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大村の島シリーズ 箕島(みしま)
 (1)名称  箕島(みしま)
 (2)別名  箕嶋 (大村郷村記の名称) <島名の由来は、農機具の箕(み、みの)と思われる>
 (3)所在地  長崎県大村市箕島町(長崎空港島)、空港建設で埋め立てられた。
 (4)歴史など  江戸時代作成の大村藩領絵図や(大村)郷村記に記述。
 (5)特徴、他  空港建設前は瓢箪(ひょうたん)みたいな形の島で人も住んでいた。大村湾内で最大の島だった。
 (6)補足  


箕島
(みしま)
 箕島は長崎空港建設前まで、島として存在していました。この島は、大村市の本土側から約1キロ先の大村湾にかつてあって、大村市側から見ると、その形はまるで瓢箪(ひょうたん)を半分に切って海に浮かべた形状をしていました。私も学生時代までは、遠景ながら実家の庭先から、この島は見えていましたので、良く覚えています。

  ここからの記述は、大村史話(下巻)「箕島の今昔」(志田一夫氏)を参照して書いています。 この箕島は多良岳(たらだけ)が噴火(約100万年前から開始、約25万年前頃に終了と言われている)盛んな頃、近くにある臼島(うすしま)とともに東西に走る断層線に沿って海から隆起してできた火成岩の島と呼ばれていました。箕島周辺には「がろう島」、「そうけ島」、「赤島」もありました。(この三つの小島について、後で別ページに掲載予定です)

箕島(みしま)
中央左端の上側はがろう島、その下側はそうけ島、箕島側にあるのが赤島。写真左側が大村市街地方面、右側が西彼杵半島方面。
(市制30周年記念特集号『大村のあゆみ』1972年2月11日発行より)

 箕島の名前の由来は、農器具の箕(み)=「穀物の脱穀、選別するため竹でザルみたいに編んだもの」からではないかとも言われています。私の実家は農家ですから、この農器具の箕も実際に使ったこともあります。そう言われれば、この箕を海に伏せたような形状にも似ているように思えます。島名については他説もあるようです。

 島の歴史では、江戸時代以前の記録として箕島の経筒を除き、ほとんど残っていませんが、経筒が発見された近くから縄文式土器も出土していて、古代から人の形跡はあったようです。

「箕島は”宝の島”、”豊かな島”だった」

 あと、江戸時代の頃からは、この箕島について大村藩の古記録が残っているようです。それらによりますと、この島に居住していた人達、さらには陸側にある前船津から船で通いながら農業をされていた人たちもいました。 また、戦前戦後を通じて、この島では冬でも霜が降らないなどの気候温暖の反映からか農産物もとれていて、特に、箕島大根や箕島スイカは有名でした。島周辺で獲れる漁獲類も豊富だったとのことです。

 その中でも大正時代頃から栽培されていた箕島大根は評判が良く、長崎県下だけでなく九州各地でも、さらに遠くは上海など中国にも売られていました。このようなことから、旧島民の方は、次の「」内のことを証言されています。「美味しさで”世界一の大根”だった」、「まさしく、箕島は”宝の島”、”豊かな島”だった」と。

  時代は下り、1969(昭和44)年に大村空港の新しい候補地として箕島が有力地と見なされ、その当時、島の13世帯や島外地主などとの用地買収を終え1972(昭和47)年1月から新しい空港の建設が始まりました。3年余りの工事を経て1975(昭和50)年5月1日に現在の長崎空港が開港しました。

 そして、現在で箕島としては存在しなくなりましたが、島の名前は、空港島と陸側をつなぐ箕島大橋(970m)あるいは長崎空港の町名=箕島町として残っています。 なお、この空港島南側(掲載写真、上側の右面の海岸線の一部)は、空港建設用地とはならず太古のままの自然として、そのまま残っており箕島誕生時代から現在を見る上で貴重な海岸線であるとも言われています。

大村郷村記の箕嶋の記述について
 大村郷村記(藤野保編)には、箕嶋のことが、第一巻、87ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ上、表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。

