3)寿古遺跡の遺物が語るもの
右上側から2枚の遺物写真は、大村市立史料館・企画展 歴史の缶づめ(2009年7月26日〜9月30日)が開催された後の10月2日に許可を頂き撮影したものです。3番目以降の写真は、資料整理室で2009年8月5日に撮影したものです。あと、この項目の文章を書くに当たって、寿古遺跡(県営圃場整備事業福重地区にかかる遺跡発掘調査報告、大村市文化財保護協会1992年3月発行)、黒丸遺跡ほか発掘調査概報Vol.5 (大村市教育委員会2005年3月発行)などを引用、参照しています。また、大村の郷土史について福重で2回 (2007年2月10日と同年3月28日) 講演や現地説明をして頂いた大村市文化振興課の大野氏の講演内容を参照しています。
ただし、この報告書や講演内容を引用・参照もしていますが、今回の彼杵郡家紹介ページは、寿古遺跡から発掘された遺物を専門に紹介するページではありませんので、各調査報告の主旨を変えない範囲内で出来るだけ分かりやすい見出しや内容にしています。さらに全ての遺物を紹介していませんので、これらの点はあらかじめ、ご了承願います。
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寿古遺跡、輸入陶磁器(青磁)(大村市寿古町)
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また、いちいち、お断りを書くほどではないかもしれませんが、このような陶磁器は、最初から日本ではできませんでした。日本の壷や食器類は、縄文土器や弥生土器でも、ご存じの通り最初は土器でした。その後、朝鮮半島の輸入や影響を受け、須恵器が作られるようになったと言われています
それよりも後世になって陶器は、中国や朝鮮から輸入されるようになりました。そして、いつ頃から日本で陶器が作られたか、私は詳細不明ながら桃山時代頃から作られたとも言われているようです。つまり、今回取り上げている寿古遺跡発掘の青磁や白磁などは、この当時の輸入品ばかりであることを事前に、ご承知の上、ご覧願います。
(1)戦国時代以前の輸入陶器が大量に出土した
まず、やや引用が長くなりますが、黒丸遺跡ほか発掘調査概報Vol.5 (大村市教育委員会2005年3月発行)23ページから24ページの関係部分を次の<>内の通り、ご紹介します。
< (前略) 好武城外縁に広がる寿古遺跡では、圃場整備に伴う発掘調査が実施されている(大村市文化財保護協会1992)。特に好武城西辺及び北辺付近の調査区において、古墳時代〜古代の須恵器・土師器、中世輸入陶磁器及び瓦器、石鍋、近世陶磁器が大量に出土した。特に中世遺物は「爆発的に増加する」と報告されるほどである。報告ではそれを「好武城」の成立に伴うとしている。史料による好武城の築城は具体的ではないものの、せいぜい戦国初期頃までしか遡ることはできな い。したがって中世前期の「好武城」を想定しなければならない。これについて満井録郎は「本城」地名を「本荘」とし、九条家領彼杵本荘における惣政所代所と述べた(満井1987)。発掘調査では多量の未使用石鍋が出土しているが、そのような状況は木戸雅寿によると、荘園を通じた中央の権門と深く関係するといい(木戸1993)、満井説を補強するものである。 (後略) >
上記と同じ報告書28ページの総括部分に次の<>内のことが書かれていますので引用します。ただし、下線=アンダーラインは上野が付けました。こちらの方が、寿古遺跡の遺物の概要を知る上で簡潔ながら私のような素人には分かりやすいものです。
< (前略) 須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。 好武城及び寿古遺跡の状況はきわめて特殊であり、当該期における遺跡の性格は、自ずと当地域 における特殊な場として考える必要がある。 (後略) >
上記、報告書からの二つの<>内を参照して、大まかな遺物の状況をまとめて見出しを付けますと先に書いています通り、「戦国時代以前の輸入陶器が大量に出土した」となります。このことは何を意味するのでしょうか。また、慎重な言い回しですが、「当地域 における特殊な場」とは、何を表現されようとしているのでしょうか。
