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お殿様の偽装
22)おおむら浪漫2
大村の歴史を考えるシリーズ
お殿様の偽装
大村純治、その2

大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2
虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還
(このページは、『福重のあゆみ』に掲載中の記述も再録しながら、新たに加えたことも含めて書いていきたいと思います)

 江戸時代大村藩が偽装した歴史によりますと、<「大村純伊」は文明6年(1474年)に島原の有馬氏に攻め込まれ、萱瀬の中岳の合戦で大敗し、萱瀬〜郡岳〜松原〜早岐と逃れ、最後は唐津沖の加々良島(かからじま)に隠れた。>

 <6年間の流浪の後、佐賀の諸氏の加勢を受けて文明12年(1480年)、大村を奪還した。> <地元郡村の住民は須古踊(すこおどり)、沖田踊、黒丸踊を踊って歓迎した。純伊も顔を隠して須古踊の輪の中に入って踊った。>と記述されています。

 しかし、この「大村純伊」の敗戦〜流浪〜領地奪還話は、辻褄が合わないことが多い上に、大村側の史料と合致する資料が負けた相手の有馬にも、加勢したとされる佐賀側にもなく、これも系図同様に偽装と思われます。

今では次の4説が考えられています。
1)佐賀藤津郡の大村氏の敗戦話を大村での話とした。(藤津郡の大村氏は数回、領土を奪われている)
2)数回の敗戦を1回の敗戦としたことが矛盾の原因である。藤津郡で1474〜1507年の間に数回領地を追われたのではないか。
3)30年ほど後にずらすと佐賀側の史料とも合致する点がある。
4)大村純治と「大村純伊」は同一人物である。(大村氏の領地回復を助けたとされる佐賀の渋江氏は1507年に大村純治を本領に帰らせたとしている)

 もう少し補足しますと、大村藩史料の書き出しは(普通は自分の敗戦のことはあまり書かなくて、むしろ勝ったことや誇らしげなことを書くのが通例ですが)、逆に敗北したことをこまめに書き出しています。

 その結果、「(本当は佐賀側で敗戦して徘徊していたにもかかわらず)いかにも、大村領内で1回のみの敗戦」にして、あとは「逆転大勝利」で「大村純伊」のことをまるで「凱旋大将軍」のように描き出しているのです。

 つまり、敗戦は隠せないし書かざるを得ないから1回のみにしておいて、「領地回復」=「凱旋大将軍」を派手に演出し、総てこれが「新スタート」みたいに描いているのです。そのために、最初から地元の人が大事に守り育ててきた郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)をその時の戦勝祝い踊りとし、また同様に地元の方が食べていた郷土料理=大村寿し(角寿し)を、まるでその時にできたかのごとく、偽装しているのです。

 前のページで、ほぼ同様のことを既に書いていますが、もう一度下表を参考に新たな記述も含めて書きます。

1)”偽装の歴史”では、大村純治の次の代の「大村純伊」は、上記の記述通り1474(文明 6)年に「中岳の合戦」をしたことになっています。しかし下表との対比では、それよりもはるか後の40年後の永正年間でも「お父さんの純治」は、まだまだ佐賀藤津郡の本領回復に向けて、奮戦中です。「当時だから年代の間違いもある程度あったのでは」と言うレベルではないような気がします。

2)「中岳の合戦」は史実ではないと言われていますが、”偽装の歴史”に従い仮にあったこととします。しかし、この合戦については、勝った側の佐賀の記録は何もないと言われています。自分が敗戦したことを隠したり、過少に書いた史料はいくつもあるそうです。しかし、この「中岳の合戦」は勝った側が何ら隠す必要のない、むしろ”大勝利”など誇大・誇張して書いてもいいはずです。なにしろ平野部の多い穀倉地帯の彼杵・大村を手に入れたのですから。その記述が全くないのは、やはり、この「中岳の合戦」は史実になかったからではないでしょうか。

3)下表(上から3番目)にも渋江氏が大村純治に加勢したこと(結果、大村氏は一時期、藤津郡の本領に戻った)を書いています。これと似たことで”偽装の歴史”では次の代と言われている「大村純伊」が、その約30年前の「1480年」に同じように加勢してもらって、「大村の本領回復した」 と同じような記述はしてるのです。

 このような記述は、やはり佐賀での出来事をいかにも「大村で起こった出来事」のようにしている創作話の手法と言われても仕方ない描き方だと思います。それと同時に、年月のズレは若干あるものの”偽装の歴史”でも真似して書くくらいですから、逆に考えれば、この表に書かれているのは、やはり史実とも思えます。



 「大村純伊」に関する事項については、外山幹夫氏の論文『大村純伊文明六年敗戦記事の虚構性 −とくに「平家物語」との関係について』(大村史談会発行、大村史談第二十号)に詳細にわたり書いておられます。特に、この論文の中で、<大村氏の敗走記事異同表> と <大村氏の大村奪回記事異同表>は、実際は佐賀側起こったことと、「大村側で起こった」事例の対比が表になっており、私の様な素人にも分りやすいものです。

