」について、感想を頂いたり、あるいは、この件を論議した方とのやり取りで、いくつかご質問や疑問などもありましたので、下表にまとめました。Q&A形式なので、概要しか書けませんが、不足分は他のページも含めて閲覧して頂ければなあと思っています。なお、このQ&Aページは、追加項目もありますので不定期ながら、その都度増やしていこうと考えています。
Q1:
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このようなことは始めて聞いた。今回初めて書いたのか? |
A1:
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いえ、ずっと以前から先生方が書かれていることばかりです。(詳細は、書籍一覧表をご参照を)
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Q2:
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歴史は書かれる方によって立場も違うから、文章表現も変わってくるからではないか? |
A2:
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確かに例えば親戚や子孫が書かれた場合など、いい側面を過大に書いて、悪かった面は過少にまとめられる傾向がない訳ではありません。しかし、本件問題は、過大か過少のレベルではなく、偽装か偽装でないかの問題です。現代の記述ですから、過去の事実や真実に沿って書けば、今回のようことは起こるはずがありません。
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Q3:
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偽装の系図や歴史は、どこの市や町でもあるから、少しくらいは止むを得ないじゃないか? |
A3:
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史料などがなくて今では分からなくなっている事項は止むを得ない場合もあるかもしれません。でも、大村の場合は、ちゃんと市内外に史料もあり、分析も判明もしていることばかりですから、事実に沿って歴史を書くのが必要かと思います。
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Q4:
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なぜ、今回ホームページまで書いて取り上げたのか? |
A4:
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大村市に来られる観光客の方、郷土史に関心のある学生さんや市民の方に一つの情報提供と思い作成しました。(詳細は、はじめに、なぜ、この問題を取り上げたのか、その1、なぜ、この問題を取り上げたのか、その2をご覧下さい)
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Q5:
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「大村千年の歴史」を、なぜ”偽装中の偽装”=”極めつけの偽装”と表現しているか? |
A5:
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全く史実で確認されていないのに「大村氏は994年に四国から大村に来た」として、この表現をもって大村氏統治の歴史のスタート(=まるでここから大村の歴史は始まったような記述)みたいにしています。現在も大村市は2005年のパブリックコメントにこの表現を使い、同様に長崎県のある新聞社も全く同じように2005年に使っていました。大村での人の歴史は野岳湖に石器時代の遺跡もあり、郡地区(松原、福重、竹松)には縄文・弥生時代の多くの遺跡や古墳があります。大村の正しい歴史からも、いまだにこの表現を使用するのは二重三重の歴史の偽装です。
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Q6:
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「大村純伊」関係の「合戦」、「領地回復」説などを、なぜ、”偽装の双璧”と表現しているのか? |
A6:
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詳細は既に大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2に書いた通りですが、過少も過大も書く必要のない佐賀側の史料は使用せずに、史実で証明されていない大村側の史料のみで描き出していて、それは上記の「大村千年の歴史」と同様に”偽装中の偽装”だからです。また、大村寿司や郡三踊りなど全国的にも有名な事柄も多いので、さらに問題が大きいと思われます。
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Q7:
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学校でも、このようなことを教えているのか? |
A7:
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この件は不明です。必須科目でもないでしょうから。私が学生時代(約40年前)は歴史などの授業中、大村のことも教えて頂きましたが、そのような郷土史を学ぶ時間は、今はあんまりないのではないでしょうか。たとえ、あっても正しい書籍類がないので、教えようがないと思われます。また、市内の案内板の所に見学や遠足その他で先生が引率された時には、(偽装の歴史の案内板もありますが)そこに書かれてある内容を読んで教えるしかないと思われます。
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Q8:
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江戸時代の大村藩が系図や歴史を偽装したのは、止むを得なかったのではないか? |
A8:
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私が問題にしているのは江戸時代のことではなく現代のことです。大村藩がその当時ひとつのサバイバルとして色々と真実でないことを書いたのは止むを得ない事情があったと思います。(このことの詳細は<江戸時代に偽装され大村氏系図>をご参照下さい)そのことが明確に偽装と分かった時点(書籍一覧表参照)からも、現在に至るまで公的機関が同じ歴史記述を継続しているのは、すべきではないと考えています。だからこそ他の市民の方も同様の意見を2005年のパブリックコメントに向けて出しておられるのです。
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