さらには役人など住居に最適だったと思われます。ご参考までに、対岸の沖田側には丘などはなく平坦地ばかりです。

(2)地名の”本庄”も郡川にある「ほんじょうぶち」(本庄渕、
本城渕)も、名前の由来は彼杵郡家からではないか
 再度、右上側の大村藩領絵図に描かれている郡川の直角部分と右下側写真に、ご注目願います。ここは今でも地元で「ほんじょうぶち」=本庄渕(本城渕)と呼ばれる郡川の広い渕があります。この名前の由来と意味は、「古代・肥前国の彼杵郡家、彼杵庄園管理の役所の前にある渕」と思われます。

寿古町
郡川の本庄渕(本城渕)<写真中央右の奥側>
(左側の土手後方が好武周辺、左後方の山は郡岳)

 戦国時代には一時期、好武城と言う城もあったので「城の前の渕」と言う意味もあり、江戸時代の郷村記には「本城渕」と書いてあります。 あと郡川の渕だけではなく、この本庄という文字は、いつ頃からかは不明ながら狭義には寿古周辺、広くは福重全体を指す地名として史料にも度々登場してきます。つまり史料などでは、本庄と言う場合は彼杵郡家、庄園管理などの役所を指すだけでなく地名としても使われていました。

 やや蛇足的ですが、この本庄という言い方は現在の例えば「今から福重出張所から(大村市役所の)”本庁”へ行ってきます」みたいな話し方をしますが、この”本庁”や中央官庁の場合は”本省”に、ほぼ似た感じが私はします。ただし、先ほどと重複しますが大村郷村記には「本城渕」と表記されています。しかし、この好武城は城として使われた年数は長くはありません。

 また、上記のように地名として付くのは特別な場合を除き最低でも五・六百年以上かかるとも言われていますので、この本城渕と言う文字は元々の本庄渕が後世で当てられて変化したものと私は思っています。また、江戸時代の絵図などには城を表記する場合、良く「御城」とも描かれていることも付け加えておきます。

(3)古代の道も通っていた
 この項目については、古代の道想定路や地形などについて、既に『大村の古代の道と駅』シリーズに詳細に書いています。このことを書き始めすと、このシリーズと全部重複しますので、ここでは少しだけ触れます。古代・肥前国の国庁(首都)から来たとしたら嬉野方面の山越えを行い、現在の大村市草場町の馬込にあったと言う新分駅(にきた、にいきた)の駅を経て、この彼杵郡家の役所へ下っていたと思われます。

 さらに、この彼杵郡家の役所から本庄渕(本城渕)の上流側へ行き、そこで
郡川の飛び石を伝い沖田側へ渡って、さらにずっと進むと鈴田峠を越えて諫早、島原方面に行く道がありました。川以外の古代の道は、その時代によって若干、想定路が違ってきます。しかし、郡川の飛び石の場合は、ここを渡らない限り、その後栄えた江戸時代の長崎街道も存在しませんので、この周辺に限って言えばほぼ同じと言えます。

 以上、この項目では寿古の特に好武やその周辺について、地形や地理的状況を書いてきました。この項目で申し上げたかったことは、寿古の好武周辺は、古代・肥前国時代の役所にふさわしい地形や地理的要因だったかと言う点です。この点から考えれば、下記の箇条書き風の項目が挙げられます。

・寿古周辺の福重、竹松、松原(併せて郡村=大村郷の発祥の地)が穀倉地帯だった。
・寿古の好武周辺が、やや小高い丘になっていて役所、米蔵や役人の住居などに最適だった。(丘だったため最悪、郡川の氾濫があったとしても逃れられたのではないか)

・郡川河口周辺は海運、水運にも適していた。
・寿古周辺には古代の道も通っていた。
・「ほんじょうぶち」(本庄渕、本城渕)の名前の由来が役所に結び付いていた。

などのことを総合して考えれば地形や地理的要因からも、この寿古の好武周辺に古代・肥前国の役所があったものと言えます。

(第一次掲載日:2010年2月19日、第二次掲載日:2010年2月20日、第二次掲載日:2010年2月21日)

