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鹿島(南東側=松原海水浴場から遠望)
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鹿島(しかのしま)
現在、鹿島の状況は陸続きですが、江戸時代の頃までは陸地から離れた島で、間には堀切がありました。(ただ、その後、陸続きになる以前でも石垣の突堤みたいにしてあって島へ歩いて渡れたと思っているのですが、私の記憶が曖昧です) この島は、旧・長崎街道近くにあり、近景も遠望も良く風光明媚な島です。また、島としては、この鹿島が大村市内の最北部に位置していると思われます。
陸地側(南側)から行く場合、その手前に10本位の松の木が、海岸線に沿って(現在は堤防の内側)生えています。昔(堤防のない時代)は、この松並木を前景に、鹿島を後景にした場合、一幅(いっぷく)の絵画のように見えたことでしょう。
あと、上記の南側(松原海水浴場側)から見てもいい眺めになりますが、北東側(餅の浜海岸方向)から遠望しても、良い景色です。さらに海抜を上げて、高速道路(長崎自動車道)当たりから見下ろす感じでも、しばし時間を忘れて眺めるほどの風景です。また、夕方になれば、この島を近景にして周囲の大村湾や遠景の西彼杵半島(にしそのぎはんとう)に映える夕陽も素晴らしいです。
鹿島は、そのような風光明媚な所から、ずっと昔から写真に撮られたり、 絵にも描かれました。また、現在はありませんが、以前、島の海岸沿いに料亭などもにありました。
あと、この島を一周しますと砂浜はなく、大きな石がゴロゴロした感じであります。さらに、陸地側から見ますと島の先端(西側)より、さらに先の方には浅瀬があり、干潮時には見えていても満潮時には海面下になるようです。
冒頭にも書いていますが、この鹿島は、大村藩領絵図や(大村)郷村記に記述されています。また、旧・長崎街道近くでもありました。さらに、島の中には弁財天などもあります。(歴史に関しての詳細は、後の項目で個別に触れる予定です)
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大村藩領絵図の頃は久津島(左下側にある久津嶋の文字は上下、逆に描かれている)<海岸沿いに左上側からの文字は、餅浦、小川浦、久津嶋、長浜などがある。さらに右下側に松原村の文字がある>
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大村藩領絵図の”久津嶋”=鹿島について
鹿島は、大村藩領絵図にも描かれています。ただし、この当時の島の名称は、久津嶋となっています。後で紹介予定の(大村)郷村記には、この久津嶋の名称などについては記述されていません。
既に他のシリーズで掲載中ですが、大村藩領絵図の作成時期は江戸時代に違いはありませんが、その詳細な時期は不明です。大村藩領絵図のページにも書いていますが、この絵図の完成について、私は(大村)郷村記の完成時期(江戸時代後期)より、相当古いと思っています。正確な史料がないので推測にしかなりませんが、私は江戸時代の初期もしくは中期初頭頃には、ほぼ完成したのではないかとも思っています。
なぜなら、もしも仮に大村藩領絵図が(大村)郷村記と完成時期が同じとするなら、この島の名称も同じように鹿嶋か、もしくは「鹿嶋の旧称は久津嶋だった」みたいなことが、(大村)郷村記に書いてあるはずです。しかし、このような旧称についは何も記述がありません。
以上のことから、この大村藩領絵図に描かれている久津嶋の名称=鹿嶋の旧称は、相当古いものと推測されます。、また同時に、この絵図自体も(大村)郷村記より早期に完成したものではないかとも思われます。
あと、この絵図の中に描かれている右側の図(大村藩領絵図の一部分)に右下側から左上側に大村湾の海岸線に沿って黒い太い線があります。これは、当時の長崎街道です。現在の旧・長崎街道ウォーキングコースも、この絵図と全く変わらない状況です。
江戸時代当時、この長崎街道を歩いた旅人は、この鹿嶋周辺の海岸、砂浜、松並木などを眺め、さぞ疲れも取れただろうなあとも想像されるものです。現在、堤防ができて、海岸線も埋め立てられていますが、絵図にある長浜と言う海岸は文字通りに相当長かったため、この名称になったと思われます。
大村郷村記の鹿嶋の記述について
鹿島は、(大村)郷村記に鹿嶋の名称で記述されています。この項目では、鹿島と続いている鵜瀬(うのせ)も併せて下記に紹介します。この二つの事項は、大村郷村記(藤野保編)に次の通り書いてあります。「 」内が(大村)郷村記からの引用部分です。ただし、原文は縦書きの続き文です。 見やすいように一部空白(スペース)や文字変更などもしています。引用される場合は、大村郷村記の原本から、お願いします。
「 一 鹿嶋 周廻貮町拾五間程、嶋内辧財天を勧請す、雑木立の山なり、北の方に恵美須社あり、往還より鳥居まて四拾壹間、此間に小船往來のあり 」
「 一鵜瀬 鹿嶋續南の方にあり、長サ四拾間、横六、七間、満潮には瀬頭隠るるなり 」
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >内の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。
< 鹿嶋(しかのしま) (島の)周囲は約245m、島内には弁財天(弁天)が祀られている。北の方には恵美須(えびす)社がある。道路より鳥居まで約74mで、この間に小舟が行き来できる堀切(水路)がある。 >
<鵜瀬(うのせ) 鹿島に続いて南の方に長さ約47m、横幅約7〜約8mである。満潮時間には瀬の頭部が隠れる。>
上野の補足:弁財天(弁天)は、現在もあります。なお、(大村)郷村記の「寺社之事」の項目に、この弁財天については詳細に書いてありますが、ここでの紹介は省略します。往還=道路とありますが、この場合の道路は、近くを通っている(旧)長崎街道のことを指していると思われます。鹿島の周囲は大きな石ばかりですが、鵜瀬は、石ばかりの海岸から連なっているような瀬です。当然、現在も干潮時などには見えます。
まとめ
その都度の項目で詳細に書いてきましたので、特に、まとめなどは重複しますので必要ないかもしれませんが、感想や補足程度を記したいと思っています。私も、小学生時代から松原海水浴場へ行った機会に親や同級生たちとも、この鹿島へは何回か行きました。その当時は、今みたいに島周囲の護岸工事も、ほとんど施工されてなくて、海岸線は岩がゴツゴツとした感じが印象に残っています。
また、当時の海水浴場は現在地よりも、もっと鹿島寄りにありました。当時は堤防もなかったと記憶しています。泳ぎ疲れたら、海水浴場脇にあった松並木の木陰でも休んだような気もしています。近くの松葉の緑、遠方の鹿島の濃い林は、なんとも言えない美しいもので、ずっと昔から変わらないことと思われます。
夏の海水浴シーズンあるいは長崎街道ウォークなら年間通して、この周辺へ行かれる機会があろうかと思いますが、少し足を伸ばせば行ける島ですので散策されるのもいいのではないでしょうか。
大村の島シリーズ:臼島、鹿島、龍神島、寺島、盗人島、箕島、赤島、がろう島、そうけ島、弁天島
(初回原稿掲載:2011年4月5日、第2次掲載:2011年4月8日、第3次掲載:2011年4月11日、第3次掲載:2011年4月15日)