今まで、この寿古町の好武付近は、大村郷村記にも好武城の記述もありますし、どちらかと言いますと戦国時代の、この城が方が有名でした。私たち福重の者も、異口同音に「この周辺は、好武城のあった所」と観光客の方へも、今まで説明を繰り返していました。
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寿古遺跡、輸入陶磁器(白磁)(大村市寿古町)
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しかし、上記の遺物説明文章でもお分かりの通り、戦国時代の遺物の出土は少なく、それ(戦国時代)以前の須恵器、輸入陶磁器、石鍋などが大量に出ていると言うことです。しかも、輸入陶磁器と言えば当時は、高級品です。一般庶民が簡単に買える物ではなかったものとも思えます。このような高級品を買える財力のある人は、どのような人だったろうかと言うことです。
それは、当時の長崎県央地域を管理、支配していた役人とか彼杵庄園管理の役人、あるいは商売などで成功した人達が住んでいた思われます。つまり、この発掘された遺物は、寿古町の好武周辺に古代から長崎県央地域の役所(県央地域の中心地)があったことを意味しているのではないでしょうか。ただし、念のために古代肥前国の彼杵郡家のあった時代から輸入陶磁器があったと言うことではありません。
大まかに言って人の歴史も、人の住む町も継続して発展してきます。今回のように発掘された須恵器、輸入陶磁器、石鍋などの時代は、それぞれ違っていても元々その町が発展してきた基礎があるからだと思われます。この寿古町周辺の福重地区は、今富町や沖田町を始め縄文・弥生遺跡や遺物が沢山出土する地域です。
また、先の「2)寿古の地形や地理から考えて」にも書いていますので、ここでは簡略して書きますが、この福重地区は長崎県下有数の平坦地で穀倉地帯(現在でも)です。この地域以外の県央地域は、どちらかと言いますと広い面積を有する平坦地が少ないので、ここが県央地域の中心地を担っていたのは地理的にも明らかでした。さらに今回ご紹介しました遺物の状況からしても古代肥前国時代頃より、県央地域の中心地(彼杵郡家の役所など)として存在していたことを裏付けるものと思えます。この地が、このように長い発展の歴史があるからこそ、後世に輸入陶磁器なども集まってきたのではないでしょうか。
今後、「この周辺は、好武城のあった所」と言う説明も、戦国時代に好武城もあった所ですから、決して間違いではないのですが、これからの史跡巡りなどで福重や寿古町にいらっしゃった観光客の方々には、「この好武周辺は、古代肥前国時代から中世時代まで、彼杵郡家とあった所です。こちらが圧倒的に長い歴史があります」との説明も必要になってきたと、私たちは思っています。
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須恵器、寿古遺跡(大村市寿古町)
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(2)須恵器など古代の遺物が多いのは何を意味するのか
まず、須恵器の説明について、国語辞典の大辞泉を引用します。次の<>内の通りです。 < 日本古代の灰色の硬質土器。一部轆轤(ろくろ)を利用して作り、穴窯(あながま)を用いて1200度くらいの高温で焼く。朝鮮半島から到来した技術により5世紀に誕生し、平安時代におよんだ。祝部土器(いわいべどき) >
つまり、上記の年代の頃に朝鮮から伝来してきて、その後各地に普及して日本でも生産された器と言うことです。この須恵器が寿古遺跡から発掘されたのは、一つの注目点ではないかなあと私は思っています。なぜなら、この周辺は中世時代とか戦国時代の好武城ばかりに焦点当てられ話されてきました。
しかし、このような須恵器が発掘されたと言うことは、この遺跡が、やはり古代肥前国時代も、その後の中世時代も含めて重層的に存在していることを物語っているものと思います。
あと、これ以降の遺物説明文章及び写真紹介文は、大村市文化振興課の大野氏から頂いた資料を参照して書いています。右写真の須恵器は、奈良〜平安時代の国産器で、どれも杯(つき)と呼称する食器で、つまみのある蓋(ふた)と本体の身で寿古遺跡付近で大量に発掘されています。