「一 箕嶋
新城浦より貮拾三町程の處にあり、嶋形平夷にて、周廻壹里拾八町拾六間半、東西四町、南北貮拾町、廣サ畝歩にして九拾六町、畠數貮拾八町四畝貮拾七歩半、高五拾壹石八舛貮勺、總て蔵地なり、用山四段七畝、用林三畝、人家拾五軒、嶋の東南三ケ所に、散在す、且弁財天の社あり、

北西の間荒磯にて、東南の間に船着場あり、夫當嶋は内海第一の大嶋にて土地肥饒、畠中櫨數百株あり、蜜柑・西瓜・大根、此嶋の名産なり、又山野には防風石蕗至て多く生す、貝類には榮螺・辛螺あり、海草には石毛あり、且數ヶ所の網代有て漁の勝手大によし、

當嶋往古は松木の大山にて、鹿多くすむなり、然るに貞享の比より、此嶋の松木何となく枯朽す、依之伐木松木三千本余、其價六拾五貫目程 其跡元緑十五年牧場になる、其後年々山野を開いて畠となし、延享年中検地あり 高四拾九石余となる 」


現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 ( )内は上野の解釈上の補足などです。

  箕島(みしま) 新城浦(現在の杭出津1丁目の大村港周辺)より約2.5キロメートルの所にある。島の形は複雑ではなく、周囲は約4キロメートルである。(島の長さは))東西436メートル、南北2.2キロメートルである。広さは(畑の面積に換算して)約95万平方メートル(約29万坪)、畑の面積は約28万平方メートル(約8.5万坪)である。総て(大村藩の)直轄地である。(利用している=運用)山の面積は約4660平方メートル(約1,400坪)、(前同)林の面積は約694平方メートル(約210坪)である。人家は15軒で、島の東部・南部の三か所に点在している。かつては弁財天(弁天様)の社があった。

 北から西の間(の磯)は荒磯(波の荒い、あるいは岩石の多い海岸)である。東と南(の海岸の)間に舟着き場がある。なお、当島(箕島)は内海(大村湾内)で第一番目に大きな島で、土地は肥えて畑にはハゼノキが何百株とある。ミカン、スイカ、大根は、この島の名産物である。また、山野には防風(浜防風==はまぼうふう、セリ科の多年草)・石蕗(ツワブキ、セリ科の多年草)が非常に多く自生している。(島周辺の海で獲れる)貝類にはサザエ、ニシ(巻貝の一群)がある。海草にはイシゲがあり、なおかつ沢山の所に定置網の漁場があるので漁業に大変便利である。

 当島(箕島)は大昔は松の木が沢山生えていて、鹿も多く住んでいた。しかし、貞享(じょうきょう、1684年〜1688年、江戸前期)年間頃より、この島の松の木はなんとなく枯れて腐ってしまった。このことにより松の木3千本を切り倒した。その値(重さ)は243キログラム程である。その跡(後)に元禄15(西暦1702)年に牧場となった。その後(さらに)年々、山野を開墾して畑とし、延享(えんきょう、1744年〜1748年、江戸中期 )年間に検知(測量)があり、石高が49石あまりとなった。

上野の補足:上記は(江戸時代に編纂された)(大村)郷村記からの現代語訳ですから一部に解釈しにくい(言語明瞭、意味不明も含めての)文章内容もあります。不明箇所は詳細分からないままながらも、できるだけ原文を生かした現代語訳と解釈にしています。

  あと、この記録を読みますと概要ながら箕島の状況も見えてきます。島ですから当然様々な苦労などもあったかもしれませんが、この(大村)郷村記から推測される箕島は、肥沃な土壌からの農産物を始め周辺の海の魚介類含めて大変豊かな所だったと思われます。

大村藩領絵図の箕嶋(箕島)
箕島(みしま)
中央左端の上側はがろう島、その下側はそうけ島、箕島側にあるのが赤島。写真左側が大村市街地方面、右側が西彼杵半島方面。
(市制30周年記念特集号『大村のあゆみ』1972年2月11日発行より)

