お殿様の偽装 |
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22)おおむら浪漫2 |
大村の歴史を考えるシリーズ |
お殿様の偽装
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追加文その1、大村市総合計画 |
追加文その1、大村市総合計画
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この大村の歴史を考えるシリーズ、『お殿様の偽装』は、今春4月15日最初の連載を開始し、既に『あとがき』も6月9日に載せていました。しかし、また今回このようにして「追加の文章、(第4次)大村市総合計画」を書かざるを得なくなりました。 なぜかの理由は後で書きますが、まず、この計画の年度などについて触れます。この第4次大村市総合計画は元々先にあった第3次総合計画(2005年度が目標年度)の次に立案されたもので今年2006年度から2015年度までの計画です。 その第4次大村市総合計画を立案するために数年前から相当準備されていました。その一環として大村市民の中からも(けっこうユニークな名前の付いた専門部会なども含め)百人委員会のメンバーも選出され、かなりの時間を費やし熱心に議論されたと聞きました。 果たして参加された方々の意見をもとに作成された百人委員会の提言は、この総合計画に反映されたのでしょうか。(念のため、この件の全体評価・分析は今回の大村の歴史を考えるシリーズではまとめ切れませんので、このページにはこれ以上述べません) また、2005年度にはパブリックコメットなどもおこなわれ、その極一部について既に今回の大村の歴史を考えるシリーズ『お殿様の偽装』の「なぜ、この問題を取り上げたのか、その1、「2005年のパブリックコメント」などに書いた通りです。 この中で何人かの市民の方からの意見として<概要「大村千年の歴史」は何の根拠もないのでおかしいから、やめて欲しい>などが出されていました。それに対して大村市側からの意見は、既にご紹介した通り従来見解と変わりませんでした。 そのような経緯から今春発表された第4次大村市総合計画に書かれている記述は最初から、この部分のみに限定して考えるるなら予想がつくものでした。(念のため、インターネット版は7月10日 第4次総合計画「基本構想」PDF版として掲載されました)私は今春出されていた計画を知らないまま、このシリーズを書いていましたので大変遅くなりましたが、そのことについて今回追加文としてページを作成しています。 まず、下記の「(第4次)大村市総合計画、基本構想第3章 背景 3.1大村市のあゆみ」(一部分のみ)をご覧下さい。(注:赤い線や文字は筆者が分かりやすく書いたもので、下図の部分以外の前後は総て省略したものです。ただし、(1)の文章については別途下記に書いています)
この「大村千年の歴史」と言う記述は、既に今回のこのシリーズで何回も「偽装中の偽装」とか「極め付けの偽装表現」などと書いてきました。(詳細は、次の<大村の偽装の歴史や表現一覧表>からご覧下さい)既にご覧になられた方は、ご存知の通り上記の大村市総合計画に書かれてある表現は、正しい大村の歴史から見れば二重三重の間違い記述です。
他のページと同じ記述の繰り返しになりますが、上記の黒いアンダーライン=上図の赤い線や文字部分などの間違い記述などを再度簡単に下記に列挙しておきます。 間違い記述と正しい歴史など 1)大村氏は四国からではなく、正しくは佐賀県藤津郡あたりから来た。 2)藤原姓ではなく、平姓である。 3)「994年に大村に来た」証拠の裏付け史料(資料)は、何一つない。 4)佐賀から来た大村氏は最初から現在の大村市全体を支配した訳ではなく、たとえ仮に平安時代末期か鎌倉時代初期に別の大村氏が存在していたと仮定しても、当時の大村には京都の寺院などの荘園も1396年前まであり、さらに大村氏以外の豪族もいくつか存在していたので支配地域も大きくはなかった。 また、「大村純伊」と同一人物と言われている大村純治が佐賀から来て本拠地を(現在の寿古町)好武城に移した1507年頃から(それまで存在していた別の”大村氏”に取って変って)大村全体を支配と言われている。いくつか大村に存在していた豪族や大村氏が支配した説に従えば、正しくは大村氏による全体統治は「千年」どころか半分か長くても600年位ではないか。 