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お殿様の偽装
22)おおむら浪漫2
大村の歴史を考えるシリーズ
お殿様の偽装
大村純治、その1

大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その1
佐賀側から進出した大村純治 最初の居城と
言われている好武城跡(大村市寿古町)
大村純治と同一人物と言われている
「大村純伊」築城の
今富城跡(大村市皆同町)
大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」
 
今回は、江戸時代大村藩が書いた偽装の歴史の中でも「藤原氏の子孫が四国から来た」説と並んで、”偽装の双璧”と言うべき事項が大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」ついての記述です。

 大村の偽装の歴史にどう描かれているか述べる前に、先に参考文献を書かれた先生方の本に基づいて結論を書いておきたいと思います。前のページでご紹介した通り、先生方が示されている系図上からも、この「大村純伊」は大村純治と同一人物と言われています。(ただし念のため、先生方の中には「別人物説」を取っておられる人もいます)

 同一人物とは、つまり当時の武将が何回も名前を変えたように(例えば、木下藤吉郎ー羽柴秀吉ー豊臣秀吉など)幼名は不明のようですが、次に大村純治と称し、その後「大村純伊」と言うことです。

 歴史の場合、想像は禁物ですが、あえて勝手に考えるなら、藤津郡にいた時やその本拠地と彼杵・大村を行ったりきたりし、その後大村に本拠地(最初、好武城)を移した頃までは大村純治と称し、好武城が狭いため、さらに今富城に移った頃から大村純伊と名乗っていたのではないでしょうか。

 しかし、偽装された大村氏系図には、「大村純伊」は大村純治の子どもとして描かれ、大村の公的機関も但し書き付きながら、全く同じ書き方です。また、(大村)郷村記に書かれてある記述を引用して、<好武城は大村純治が築城し、今富城は「大村純伊」が築城した>との主旨(二つの城は各々の別の人物が築城した)で描かれています。

 しかし、別の人物でなく、同じ人物が大村純治時代に好武城を築城し、変名して大村純伊時代に今富城を築城したと思えば、郷村記に書かれてある記述が、その意味では納得できるものです。

ほとんど明示されていない大村純治
 下表を、ご覧下さい。大村純治のことについて、戦に勝ったことも、負けたことも、徘徊したことも、ある意味公平にちゃんと書かれてあります。当時の記述ですから、若干の年月のズレ、あるいは出来事について、誇張や過少評価は全くないとは言いきれないと思います。右欄に書いています出所史料の総ての内容を肯定している訳ではありませんが、けっこう冷静に書かれているとのことです。

 しかし、肝心なのは歴史を解明にするのに最も大事と思われる年月の入った、出来事が書かれている史料(資料)が、このように歴然とある事実です。ところが、現在の大村では大村史談会発行の『大村史談』と言う本を除けば、氏名くらいの紹介はあっても、この大村純治について、公的機関から出されている総ての書籍類には詳細な紹介は載っていないのです。

 なぜ掲載されていないかを考えてみました。ひょっとしたら、大村で発行されている歴史の書籍類は、他県の史料はダメで大村内だけで現存する史料(資料)で作成されているのかなあと思いました。しかし、それは私の間違いで、京都の資料もありますし、キリシタンや天正遣欧使節関係はヨーロッパの資料まで採用されています。なぜ、この大村純治ついての佐賀の史料は、除外されているのでしょうか。

 戦国時代の史料(資料)は既に紹介しました通り大村純忠時代に大村領内はキリシタンから徹底した破壊・焼き討ち、さらには墓まで暴かれたので一部分を除き何も残っていないのです。その意味からして、下表は大村の戦国時代を研究する上で、貴重な史料と思えます。しかし、今の公的機関から出されている本には、大村純治の名前紹介くらいで詳細に書かれていません。ヨーロッパの資料採用と対比するまでもなく、なぜ記述されていないのか不思議に思えます。

 ところが、偽装の歴史では大活躍したかのごとく描かれている
「大村純伊」については、大村藩が作成した文献以外、裏付け史料などは何もないのですが、現在の書籍類には、何ページも使い詳細に書いてあります。私の素人考えかもしれませんが、普通の歴史本は史料(資料)類の残っている方を優先して書くものと考えますが、それは現在の大村では添え書きにもならず、逆に史料のない方が本論になっているようです。


大村純治の行動が語るもの
 上表とその後の歴史から、大村純治時代ことを(既に先のページで紹介していることばかりですが)まとめますと大枠下記のことが言えると思います。

1)大村純治は、佐賀・藤津郡の本拠地から敗戦、徘徊を繰り返しながらも、戦国大名らしく本領回復に向けて必死に何回も努力していること。

2)1507年頃(若干の年月のズレはあるようですが)に郡城=好武城(現在の大村市寿古町)に入り、さらに藤津郡を目指していたこと。

3)好武城に来た後も、まだまだ佐賀での戦は続きますが、その後、彼杵・大村を平定して本拠地を佐賀からほぼ大村側に移したこと。このことから、それまで、別の支族の大村氏などにとって変わって、大村を領有し、その後この家系が江戸時代末期まで続く端緒になったこと。

矛盾だらけなのに明示していない
 上記のように、彼杵・大村にとって大村純治時代は、大きなターニングポイントだったにも関わらず、現在大村で出回っている公的機関の本は名前の紹介程度で、詳細に書かれていないことは、既に書いた通りです。

 さらに、裏付け史料は何もないのに現在採用中の「大村純伊」に関する事項との関係で言えば、もう矛盾だらけと言えるのに何の説明も明示もなく使われています。これを詳細に説明するには、さらに何ページも必要としますので、ここでは簡単に書きたいと思います。

<主な矛盾の事項について>
1)”偽装の歴史”では、大村純治の後をついだ「大村純伊」は、1474(文明 6)年に中岳の合戦をしたことになっていますが、上表との対比では、それよりもはるか後40年後でも”お父さんの純治”は、まだまだ佐賀藤津郡の本領回復に向けて、奮闘中であり、年代のズレも違いすぎます。

2)”偽装の歴史”では、「大村純伊」は(現在の大村市乾馬場町にあった)大村館から郡城に来た様に描かれています。(『大村市の文化財』の記述も同様です) しかし、上表では藤津郡から来ているのです。大村館から来たのと、佐賀の藤津郡から来たのは、違いが大き過ぎると思われます。まさか360度遠回りしてきたとは、考えられません。

 まだまだ、矛盾はたくさんありますが、後のページでも触れたいと思っています。ある面500年以上も前のことですから、より正確性を求めつつも、どの史料をとっても若干の矛盾や年代のズレは止むを得ないと思います。しかし、私が上記の件で一番言いたいのは、何の裏付け資料もない大村藩作成のことのみを現代も採用していること、また、数多くの矛盾が生じているにも関わらず、ほとんど、そのことに触れていないことです。

 上表右欄に書いています出所史料は江戸時代には既にあるものです。そこまで遡らなくても、せめてこの”偽装の歴史”問題が本などでもけっこう書かれた1970年代から1980年代にかけて、上表の史料も取り入れ、矛盾点を明らかにして欲しかったと思いますし、そのことが採用されれば、現在でも”偽装の歴史”を使用して、本や案内板に書かれることはなかったのではないでしょうか。

 (掲載日:2006年4月30日)
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