  また、江戸時代の島の戸数は15戸で、長崎空港建設前(1972年前頃)が13世帯と聞いていますので、ほぼ変わりなく先祖伝来の土地に居住されていたことも分かりました。大村湾内で一番の大きな島だった箕島は、同時に様々な自然の恵みもあり最も豊かな島だったことを、この(大村)郷村記は伝えているように思えました。

大村藩領絵図の箕島について
 
今回の項目、大村藩領絵図については、既に何回となく、ご紹介してきました。この絵図の制作完了年は不明ながら上野の推測として(大村)郷村記より相当速く完成したものと思っています。

 そのため、この絵図からは、色々な場所で(大村)郷村記に書いていない事項がいくつも分かっています。
当然、この絵図には箕嶋(箕島)についても、詳細に描かれています。

 右側に、二つの画像を並べています。その内に左側が大村藩領絵図
で、右側が昭和時代の航空写真です。念のため、どちらとも正対比の縮尺・縮小画像ではありません。また、両者やや角度が違っていますが、島の形状は、ほぼ似ています。

 この絵図を見ますと江戸時代当時の測量技術の高ささえも推測できるものと言えます。大村藩領絵図が小さすぎて文字部分が見えないので、これからに絵図に表記されています文字の説明と補足を書いていきます。

 まず、説明の便宜上、箕島を南側(画像の上側)、中央部、北側(画像の下側)と分けて太文字で下記に書きます。その順番は、南側(上側)から、中央部、そして北側(下側)に表示している画像上で下る感じで並べていきます。

 ( )内は上野の現代語訳と注釈です。なお、あくまでも下記は、ご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本の絵図から必ずお願いします。また、絵図の中には一部判明しにくい文字があります。念のため、現代語訳や注釈含めて正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳や補足ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

<南側(上側)の文字>
<中央部の文字>
<北側(下側)の文字>
 長サ六百四拾間(約1.2km)
 横三百拾間(約560m)
 ガロフ嶋(がろう島)
 ソウケ嶋(そうけ島)
 (別に不明2文字あり)
 箕嶋(箕島)
 長サ七百四拾間(約1.3km)
 横貮百貮拾間(約400m)
 (別に不明2文字あり)

絵図についての補足と感想
 上記の大村藩領絵図についての補足と感想を書いていきます。なお右下側2枚の写真は、絵図とは直接的には関係ないのですが、説明文を、より分かりやすくするために、この項目に画像掲載しました。

箕島の古写真<大村市街地側からの撮影。右が北側方向>
(大村史談会発行、大村史話・下巻313ページ写真より)
現・長崎空港の南西側(旧・箕島の南西側)
<対岸の長与町側から2005年9月11日に撮影>
注:上記の古写真との対比でも分かる通り山の形は大きく変わって小山の形状から写真のように平たくなったが、写真正面の海岸線周辺は太古のままの姿を留めている。中央右側の白い建物は管制塔、左側方向に後で撤去されたため現在はないが、紅白の火力発電所の煙突が小さく写っている。

補足1:箕島の南側に瀬でくっついたようにある赤島について、この島は絵図には島の形状は描かれていますが、島名の文字表記はしてありません。

補足2:上記<中央部の文字>で(別に不明2文字あり)の部分は、島の中央部に「初天」もしくは「財天」みたいに見えていますが、正確に分からないため今回は不明文字としました。

補足3:<北側(下側)の文字>で(別に不明2文字あり)の部分は、島の先端の海に書かれた2文字です。その内、下側の1文字「崎」です。上側の1文字と併せれば推測ながら「千崎」もしくは「十崎」みたいにも読めますが、今回は不明文字としました。