3)寿古遺跡の遺物が語るもの
 右上側から2枚の遺物写真は、大村市立史料館・企画展 歴史の缶づめ(2009年7月26日〜9月30日)が開催された後の10月2日に許可を頂き撮影したものです。3番目以降の写真は、資料整理室で2009年8月5日に撮影したものです。あと、この項目の文章を書くに当たって、寿古遺跡(県営圃場整備事業福重地区にかかる遺跡発掘調査報告、大村市文化財保護協会1992年3月発行)、黒丸遺跡ほか発掘調査概報Vol.5 (大村市教育委員会2005年3月発行)
などを引用、参照しています。また、大村の郷土史について福重で2回 (2007年2月10日と同年3月28日) 講演や現地説明をして頂いた大村市文化振興課の大野氏の講演内容を参照しています。

 ただし、この報告書や講演内容を引用・参照もしていますが、今回の彼杵郡家紹介ページは、寿古遺跡から発掘された遺物を専門に紹介するページではありませんので、各調査報告の主旨を変えない範囲内で出来るだけ分かりやすい見出しや内容にしています。さらに全ての遺物を紹介していませんので、これらの点はあらかじめ、ご了承願います。

寿古遺跡、輸入陶磁器(青磁)(大村市寿古町)

  また、いちいち、お断りを書くほどではないかもしれませんが、このような陶磁器は、最初から日本ではできませんでした。日本の壷や食器類は、縄文土器や弥生土器でも、ご存じの通り最初は土器でした。その後、朝鮮半島の輸入や影響を受け、須恵器が作られるようになったと言われています

 それよりも後世になって陶器は、中国や朝鮮から輸入されるようになりました。そして、いつ頃から日本で陶器が作られたか、私は詳細不明ながら桃山時代頃から作られたとも言われているようです。つまり、今回取り上げている寿古遺跡発掘の青磁や白磁などは、この当時の輸入品ばかりであることを事前に、ご承知の上、ご覧願います。

(1)戦国時代以前の輸入陶器が大量に出土した
 まず、やや引用が長くなりますが、黒丸遺跡ほか発掘調査概報Vol.5 (大村市教育委員会2005年3月発行)23ページから24ページの関係部分を次の<>内の通り、ご紹介します。

 < (前略) 好武城外縁に広がる寿古遺跡では、圃場整備に伴う発掘調査が実施されている(大村市文化財保護協会1992)。特に好武城西辺及び北辺付近の調査区において、古墳時代〜古代の須恵器・土師器、中世輸入陶磁器及び瓦器、石鍋、近世陶磁器が大量に出土した。特に中世遺物は「爆発的に増加する」と報告されるほどである。報告ではそれを「好武城」の成立に伴うとしている。史料による好武城の築城は具体的ではないものの、せいぜい戦国初期頃までしか遡ることはできな い。したがって中世前期の「好武城」を想定しなければならない。これについて満井録郎は「本城」地名を「本荘」とし、九条家領彼杵本荘における惣政所代所と述べた(満井1987)。発掘調査では多量の未使用石鍋が出土しているが、そのような状況は木戸雅寿によると、荘園を通じた中央の権門と深く関係するといい(木戸1993)、満井説を補強するものである。  (後略)  

 上記と同じ報告書28ページの総括部分に次の<>内のことが書かれていますので引用します。ただし、下線=アンダーラインは上野が付けました。こちらの方が、寿古遺跡の遺物の概要を知る上で簡潔ながら私のような素人には分かりやすいものです。

 < (前略)  須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。 好武城及び寿古遺跡の状況はきわめて特殊であり、当該期における遺跡の性格は、自ずと当地域 における特殊な場として考える必要がある。  (後略) 

  上記、報告書からの二つの<>内を参照して、大まかな遺物の状況をまとめて見出しを付けますと先に書いています通り、「戦国時代以前の輸入陶器が大量に出土した」となります。このことは何を意味するのでしょうか。また、慎重な言い回しですが、「当地域 における特殊な場」とは、何を表現されようとしているのでしょうか。

  今まで、この寿古町の好武付近は、大村郷村記にも好武城の記述もありますし、どちらかと言いますと戦国時代の、この城が方が有名でした。私たち福重の者も、異口同音に「この周辺は、好武城のあった所」と観光客の方へも、今まで説明を繰り返していました。