それは、ここで古代に多くの人が詰める場所であったことを示していると言うことです。また、福重地区に珍しい「みくりや(御厨)」姓が多いのは、多くの人の食事を作る場所が付近にあったことに起因している可能性があるそうです。
(3)郡川河口付近に貿易港があり貿易商社があったのでは
上記(1)に紹介しました報告書には、<古墳時代〜古代の須恵器・土師器、中世輸入陶磁器及び瓦器、石鍋、近世陶磁器が大量に出土した。特に中世遺物は「爆発的に増加する」>、<須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。>と書いてあります。また、後の項目で書く予定の当時、中国人しか使っていないような陶器も発掘されています。
この寿古遺跡から、なぜ白磁や青磁などが大量発掘されるかについての疑問に対し、前出の大野氏の資料は答えて頂いています。その資料内容を引用しますと、次の< >内の通りです。
<白磁・青磁は、中世前半におそらく使うためではなく、商品価値を失った破損品が集積されたものと思われます。大量の石鍋破片とともに、流通商品と考えられますので、当時はそのひとつの集積地であったと考えます。運営の背後には彼杵庄の主であった東福寺(九条家)の交易網があったと思われますし、当地が彼杵庄管理の中心的役割を担ったと考えられます。このふたつの時代が寿古遺跡の最も繁栄した時代でしょう。>
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中央:郡川と本庄淵
本庄淵の右岸:寿古町の好武=彼杵郡家のあった所
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上記の内容は大変分かりやすいので、これ以上補足するのは愚の骨頂みたいですが、これから私の推測も含めて書いていきます。古代肥前国時代、それ以上に中世時代に、ここには中国や朝鮮からの貿易船が郡川河口付近まで来ていた可能性があるのではないでしょうか。そして陶器類などを扱う、現代風に表現すると”貿易商社”みたいなものがあったのではないかと言うことです。
そこで陸揚げされた陶器類は、当時ここにいた役人も当然購入していたでしょう。さらに、ここから陸路で大宰府、遠くは近畿方面にまで販売されていたのではと言う推測です。陶器類は、壊れやすいものです。当然、長期間かかる海上輸送や陸揚げ途中などで、陶器類が壊れてしまって商品にならない陶器類も出たのではないでしょうか。そのような壊れた陶器類を集積していた可能性もあると言うことです。
ただ、郡川の河口は上流からの土砂が堆積しやすい所でしょうし、また大村湾は内海で、しかも針尾瀬戸(現在の西海橋の下付近)という難所を通過しなければならない場合もあったでしょうから、そう大きな船ではなかったと思われます。さらに想像たくましくするなら外海付近で積み直して、この県央地域の中心地に小型船で来ていた可能性もあるかもしれません。
いずれにしても、他の地域であまり出土しない陶器類が、寿古遺跡でたくさん出る要因は、この付近で商品用か何かで陸揚げし、そこから流通させていく一つの拠点だった可能性はあると思われます。
(4)中国製のこね鉢は”誰が”、”何のために”
まず、右下側写真をご覧願います。無釉陶器(むゆうとうき)と呼ばれているものです。まず、改めて陶器の説明ですが、国語辞典の大辞泉では次の<>内の通りです。<陶器=1)陶磁器のうち、素地(きじ)の焼き締まりが中程度で吸水性があり、釉(うわぐすり)を施した非透光性のもの。土器よりもかたいが、磁器にくらべてやわらかい。2)陶磁器類の総称。焼き物。せともの。>
あと、本題の無釉陶器ですが、まず、釉(ゆう)とは先の辞典によれば<釉薬(ゆうやく)。うわぐすり>を指しているようです。それで、無釉陶器(むゆうとうき)とは、うわぐすりを施していない陶器のことです。寿古遺跡から発掘されたこの陶器は、須恵器と同じような質感ですが、無釉陶器と呼称されているそうです。また、これが造られたのは、白磁と同じ中世時代の頃のもので中国製と言うことです。
この器は何に使用していたかと言いますと、 例えば麦や蕎麦(そば)などの粉を、こねて様々な食品を作った器とも言われています。なお、福岡県の博多遺跡では、唐房(とうぼう、中国人街)が出来始めると、このこね鉢が増加しているそうです。つまり、当時の中国人が日常に使用していた厨房(台所)用品だったと言うことです。