 私の文字変換や換算ミスもあるかもしれませんが、絵図上の箕島の長さや幅などと、(大村)郷村記の記述上の数値が違うような気がします。通常ならば当然、新しい時代に書かれた(大村)郷村記の方が、より正しいのかもしれません。また、延享(えんきょう、1744年〜1748年、江戸中期 )年間に検地がおこなわれているので、それを元に(大村)郷村記は書かれた可能性もあります。

 ただし、この(大村)郷村記は、大きさや方角、その他の記述で間違いも多く、私自身も何回かホームページ掲載上で泣かされてきました。むしろ、当時の大村藩の測量方(測量士)がキッチリ計測して描いた大村藩領絵図が正しい場合もありました。その意味からして、長崎空港建設前の時代におこなわれた箕島の近代的な測量結果データがあれば、それと対比した方が、どちらがどれだけ正しいか分かると思ってもいます。しかし、私が探した範囲内で、その資料が見つからないので両者の数値の違いについて今回は、これ以上書かないことにします。

 いずれにしましても、この大村藩領絵図に描かれている箕嶋(箕島)の状況は、大きさだけでなく畑地あるいは山林を始め、当時の島の状況が分かりやすいものです。この絵図が保管されている長崎県立図書館の原図を見れば鮮明かつ詳細なことが分かるかもしれないと考えています。

  なお、右上側画像は、現・長崎空港の南西側(旧・箕島の南西側)写真です。念のために書いておきますが、上側の大村藩領絵図と航空写真の画像でも分かる通り、空港建設前までは箕島南西側も小山みたいな形状をしていました。しかし、建設時に写真で見る通り平たく大きく変化しています。しかし、この海岸線周辺は太古のまま残っているものです。ですから、この周辺の海岸線は、大村藩領絵図や航空写真に写っている形状と現在も同じと思われます。

箕島の江戸時代以前について
 江戸時代以前の箕島の古記録について
例えば(大村)郷村記以外の古文書などは残っていないようです。(大村)郷村記については、先の項目=『大村郷村記の箕島の記述について』で書いていますので、ご参照願います。文書関係以外で箕島の江戸時代以前のことを述べる場合、この島から出土・発見された経筒が、書籍類に登場しています。< (国語辞典の大辞泉より引用・参照) 経筒とは、経塚に埋める写経を納めるための蓋(ふた)付きの容器。銅製の円筒形のものが多い。末法思想とは、仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想。日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。 末法の世に社会が混乱すると思い経典を写経した紙を経筒の中に入れて経塚を築き祈った>

箕島の経筒
全体の高さ:45cm、周囲:97.5cm
筒のみの高さ:38cm、直径27cm
筒の内側の高さ34cm
筒の内側の直径(内径)21.5cm
蓋の直径31.5cm、厚さ(高さ)6.5cm

 この件で最初に目にするのが、大村史談・第七号(大村史談会1972年3月発行)の表紙写真とその表紙解説文です。ここに箕島や経筒について記述されています。この文章を引用して、次の< >内を書いています。なお、省略文や(注)などもありますので、あらかじめご了承願います。

 大村扇状地平野の沖合千米(注1)の箕島は、(中略)  古代縄文土器も発見されたが、鎌倉時代文治元年作(注2)と伝えられる経筒が先年島の北側高台から出土し、田野純三氏から大村高校(注3)に寄贈された。この経筒は高さ四十三糎(注4)、直径二十七糎(注4)の滑石製円筒で、蓋は八角形笠型である。鎌倉を中心に末法思想流行の頃極楽往生、追善、逆修を祈願した豪族か高僧かが、来世に出現する弥勅菩薩のために法華経などを書写した経文を埋納地中に保存したものであろう。(後略) 

(注1):千米=1000m
(注2):この頃は、まだ大村市立史料館ができる前で、当時、長崎県立大村高等学校が、いくつか文化財を保管していたと思われる。
(注3):文治元年は、西暦1185年である。(「
壇ノ浦の戦い」、「平家が滅亡」の頃 )
(注4):糎=cmであり、この文章の場合「この経筒は高さ43cm、直径27cm」である。