寿古遺跡、輸入陶磁器(白磁)(大村市寿古町)

  しかし、上記の遺物説明文章でもお分かりの通り、戦国時代の遺物の出土は少なく、それ(戦国時代)以前の須恵器、輸入陶磁器、石鍋などが大量に出ていると言うことです。しかも、輸入陶磁器と言えば当時は、高級品です。一般庶民が簡単に買える物ではなかったものとも思えます。このような高級品を買える財力のある人は、どのような人だったろうかと言うことです。

  それは、当時の長崎県央地域を管理、支配していた役人とか彼杵庄園管理の役人、あるいは商売などで成功した人達が住んでいた思われます。つまり、この発掘された遺物は、寿古町の好武周辺に古代から長崎県央地域の役所(県央地域の中心地)があったことを意味しているのではないでしょうか。ただし、念のために古代肥前国の彼杵郡家のあった時代から輸入陶磁器があったと言うことではありません。

  大まかに言って人の歴史も、人の住む町も継続して発展してきます。今回のように発掘された須恵器、輸入陶磁器、石鍋などの時代は、それぞれ違っていても元々その町が発展してきた基礎があるからだと思われます。この寿古町周辺の福重地区は、今富町や沖田町を始め縄文・弥生遺跡や遺物が沢山出土する地域です。

  また、先の「2)寿古の地形や地理から考えて」にも書いていますので、ここでは簡略して書きますが、この福重地区は長崎県下有数の平坦地で穀倉地帯(現在でも)
です。この地域以外の県央地域は、どちらかと言いますと広い面積を有する平坦地が少ないので、ここが県央地域の中心地を担っていたのは地理的にも明らかでした。さらに今回ご紹介しました遺物の状況からしても古代肥前国時代頃より、県央地域の中心地(彼杵郡家の役所など)として存在していたことを裏付けるものと思えます。この地が、このように長い発展の歴史があるからこそ、後世に輸入陶磁器なども集まってきたのではないでしょうか。

 今後、「この周辺は、好武城のあった所」と言う説明も、戦国時代に好武城もあった所ですから、決して間違いではないのですが、これからの史跡巡りなどで福重や寿古町にいらっしゃった観光客の方々には、「この好武周辺は、古代肥前国時代から中世時代まで、彼杵郡家とあった所です。こちらが圧倒的に長い歴史があります」との説明も必要になってきたと、私たちは思っています。

須恵器寿古遺跡(大村市寿古町)

(2)須恵器など古代の遺物が多いのは何を意味するのか
 まず、須恵器の説明について、国語辞典の大辞泉を引用します。次の<>内の通りです。  日本古代の灰色の硬質土器。一部轆轤(ろくろ)を利用して作り、穴窯(あながま)を用いて1200度くらいの高温で焼く。朝鮮半島から到来した技術により5世紀に誕生し、平安時代におよんだ。祝部土器(いわいべどき)   

 つまり、上記の年代の頃に朝鮮から伝来してきて、その後各地に普及して日本でも生産された器と言うことです。この須恵器が寿古遺跡から発掘されたのは、一つの注目点ではないかなあと私は思っています。なぜなら、この周辺は中世時代とか戦国時代の好武城ばかりに焦点当てられ話されてきました。

 しかし、このような須恵器が発掘されたと言うことは、この遺跡が、やはり古代肥前国時代も、その後の中世時代も含めて重層的に存在していることを物語っているものと思います。

 あと、これ以降の遺物説明文章及び写真紹介文は、大村市文化振興課の大野氏から頂いた資料を参照して書いています。右写真の須恵器は、奈良〜平安時代の国産器で、どれも杯(つき)と呼称する食器で、つまみのある蓋(ふた)と本体の身で寿古遺跡付近で大量に発掘されています。

 それは、ここで古代に多くの人が詰める場所であったことを示していると言うことです。また、福重地区に珍しい「みくりや(御厨)」姓が多いのは、多くの人の食事を作る場所が付近にあったことに起因している可能性があるそうです。