5)玖島城(大村城)の築城は1599年だから実際の城下町形成はさらに後で城下町自体の歴史は400年ならないであろう。現在の大村中心地(さらにその一部)のみを「城下町としての発展」と見るなら大きな間違いはないが、広い大村市全体の規模を歴史上から見るなら、果たして、この表現のみで納まるのか。 6)上記の18代大村純忠の「18代」は1)から4)のことから、初代自体が偽装なので2代目以降も、当然「18代」の表現も間違いである。 7)「大村千年の歴史」は総合計画には間違いや偽装とは言え一応「大村氏による伝統的な統治」と書いてあるが、この「大村千年の歴史」の言葉は”独り歩き”しやすい表現である。実際マスコミ、書籍、ホームページ類では、「大村氏の統治」を省略して「大村千年の歴史」(=「大村の人や町の歴史が千年」と言う意味になっている)となり、さらに一般には大村の歴史は「約千年間くらいしかない」と誤解されている。この「大村千年の歴史」の言葉は、何一つ根拠がないばかりか、間違いを助長する表現とも思える。 本当は長い歴史があるのに、なぜ矮小化するのか あと、総合計画に書かれてある(2)の前の(1)には、下記(薄い黄色の背景枠)の通りの文章が書いてあります。
この(1)の記述は、ほぼ正確と思われます。この(1)の後に先(上図)の「(2)城下町としての発展」と言う項目が続くのです。なのに何故、極めつけの偽装と言われる「大村千年の歴史」と表現するのか、全く理解できないものです。
今富町の岩名遺跡(約8000年前)、黒丸遺跡(約2500年前)などの史料は、私達の目に直接見る機会は、ほとんどありません。でも、例えば今富の黄金山古墳や小路口の鬼の穴古墳(いずれも4世紀頃の古墳時代のもの)または沖田町の「沖田条理制」の田んぼは大化の改新(645年)前後からあるもので、この3箇所とも自家用車の上からも直ぐどこにあるかぐらいは確認できるものです。 そのような大村の長い歴史を証明できるのが現存しているのに何の根拠もない偽装の「大村千年の歴史」と言う表現で、正しい歴史の期間さえも矮小化するのは、二重三重の間違いで本来すべきでない表現です。 世の数多くの本や文章の中で前後にいくらいいことが書いてあっても、わずか数行の文章のおかげで全体疑われるような、品位さえも落すような表現もあろうかと思います。この偽装極めつけの表現「大村千年の歴史」の書き方をするなら、結局同じように見られてしまわないでしょうか。 これらの偽装の歴史の指摘は、私のような素人ではなく、参考文献、本、書籍一覧表に掲載しました通り遅くても1970年から1980年代に大村史談会の先生方や長崎県の歴史に詳しい学者さんたちによって”決着済み”だったはずです。 また、既に掲載しています<正々堂々と正して欲しい>ページにも書きましたが。大村氏の子孫の方さえも、今春発行された『大村史談第五十七号』に「大村千年の歴史」などの呼び方について『これは止めるべきである。』と提言されておられることも、改めて掲載しておきたいと思います。 この解決策は全面削除と改訂しかない 2006年度から2015年度までの大村市総合計画は、現在及びこれからの市の規範的な計画と言えます。また、この計画をもとに”歴史観光立市”を本格化すると言うのであれば、市民だけでなく大村市以外の方にも市中に出回っている資料などによって、注目もされるでしょう。 また、観光客の中には大村市設置の大村市指定史跡案内板の寺島など(書かれてある内容は、偽装の歴史に基づくもの)に足を運んで見られる方もいらっしゃるかもしれません。 以上今回述べてきたように大事な大村市の計画や方針が、わすか数行とは言え(長年学者さんや今回市民の方まで指摘されているにも関わらず)偽装の歴史をそのまま堂々と書いてある大村市総合計画は、やはりおかしいと思います。これ以上書きますと先に掲載したページと完全に重複しますので省略したいと思います。 やはり、これらの解決策は先のページ『正々堂々と正して欲しい』に書いた通り、1)「大村千年の歴史」関係と、2)「大村純伊」関係の記述全ての全面削除と改訂しかないと思われます。 このシリーズで繰り返し何回も書いてきましたが、色々な考えや立場があろうとも、これから大村に来られる観光客のため、これから郷土史を学ぼうとされている学生さんや市民のためにと言う一点に絞って、改めて再度、上記の2項目の全面削除と全面改訂をお願いするものです。 (掲載日:2006年8月1日)
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