お殿様の偽装 |
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22)おおむら浪漫2 |
大村の歴史を考えるシリーズ |
お殿様の偽装
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誤解を招くような表現、その2、大村純忠の評価 |
誤解を招くような表現、その2、大村純忠の評価
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前のページ(その1)に続き、『誤解を招くような表現、その2』です。今回のテーマは、大村純忠の評価についてです。はじめに、大村純忠は、大村生まれではないものの(島原の有馬出身)、1550年大村家に養子に来て大村家を相続して、その後の活躍などは学校の教科書にも出てきます。全国レベルで、過去・現在含めて大村関係の一番有名人です。 そして彼を評する時に必ず使われる枕言葉が「日本初のキリシタン大名」です。この言葉は純忠を評価する時、決して間違いでないものの、彼の実績・功績を見る上で、これほど極端な矮小化の言葉もないくらいで、私は、「木を見て森を見ず」の言葉を思い出します。 また、彼の具体的な評価についても、これまた両極端の言葉が並びます。一方で「国際派で敬虔な、慈愛に満ちた宗教者」みたいに評する人もいれば、逆に「全く家来や領民に信頼がなく、そのためキリシタンを利用し保身を図った」などです。 私は、そのいずれも100%間違いでないものの、大村純忠の「光と影」を全般に見ていないような言葉とも写ります。(この大村純忠時代の「光と影」につて、後のページに書く予定です) 私も当初、大村純忠について詳細を知らず『福重郷土史講座』や『大村純忠』(著者:外山幹夫氏)などを読んで、初めて「日本初のキリシタン大名」だけにとどめてはならない人物だと思いました。つまり、分かりやすく現代に置き換えると、例えば県知事や市長が40年間その職にあったとします。その間にやったことの実績は脇において、ただ「個人的には立派な宗教者だった」と言っていることと同じように、この言葉は聞こえてきます。 いい意味でも、そうでなくても政治家である以上、政治家の実績はその職の評価であって、決して自らの信じる宗教の宗教者としての人物像ではないと思います。私は、色々な方に教えて頂いた通り、大村純忠は武将(領袖)としての評価を真っ先にすべきであり、あるいは彼の名前に付ける枕詞は”戦国大名”大村純忠であり、そこから論じないと、彼の実績・功績から見る上で極端な矮小化したまま終わると思います。 現在の大村内でおこなわれている矮小化した”キリシタン大名大村純忠”は、結局のところ、そこだけに終わってしまっています。全国の戦国大名の地元では、例えばその大名にちなんだ物、住居、温泉あるいは合戦した場所などを訪ね歩く、研究することが観光と併せて盛んにおこなわれています。また、それは針小棒大も入れて、戦記物語や歴史ものの出版もおこなわれ、さらには○○饅頭、△△煎餅などの土産物まで出されています。 戦国大名として魅力ある大村純忠
実際大村で出版されている多くの一般の方に目が触れやすい本や冊子類でも(あくまでも私が見た範囲内ですが)戦国大名らしい、例えば、どこで合戦したかとか史実にあるにも関わらず極一部の本を除けば見当たらないようです。それに対し、大村純治と同一人物言われている「大村純伊」の”偽装の双璧”とも言うべき史実で確認されていない「中岳の合戦」はじめ、この時期のことは、これでもかこれでもかと言うくらい書かれて語られています。 下記は、大村純忠時代の多数あった合戦の一つを『福重のあゆみ』から引用致します。 大村純忠時代の合戦、『鳥越(とりごえ)・伊理宇(いりゅう)の合戦』 大村純前(すみあき)は、実子の貴明(たかあきら)を武雄の後藤氏の養子に出し、有馬から養子を迎えます。これが大村純忠です。純忠も「大村純伊」の娘の子ですが、養子に出された貴明は純忠を恨み、純忠打倒に執念を燃やし、何度も何度も大村に攻めて来ます。(前後5回?) 大村氏の家臣には貴明に同情する者も多く、純忠は貴明に悩まされ続けます。 後藤貴明の永禄9年(1566年)の大村攻撃が『野岳の陣』です。野岳まで攻めてきた貴明軍と今富城から出て迎え撃った純忠軍が、野岳で戦い、今富の鳥越・伊理宇(今は井龍)で激戦を展開しました。鳥越・伊理宇の古戦場は、大村市立福寺町の鳥越さん〜大村市今富町の山口さん方の裏山の一帯です。 この合戦は、貴明方に槍の使い手がいて純忠方が押されていましたが、純忠方の宮原常陸介が出て行くと、貴明方の槍の使い手は逃げてしまい、純忠方の勝利となりました。貴明方の槍の使い手は貴明方に加わった大村の家来で、大村時代の稽古では宮原に一度も勝てなかった男だったと郷村記には書かれています。 この合戦の戦死者を葬った塚があり、山口さん方と鳥越さん方で今でもその霊を祀っておられます。この鳥越・伊理宇の合戦より前の1564年、純忠は三城(現在の忠霊塔)に城を築いて移りました。(『福重のあゆみ』からの引用終わります) 上記の一例のように大村純忠の活躍ぶりは、本当に多面多岐に渡ります。実際上記以外の合戦も多く、また、大村にとって大きな転換になった城を移すにしても関係ある今富城(大村市皆同町)から移って、三城城(大村市三城町)築城などを始め、出城も各地に沢山あります。 大村純忠を取り巻く人物も興味湧く人が多い また、大村純忠と関係する人物も家来含めて、たくさん登場してきます。その一例として『大村純忠』(著者:外山幹夫氏)の本には(見出しの引用ですが)一例として『容貌魁偉の大村純種』、『忠臣今道純周』、『名門朝長純利』、『実践型の一瀬栄正』、『北辺の勇将小佐々純正』、『波乱の人長崎景』など(その他の人物あり)、見出しのみを列挙しても、本当に取り巻きの人物にも興味湧くものがあります。 このように大村純忠は”戦国大名”のみの見方からしても、合戦あり、多彩な取り巻きの人物あり、関係する城や場所も多数あり、史実もちゃんとありと、何でも揃っているのです。これだけ材料あればテレビか映画の時代劇ができるのではと思えるくらいです。いずれにしましても色々な角度から考えさせられ、多方面からアプローチできる人物です。このことは同時に大村の歴史案内や観光にも向いていると思います。 ここで、キリシタン大名関係の評価を除き、大村純忠の実績・功績・評価を簡単にまとめると、次の通りと思います。 1)幾多の合戦に参戦し、戦い抜き、大村領を拡大した。 2)長崎港を開港した。 3)天正遣欧少年使節団を派遣した。 さらにまとめると「戦国大名らしく、戦いくさの連続により領土を拡大して守り、貿易などにより財政を守り、とにもかくにも回り敵だらけの中で大村領を守りぬいた」と言うことではないでしょうか。過不足は当然としても、上記のようなことにより、戦国大名の、戦国大名としての大村純忠の評価があるのではないでしょうか。 今回のテーマ『誤解を招くような表現、その2』を極簡単にまとめますと下表の通りになると思います。
(掲載日:2006年5月9日)
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