(3)郡川河口付近に貿易港があり貿易商社があったのでは
 上記(1)に紹介しました報告書には、<古墳時代〜古代の須恵器・土師器、中世輸入陶磁器及び瓦器、石鍋、近世陶磁器が大量に出土した。特に中世遺物は「爆発的に増加する」>、<須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。>と書いてあります。また、後の項目で書く予定の当時、中国人しか使っていないような陶器も発掘されています。

  この寿古遺跡から、なぜ白磁や青磁などが大量発掘されるかについての疑問に対し、前出の大野氏の資料は答えて頂いています。その資料内容を引用しますと、次の< >内の通りです。

白磁・青磁は、中世前半におそらく使うためではなく、商品価値を失った破損品が集積されたものと思われます。大量の石鍋破片とともに、流通商品と考えられますので、当時はそのひとつの集積地であったと考えます。運営の背後には彼杵庄の主であった東福寺(九条家)の交易網があったと思われますし、当地が彼杵庄管理の中心的役割を担ったと考えられます。このふたつの時代が寿古遺跡の最も繁栄した時代でしょう。

中央:郡川本庄淵
本庄淵の右岸:寿古町の好武=彼杵郡家のあった所

 上記の内容は大変分かりやすいので、これ以上補足するのは愚の骨頂みたいですが、これから私の推測も含めて書いていきます。古代肥前国時代、それ以上に中世時代に、ここには中国や朝鮮からの貿易船が郡川河口付近まで来ていた可能性があるのではないでしょうか。そして陶器類などを扱う、現代風に表現すると”貿易商社”みたいなものがあったのではないかと言うことです。

 そこで陸揚げされた陶器類は、当時ここにいた役人も当然購入していたでしょう。さらに、ここから陸路で大宰府、遠くは近畿方面にまで販売されていたのではと言う推測です。陶器類は、壊れやすいものです。当然、長期間かかる海上輸送や陸揚げ途中などで、陶器類が壊れてしまって商品にならない陶器類も出たのではないでしょうか。そのような壊れた陶器類を集積していた可能性もあると言うことです。

 ただ、郡川の河口は上流からの土砂が堆積しやすい所でしょうし、また大村湾は内海で、しかも針尾瀬戸(現在の西海橋の下付近)という難所を通過しなければならない場合もあったでしょうから、そう大きな船ではなかったと思われます。さらに想像たくましくするなら外海付近で積み直して、この県央地域の中心地に小型船で来ていた可能性もあるかもしれません。

 いずれにしても、他の地域であまり出土しない陶器類が、寿古遺跡でたくさん出る要因は、この付近で商品用か何かで陸揚げし、そこから流通させていく一つの拠点だった可能性はあると思われます。

(4)中国製のこね鉢は”誰が”、”何のために”
 まず、右下側写真をご覧願います。無釉陶器(むゆうとうき)と呼ばれているものです。まず、改めて陶器の説明ですが、国語辞典の大辞泉では次の<>内の通りです。<陶器=1)陶磁器のうち、素地(きじ)の焼き締まりが中程度で吸水性があり、釉(うわぐすり)を施した非透光性のもの。土器よりもかたいが、磁器にくらべてやわらかい。2)陶磁器類の総称。焼き物。せともの。> 

 あと、本題の無釉陶器ですが、まず、釉(ゆう)とは先の辞典によれば<釉薬(ゆうやく)。うわぐすり>を指しているようです。それで、無釉陶器(むゆうとうき)とは、うわぐすりを施していない陶器のことです。寿古遺跡から発掘されたこの陶器は、須恵器と同じような質感ですが、無釉陶器と呼称されているそうです。また、これが造られたのは、白磁と同じ中世時代の頃のもので中国製と言うことです。

 この器は何に使用していたかと言いますと、 例えば麦や蕎麦(そば)などの粉を、こねて様々な食品を作った器とも言われています。なお、福岡県の博多遺跡では、唐房(とうぼう、中国人街)が出来始めると、このこね鉢が増加しているそうです。つまり、当時の中国人が日常に使用していた厨房(台所)用品だったと言うことです。

無釉陶器のこね鉢寿古遺跡(大村市寿古町)