 このページ、どうしても概要のみしか書けませんので、さらに詳細に「大村純伊」に関する事項を知りたい方は、上記で紹介しています論文をご覧下さい。

室町時代の優雅な寿古踊(大村市寿古町)
優美で古雅な沖田踊(大村市沖田町)
大花篭が舞う華麗な黒丸踊(大村市黒丸町)
郡三踊は法養が年月かけて教えのでは
 ”偽装の歴史”に大村の事項で全国的にも有名な郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)や大村寿し(角ずし)が「大村純伊」と関連付けて書かれていますので、少し触れたいと思います。ただし、このページはテーマが違うので詳細に書けませんが、次の通りと思われます。

 郡三踊は「大村純伊」とは全く関係ない時期に中国浪人法養が地元民に教えたもので、さらに民族芸能学の学者さんによると、戦勝踊りではなく神事芸能踊り(神社など神様に奉納する踊り)とも言われています。

 一説によると、踊りを教えた法養は応仁の乱(1467年〜1477年)の時、京都から中国地方に逃れたお公家さんではないかとの説もあります。また、他の須古踊(大村の寿古踊も、江戸時代まで旧称は須古踊だった)を紹介しておられるホームページには「京都の踊りの流れではないか」との説を書いておられました。

 郡三踊とも「殿様が戦に勝って戻ってきたから、さあ、祝いに踊ろう」と言うそんな踊りではなく、もっと格式のある踊りではないかと言うことです。私も何回か三踊りを見ましたし、地元の方にもお聞きすると、踊りの上演日程が決まると何か月も前から練習重ねて踊られています。

 これからは、あくまでも私の想像です。たぶんに(室町時代の)応仁の乱(1467年〜1477年)の頃かその後に、京都、中国地方から佐賀の須古村さらには(当時大村の中心地だった)大村の郡村に来た法養が、これらの踊りにそれまで無縁だった地元の方に、かなりの年月をかけて教えたのではないでしょうか。

 だからこそ、そのお礼の意味で法養田と言う田んぼまで与えたのではないでしょうか。簡単に覚えられる踊りなら地元から果たして、そこまでしたでしょうか。

 史実とは違いますが仮に「殿様が戦で勝って帰還した」として、果たして三踊りいっぺんに法養が寿古(当時は須古)、沖田、黒丸の地元民に教えたのでしょうか。また、地理的にも沖田と黒丸は隣同士ですが、寿古は郡川を当時は歩いて渡っていたはずです。そもそも法養は「殿様帰還」の時、本当にタイミング良く大村にいたのでしょうか。やはり、「殿様帰還時の戦勝祝い踊り」説には、無理があると思います。

大村寿し(角寿し)は「大村純伊」とは関係なし
 大村寿し(角ずし)の由来は、従来「大村純伊」の領地回復と関連付けて書かれていましたが、以上述べてきた事項から、その説も偽装と思われます。実は、郡三踊りを教えた法養が大村に来る前にいた佐賀の須古村(現在、白石町須古地区)に、ほぼそっくりの”須古寿司”があります。

 ただし、この寿司同士が関係あるかないか、不明です。いずれにしても、郡三踊りと大村寿司も郷土の方が500年以上の長きにわたり守り育ててきたことには違いありません。

 このようなことから「大村純伊」に関する事項が虚構・偽装となると、江戸時代大村藩が既に最初から郡村にあった郡三踊りと大村寿司をお殿様の箔付けに使って記述したのではないでしょうか。

お殿様は偽装できても家来まではできなかった
 (この項は、外山幹夫氏の上記の論文を参照)また、大村藩には、家来について書かれた史料もありました。それによると、同じ名前の家来が、この「大村純伊」の「中岳の合戦」にも参加し、その後さらに約80年後の大村純忠時代にも大村藩の幹部として仕えたことになるそうです。もしも、このことがふたつとも「事実」なら、たとえ元服(成人)直後で合戦に参加しても、90歳位の老臣でその後も(現役バリバリで)領国の管理運営をしなければ、年代的に成立たなくなることを指摘されています。

 つまり、江戸時代大村藩が編纂した「大村純伊」に関する事項は、お殿様の偽装はできても、家来の年齢まで偽装できなかったと思われます。私の個人的な感想ながら、この論文や先にご紹介しました五輪塔地輪を見た時、昔からある言葉で「策士策に溺れる」、「策を弄する者は策に溺れる」の意味を思い出しました。

 以上のように江戸時代大村藩によって偽装された歴史では、「大村純伊」について華々しく、これでもかと言うくらい微にいり細にいり書かれている人物です。見方によれば、そのストーリーは、まるで作られた大型時代絵巻かテレビの大河ドラマのようです。

 逆にそれは、大村氏が(平性であり)佐賀での幾多の敗戦・徘徊を隠し、「藤原家の子孫で四国から来て、ずっと大村にいて、1回のみ中岳の合戦の敗北はあるが、ものの見事、領地回復、凱旋した。その後ずっとそのまま大村氏は続いている」との偽装の歴史の集大成みたいな記述と言えます。

 (掲載日:2006年5月1日)
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