 上記の< >内の文章は、これ以上の解説は必要ないくらい分かりやすいものですが、少し整理、上野個人の感想やまとめの意味から、これから補足も含めて下記に書いていきます。

箕島の経筒は何を物語っているのか
 上記の書籍で注目されるのは、次の<古代縄文土器も発見されたが、鎌倉時代文治元年作と伝えられる経筒が先年島の北側高台から出土し>の部分と思われます。この<>内を改めて箇条書きにしてまとめ、さらに上野の補足も書いてみますと下記の通りと言えます。

(1)箕島は、古くは縄文時代から人が住んでいた。
(2)平安末期や鎌倉時代などに流行した末法思想(上記参照)と関係ある文治元年(西暦1185年)の経筒が、箕島にあった。
(3)上野の補足ながら経筒が発見された場所は、(2011年5月の聞き取り調査の結果)島の北側高台=「からと山」(漢字の推測で「唐戸山?」)と判明しました。この山は地形的に自然にできた小山と言えます。

 上記の(2)箕島の経筒は、私も大村市立史料館で直接持ってみて写真も撮影しました。全体なら数十キログラムありそうな大きくて重いものでした。あと、これを見てから「なぜ、箕島の経筒は、この島にあったのだろう」と、ずっと思ってもいました。当初、先に引用・参照しました大村史談・第七号の通り、(私の推測ながら箕島以外の所に住んでいた)「豪族か高僧」だろうと考えていました。それは宗教心があって、財力があり、写経(文字が書ける能力がある)も出来る人と思いました。当時このような人は、限られた人数だったと考えられます。

 しかし、今回、以前この島に住んでおられた方々の話しや古写真などによる地形などを見て、先の「豪族か高僧」にプラスする形で、私の推測ながら、「もしかしたら箕島に住んでいた人達と高僧と関係ある可能性あるのでは」と思うようになってきました。ただし、このページ自体は経筒を主に書くのではなく、あくまでも箕島の紹介ですから、この件は詳細に触れませんが、極簡単に述べるなら次のことが言えると思います。

(イ)(西彼杵半島で造られたものと推測される)経筒は、太古より豊かな島だった箕島の住民なら財力的にも所有できる可能性は充分あったと思われます。
(ロ)陸側(現在の大村市街地側)の「豪族か高僧」が、わざわざ箕島まで来て経塚や経筒を造らなくても、住んでいる地域周辺に、その場所は数多くあったと思われるからです。それは、福重地区から出土した弥勒寺の経筒、草場の経筒その1・その2、御手水の滝の経筒、合計4本の経筒の発掘場所からも明確に分かるものです。
(ハ)海運の位置関係上、箕島は舟を使用するなら経筒の石材を多く産出した西彼杵半島と直接取引するのも便利だったと言えます。

 ですから、早くから仏教が伝播していれば当然、箕島の住民も、この経筒を所有した可能性はあると思えます。ただし、これらのことは先に紹介した大村史談・第七号にも触れられていないし、今となっては経筒と関係した遺構や遺物(経塚や単体仏)なども発掘できないので、あくまでも私個人の推測の域ではあります。

 以上のようなことから、箕島の江戸時代以前の状況は、気候温暖で畑の作物や海の漁に恵まれ大変豊かな島であったため、縄文時代から既に人は定住して生活していたことを経筒を始めとする各種の遺物は物語っていると言えるでしょう。

箕島の航空写真から見えるもの
 
この項目では、先に紹介しました(モノクロ版)箕島の航空写真とは別に、今回もう一枚の写真(実物はA4サイズ位のカラー版)を縮小版でご紹介します。この写真の原版は、箕島に住んでおられた岩永氏所蔵のものです。上野が借りてスキャナーで複写し、その後、写真加工で黄色や薄い青色文字を書き加えました。

 なお、正確な撮影年月日が不明なため私の推測ですが、撮影年は当然のことながら長崎空港建設着手前の1972年以前頃のものと思われます。カラー写真の色は、やや変色していますが、保存状態は、大変いいものです。また、実物はA4サイズの大きな写真ですから精密で公共の建物だけでなく民家の家屋状況まで分かる鮮明なものです。