 ここからは上野個人の推測ですが、この遺物は当時、ここに中国人街と言う規模の大きな街ほどではなかったとものの、何人かの貿易を主にしていた中国人もいたのではないでしょうか。そして、 こね鉢を使って何かをこねて食べ物を作っていたのかもしれません。

推測だが「寿古町は、長崎県内で”うどん、蕎麦の発祥の地”かもしれない

 さらに想像を深めるなら、このこね鉢で「うどん、蕎麦」を作っていたかもしれません。そうなると長崎県下で初めて「うどん、蕎麦」が中国人によって作られたものとなります。つまり、「寿古町は長崎県で”うどん、蕎麦の発祥の地”」とも呼べるような気もします。

  国語辞典の大辞泉には、<うどん=小麦粉に少量の塩を加え、水でこね、薄く延ばして細く切ったものをゆでた食品。奈良時代に唐から伝えられたという。切り麦。 >、<蕎麦切り=そば粉につなぎを加え、水でこねて薄く延ばし、細く切ったもの。ゆでてつけ汁につけたり、汁をかけたりして食べる。そば。 >と書いてあります。

  うどん、蕎麦の発祥地について、これから少し補足を書きます。福岡県、博多駅前に承天寺(じょうてんじ)と言う寺院があります。ここには「饂飩蕎麦発祥之地(うどんそばはっしょうのち)と言う記念碑があるそうです。これは、承天寺を開山した聖一国師(しょういちこくし)が、鎌倉時代の1241(仁治2)年に中国から日本に戻ってきた時に製粉技術を伝え、饂飩(うどん)、蕎麦(そば)、饅頭(まんじゅう)などを、この当時この地で広めた由来があるようです。

 先の国語辞典には、うどんは「奈良時代に伝わった」と書いてありますが、上記の聖一国師が博多で伝えた年代は鎌倉時代です。ですから、寿古遺跡で発掘された中国製こね鉢(これは中世の頃に作られたと推定)と、作られた年代的は、ほぼ同じ頃と言えます。先に書いた「寿古町は長崎県で”うどん、蕎麦の発祥の地”」という表現は、突拍子もないような推測に思われたかもしれませんが、こね鉢の使われ方や作られた年代からして可能性の高いとも言えるのではないでしょうか。

寿古遺跡の遺物のまとめ
 この項目は、「寿古遺跡の遺物が語るもの」と言う表題で、先に紹介しました遺跡発掘の各報告書を引用・参照して、さらには私の推測も含めて上記(1)(4)まで陶器類のことを中心に、この項目で述べてきました。ここで、(1)(4)と重複した書き方になってしまいますが、極簡単にこの遺物の特徴点を箇条書きにして、併せて何を物語っているのかを再度まとめておきたいと思います。

陶器の天目(お茶を飲むためのもの)、寿古遺跡(大村市寿古町)

・古代から中世時代にかけて重層的に遺物が大量に発掘されていること。
・しかも大村市内の他の地域に例のないような遺物、陶器類であること。
・さらには当時、高級舶来品とも言える青磁、白磁までもが出土していること。
・また、中国人が使っていた器類も出ていること。

 これら寿古遺跡の遺物は、やはり、このページの主題である「彼杵郡家(そのぎぐうけ)寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」からこそ可能とも言えるのではないでしょうか。そして古代から県央地域の中心地だったからこそ、その後の中世時代にも県央地域で広い彼杵庄の主であった東福寺(九条家)の彼杵庄園管理及び交易網につながり、その役割はさらに発展してきたと考えられます。

 なお、寿古町の好武周辺は、まだまだ調査が残っている所も多く、今後、この地域からの新たな発掘や情報も待たれるところです。そうなれば上記の表題や項目が、さらに確かなことになるかもしれません。 (なお、このページとは別に『寿古遺跡』紹介ページ作成も検討しています)

(第一次掲載日:2010年4月16日、第二次掲載日:2010年4月18日、第三次掲載日:2010年4月22日、第四次掲載日:2010年4月24日)、第五次掲載日:2010年4月27日、第六次掲載日:2010年4月30日)
4)

(現在、原稿準備中、しばらくお待ち下さい)

5)

(現在、原稿準備中、しばらくお待ち下さい)

あとがき

(現在、原稿準備中、しばらくお待ち下さい)

 
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