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無釉陶器のこね鉢、寿古遺跡(大村市寿古町)
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ここからは上野個人の推測ですが、この遺物は当時、ここに中国人街と言う規模の大きな街ほどではなかったとものの、何人かの貿易を主にしていた中国人もいたのではないでしょうか。そして、
こね鉢を使って何かをこねて食べ物を作っていたのかもしれません。
推測だが「寿古町は、長崎県内で”うどん、蕎麦の発祥の地”かもしれない
さらに想像を深めるなら、このこね鉢で「うどん、蕎麦」を作っていたかもしれません。そうなると長崎県下で初めて「うどん、蕎麦」が中国人によって作られたものとなります。つまり、「寿古町は長崎県で”うどん、蕎麦の発祥の地”」とも呼べるような気もします。
国語辞典の大辞泉には、<うどん=小麦粉に少量の塩を加え、水でこね、薄く延ばして細く切ったものをゆでた食品。奈良時代に唐から伝えられたという。切り麦。 >、<蕎麦切り=そば粉につなぎを加え、水でこねて薄く延ばし、細く切ったもの。ゆでてつけ汁につけたり、汁をかけたりして食べる。そば。 >と書いてあります。
うどん、蕎麦の発祥地について、これから少し補足を書きます。福岡県、博多駅前に承天寺(じょうてんじ)と言う寺院があります。ここには「饂飩蕎麦発祥之地(うどんそばはっしょうのち)と言う記念碑があるそうです。これは、承天寺を開山した聖一国師(しょういちこくし)が、鎌倉時代の1241(仁治2)年に中国から日本に戻ってきた時に製粉技術を伝え、饂飩(うどん)、蕎麦(そば)、饅頭(まんじゅう)などを、この当時この地で広めた由来があるようです。
先の国語辞典には、うどんは「奈良時代に伝わった」と書いてありますが、上記の聖一国師が博多で伝えた年代は鎌倉時代です。ですから、寿古遺跡で発掘された中国製こね鉢(これは中世の頃に作られたと推定)と、作られた年代的は、ほぼ同じ頃と言えます。先に書いた「寿古町は長崎県で”うどん、蕎麦の発祥の地”」という表現は、突拍子もないような推測に思われたかもしれませんが、こね鉢の使われ方や作られた年代からして可能性の高いとも言えるのではないでしょうか。
寿古遺跡の遺物のまとめ
この項目は、「寿古遺跡の遺物が語るもの」と言う表題で、先に紹介しました遺跡発掘の各報告書を引用・参照して、さらには私の推測も含めて上記(1)〜(4)まで陶器類のことを中心に、この項目で述べてきました。ここで、(1)〜(4)と重複した書き方になってしまいますが、極簡単にこの遺物の特徴点を箇条書きにして、併せて何を物語っているのかを再度まとめておきたいと思います。
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陶器の天目(お茶を飲むためのもの)、寿古遺跡(大村市寿古町)
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・古代から中世時代にかけて重層的に遺物が大量に発掘されていること。
・しかも大村市内の他の地域に例のないような遺物、陶器類であること。
・さらには当時、高級舶来品とも言える青磁、白磁までもが出土していること。
・また、中国人が使っていた器類も出ていること。
これら寿古遺跡の遺物は、やはり、このページの主題である「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」からこそ可能とも言えるのではないでしょうか。そして古代から県央地域の中心地だったからこそ、その後の中世時代にも県央地域で広い彼杵庄の主であった東福寺(九条家)の彼杵庄園管理及び交易網につながり、その役割はさらに発展してきたと考えられます。
なお、寿古町の好武周辺は、まだまだ調査が残っている所も多く、今後、この地域からの新たな発掘や情報も待たれるところです。そうなれば上記の表題や項目が、さらに確かなことになるかもしれません。 (なお、このページとは別に『寿古遺跡』紹介ページ作成も検討しています)
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