箕島(みしま)
箕島の南側(写真上側)のA地点が最高所で標高約96m。箕島の北側(写真下側)のB地点が、からと山(唐戸山?)46mで北側の最高所。(岩永氏所蔵写真より)

 これから、この航空写真に沿って、私が岩永氏にお聞きした内容を中心に説明していきます。念のため下記項目の順番は順不同で、また内容の表記や番号にも特別な意味はありません。一般に分かりやすい事柄や内容を中心にまとめてみました。

(1)箕島(この島は真ん中周辺でくびれて、南側=写真上側と、北側=写真下側に分かれていた)全体13戸で60数人が住んでおられた。同じ名前の家が7軒あった。
(2)赤島(干潮時に陸続きの島だった。再度、後の項目で説明予定)
(3)がろう島(後の項目で説明予定)
(4)そうけ島(後の項目で説明予定)

(5)南側最高所=写真のA地点で約96m<ここは箕島全体の最高所でもある。別名、大村弁で”ていらの辻(平らの辻)”とも呼ばれていた>
(6)北側最高所=写真のB地点で約46m<ここはからと山(唐戸山?)と呼称されていた>
(7)からと山(写真のB地点)は、箕島の経筒発見場所である。(箕島の経筒の詳細は上記項目の「箕島の江戸時代以前について」もしくは大村の経筒シリーズの「4)箕島の経筒」を参照願いたい)

(8)箕島分校(開校当初は大村市立西大村小学校、その後、大村市立大村小学校の分校だった。先生用の住宅も併設されていた)
(9)箕島の港は、箕島分校近く(写真の分校の上側)にあった。ただし、各家の前の海岸線には船着き場もあって、そこから船には乗り降りされていた。船は梅代丸だった。箕島から大村港へは朝7時に出航し、夕方に戻る便だった。時間は片道30分位かかった。中学生の通学、仕事や郵便物運搬その他の利用があった。強風の日でも朝凪(あさなぎ)・夕凪(ゆうなぎ)があったので欠航はほとんどなく、あっても年に数回程度であった。

(10)夏休みシーズンには海水浴用の”夏季民宿”も営まれていた。
(11)市杵島神社(いちきしまじんじゃ)(注:補足参照)の場所は箕島分校南側(写真上側)に写っているこんもりと緑の林が見える所である。
(12)箕島の墓地は写真「赤島」文字の後方上側、島のくびれ部分寄りにあった。

(13)1957(昭和332)年の大村大水害時に写真「赤島」文字の後方上側周辺で崖崩れが発生した。
(14)箕島の南西側(写真右側)部分の海岸線(大部分)は長崎空港建設時に開発されなかったため、現在でも写真に写っている海岸線が太古のまま維持されている。
(15)箕島の北側が南側より面積は小さかったが平坦だったこともあり、住居も多く耕作地も広かった。建物や人口が多かった関係からか、真ん中のくびれた部分から北側周辺にかけて”箕島銀座”とも呼んでおられた。

(16)耕作地について、(濃い緑色部分は山林だが)やや薄い緑色に見える所がミカン畑で、白っぽく見えるのが箕島名物の大根、スイカや野菜などを作っておられた畑である。箕島に水田はなかった。島全体の面積対比で耕作地を大雑把に表現すれば北側の約80%、南側の50%位が畑だった。
(17)陸地側の前船津町の方が、船で渡って来られて島北側面積の半分近くを耕作されていた。
(18)アコウの大きな木があった。

注:補足=国語辞典の大辞泉によれば、市杵島姫命とは「日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)の時に生まれた三女神の一。福岡県の宗像(むなかた)大社の辺津(へつ)宮の祭神」と書いてある。また、仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている神社が多い。


