お殿様の偽装 |
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22)おおむら浪漫2 |
大村の歴史を考えるシリーズ |
お殿様の偽装
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追加文その6、おおむら浪漫(3) |
追加文その6、おおむら浪漫(3)
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郡地区は大村で最も歴史ある地域 今回のこのページ『おおむら浪漫(ろまん)』と言うガイドブックの問題点を指摘する第3回目です。(初めてご覧の方は、先のページ<追加文その4、おおむら浪漫(1)、追加文その5、おおむら浪漫(2)>も、ご参照願います> 今度のページは郡三踊(こおりさんおどり=寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源についてです。前書きが長くなりますが、ここで郡三踊の”郡”(こおり)の名前について触れたいと思います。この『お殿様の偽装』シリーズで何回となく書いてきましたが、この”郡”は現在の大村市郡地区(松原、福重、竹松)=江戸時代までの郡村(こおりむら)を言います。 この名前の発祥は、奈良時代の肥前国(首府=佐賀大和)の長崎県央の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ、この役所の場所は郡地区で後の寿古町の好武城付近ではないかと言われている。詳細は、ここからご覧下さい)の”郡”から由来しています。ちなみに、郡岳(こおりだけ、826m)、郡川(こおりがわ、15.9km)の名称も、この彼杵郡家から由来していると思われています。 あと、平安時代の承平年間(931〜938)に編纂された『和妙抄』に”大村郷”と記されているのは、この郡村(=郡地区)を指しています。(太田亮氏の『姓氏家系大辞典』参照)このことは別の側面から見れば、ここが大村として全国レベルで知らされたのであって、けっして現在の大村中心地を最初から”大村”と言っていた訳ではないことが良く分かりますし、当時は郡地区より(全然人が住んでいなかったとは言いませんが)人口も極めて少なかったと思えます。 また、この郡地区は、野岳湖の遺跡(旧石器時代)を初め、約8000年前の岩名遺跡(今富町)、約2000年前の富の原遺跡(富の原町)、4世紀頃の古墳として黄金山古墳(今富町)や鬼の穴古墳(小路口町)があり、大化の改新(645年)頃の沖田条理制の田んぼ(沖田町)などがあります。 当然それ以降も大村純忠が三城城(1564年に築城)に政治の中心を移すまで、この地域が大村の政治・経済の中心地として栄えました。つまり、大村市総合計画、大村市の観光サイト、大村市のガイドブックなどに、わざわざ「大村は千年歴史」などと偽装表現しなくても、ちゃんとこの郡地区には千年でも二千年でも、それ以上の歴史、人の営みがあったし、現在もあるのです。 とりわけ、弥生時代以降は大村の穀倉地帯でしたので、米=経済力や人の力もあったでしょうから、文化や芸術面も栄え、その痕跡が古墳などにありました。 「大村純伊」由来説は、歴史的事実からしておかしい 本題に入ります。このガイドブック『おおむら浪漫』の17ページには、大見出しとして「大村の郷土の芸能と祭り」、小見出し=リードに「昔の時代を伝える郷土芸能と祭り。現代へ受け継がれる伝統の行事。」と書かれています。雰囲気が良く出ている17と18ページ掲載写真と併せ分かりやすく、これまで発行されてきた冊子以上に今回の郷土芸能や祭り紹介ページは、かなりの比重を置いた構成ではないかと推測できます。 その後、紹介文として<大村家第16代領主純伊が、およそ6年間の流浪の末、大村領を再び奪回した時の戦勝を祝って踊ったと伝えられる「寿古踊、沖田踊、黒丸踊。」この3つの踊は郡三踊と呼ばれ、県指定文化財になっています。>と記述されたいます。この記述で一番の問題は、この『お殿様の偽装シリーズ』で何回も書いてきた通り、<大村家第16代領主純伊・・・・・・・・戦勝を祝って踊った>の部分です。 まず第一に先の<大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2=虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還>ページに詳細に書きました通り、歴史的事実からして、ここで描かれている「大村純伊」の「中岳合戦、6年間の流浪、戦勝による領地回復」説は、それ自体を江戸時代の大村藩が偽装したと言われています。
郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は戦勝踊りではなく、神事芸能踊 今度は、歴史上のことからばかりではなく、この郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)を民俗芸能の視点で書きます。既に先の<大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2=虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還>ページにも紹介しましたが、民族芸能学の学者さんによると、戦勝踊りではなく神事芸能踊り(神社など神様に奉納する踊り)だと言うことです。 戦勝踊りをありていに申し上げると誰でも直ぐにおどれる踊り(たとえが適切でないかもしれませんが、例えば盆踊り風みたいな踊り)に近いと思われます。しかし、郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は、ある民俗芸能学の学者さんによると、そのような戦勝踊りでは全くないこと、つまり「この踊り(郡三踊)は、神事芸能踊り(神社など神様に奉納する踊り)だ」と言われました。戦勝踊りより、もっと格式・風格のある踊りと言うことです。 それは、寿古踊りの時に使用するゴザ(むしろ、国語辞典では「御座むしろ」の略)は神様の依り代(よりしろ)=神様が降りてこられるところを意味しているとのことです。(右側の寿古踊写真参照)さらに沖田踊の長刀(なぎなた)あるいは黒丸踊の花篭(はなかご)や竹竿(たけざお)など、空に向かって立てるものは、神様に捧げる神事と言われています。(右側の沖田踊と黒丸踊写真参照) この民俗芸能学の学者さんが言われている通り、神様に捧げる儀式=踊りのため、郡三踊は誰でも簡単に踊れるものではなく、現在でも上演日が決まれば、その何か月も前から練習を重ねておられるのです。 私は、別のシリーズでもっと詳細に、歴史事項及び民俗芸能楽からこの郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は戦勝踊りではなく、神事芸能踊りであることを掲載しようと思っています。先の<大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2=虚構と言われている「大村純伊」の敗戦、6年間の流浪〜大村奪還>ページにも、かなり具体的に書いていますので、ご覧下さい。 地元の方が努力と苦労しながらも守っておられる500年以上続く伝統芸能 いずれにしましても、郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は、法養が室町時代に郡村の人へ教えた神事芸能踊りで、郷土の方が並大抵でない努力と苦労をしながらも500年間続く伝統ある郷土芸能です。 (掲載日:2006年9月25日)
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