以上が、カラー版の航空写真に基づく箕島の概要説明です。重複した文章になりますが、この写真には島の形状だけでなく森林、公共の建物、民家、砂浜、港や耕作地など明確に分かるため長崎空港建設着手前の箕島を知る上で貴重な資料とも言えます。また、このシリーズ冒頭部分で<箕島は「”宝の島”、”豊かな島”だった」>と紹介していますが、この航空写真を見ますと、改めてその意味も確認できました。

箕島周辺の小島について
 箕島周辺にあった三つの小島は、がろう島、そうけ島、赤島でした。この
三つの小島について、後で大村藩領絵図と(大村)郷村記内容、それに航空写真などを使って個別の紹介ページに掲載します。ただし、三つの島で共通した点もありますので、ここではその点を簡単に触れる程度にしておきたいと考えています。 あと、 箕島周辺にあった三つの島の位置確認上、既に紹介中の上記項目右側、箕島のカラー写真をご覧願います。なお、下記の島名は、順不同です。

・赤島(あかしま)=写真中央にある小さな細長い島です。(赤島の個別紹介ページは、ここから、ご覧下さい)

・がろう島=写真中央左側上部に見える島です。  (がろう島の個別紹介ページは、ここから、ご覧下さい)


・そうけ島写真中央左側下部に見える島です。 (そうけ島の個別紹介ページは、ここから、ご覧下さい)

 上記、三つの島の共通項は、箕島周辺にあり、無人島だったことと思われます。各島の詳細は、後で各々のページをリンク先からご覧頂くこととしても、箕島の近くにあったことから島民にとって関係あったことも確かと言えます。

まとめ
 この箕島紹介ページは、冒頭の書き出しから、まとめの前の項目まで、けっこう詳細に書きましたし、いくつかの項目では補足の記述もしました。その関係上もあり、最後の、このまとめの項目で新たに補充する事項などはありませんが、全体振り返って思ったことを若干書きます。

現・長崎空港の南西側(旧・箕島の南西側)
<対岸の長与町側から2005年9月11日に撮影>
注:南西側の海岸線は、空港建設後も、ほぼ太古のまま残っている場所である。その意味で今なお貴重な海岸線とも言える。

 この箕島での人の歴史は、大村藩領絵図や(大村)郷村記が書かれた江戸時代よりも相当古く、それは先に述べた通り、箕島の経筒があったことでも明らかです。このような歴史の経過を改めて再認識いたしました。

 さらに今回、箕島に住んでおられた岩永氏から写真提供や具体的な島での生活の話も数回お聞きして自分が全く知らないことまで教えて頂き、本当に勉強になりました。改めて同氏に感謝申し上げます。そして、同氏の言葉でもあります「箕島は”宝の島”、”豊かな島”だった」と言うことが、島での写真を見たり、このページを書いて良く分かりました。自然が豊かで、そこからとれる農作物や漁獲類が豊富だったことの実感は、もう建設工事後の長崎空港では、ない物ねだりの、叶わぬことでもあります。

 しかし、自然の地形と言えば一つだけ右写真の通り、長崎空港南西側(西彼杵半島側)の海岸線は、先の項目でも紹介しました通り、今なお太古のまま残る場所でもあります。機会あれば、一度この海岸線を歩いて色々と見学してみたいとも思っています。

 これにて箕島紹介ページのまとめとしますが、今後新たに何か箕島に関して分かった項目や事柄があれば、追加掲載も考えています。このページをご覧頂いた皆様方へ、最後になりましたが感謝申し上げます。 (ページ完了)

大村の島シリーズ:臼島鹿島龍神島寺島盗人島箕島赤島がろう島そうけ島弁天島

(初回原稿掲載:2011年4月17日、第2次掲載:2011年4月20日、第3次掲載:2011年4月25日、第3次掲載:2011年4月28日、第4次掲載:2011年5月9日、第5次掲載:2011年5月12日、第6次掲載:2011年5月27日、第7次掲載:2011年7月17日、第8次掲載:2011年7月21日、第9次掲載:2011年8月21日)

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