寺島(てらしま)
寺島は、大村市玖島1丁目の玖島崎(前舟公民館、寺島公園や前舟津漁港近く)にある島です。この島は、大村市役所から車なら10分弱の位置関係にあり直ぐに島の見学や市杵島神社と龍神社の参詣に行ける島です。右側上から1番目写真でもお分かりの通り、雑木林が生い茂る島の中でも地元の方、檀家さん、あるいは市役所関係のご努力の反映か、手入れが行き届いています。そのため、無人島とは思えないくらいゴミなどの少ない島です。
寺島に渡るには陸地側にある太鼓橋風の一つの橋を渡ると、あとは奥の島までコンクリート舗装の道がありますので便利です。また、島の周囲を一周できる舗装された小道も完備され散策、海(大村湾)あるいは近くの漁港に出入りする漁船、さらには大村高校や城南高校生と思われるボート部の素早い漕艇さばきなどを眺めるのには、もってこいの場所です。夏の時期には、子どもさんを中心としたイベントも開催されていて市民に最も親しまれている大村市内の島の一つと思われます。
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中央奥:寺島(まわりは大村湾)
中央の道:島に渡る道。島一周できる小道もある
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なお、現在ここには、市杵島神社(いちきしまじんじゃ)や龍神社(りゅうじんしゃ)が祀ってあります。神社関係については、後の(大村)郷村記の項目で弁才天(べんざいてん)などについて書きますが、江戸時代当時、島に祀られている神社が現在では違うようです。
この項目の以上が、寺島の概要紹介です。ただ、この島の紹介については、現在でも公的機関、民間有力団体などの書籍類やホームページ類で記述されている寺島の歴史関係事項は、江戸時代・大村藩による創作(偽装)に基づくものです。今回も、その指摘について書かざるを得ません。極簡単に言えば大村氏の始祖である「(初代)大村直純」が「四国から来て寺島に上陸したこと」が、先に書きました書籍やホームページなどに書いてあります。
正しくは「大村直純」自体の存在も、その「大村直純」が「寺島に上陸したこと」も、江戸時代の大村藩の創作(偽装)の歴史と言われています。それが、今なお現代でも、まるで正しい歴史のごとく広報され、あるいは寺島が大村市の指定史跡ともなっているのです。つまり、そのような作られた歴史事項と、この寺島は全く関係ないと言うことです。(この創作の歴史事項関係を先に、ご覧になりたい方は「お殿様の偽装(目次ページ)」、「大村の偽装の歴史や表現一覧表」、「正々堂々と正して欲しい」などの関係ページを、ご覧下さい)
この件は、後の項目でも書きたいと思っていますが、既に1980年代頃より郷土史の先生方のご努力により、もうどんな「但し書き(言い訳風)」の記述をどこかに書いても、この偽装の歴史は現代では正々堂々と通用しないものと思います。このようなことを寺島紹介ページに書かざるを得ないのは、一人の大村市市民として残念なことで、何も知らない子どもさんや観光客の方々に対しても、もう創作の記述で寺島を紹介する時代ではないと考えています。
島名について
寺島の名前の由来は、後の(大村)郷村記の項目でも書きますが、この島に以前、仏教寺院があったことに由来しています。島名に関するところだけを現代語訳しますと、次の<>内の通りです。<この嶋に以前、寺院があった。寺嶋山吉祥院と言う。(弁財天の別当=弁財天の付属の寺院)元禄七(1694)年、この寺を多々良(たたら)に移設した。>
上記の別当の部分で、、国語辞典の大辞泉には、別当=「検非違使(けびいし)庁・蔵人所(くろうどどころ)など、令外(りょうげ)の官の長官」と役職名があります。また、同じ辞典で、別当寺(べっとうじ)=「神社に付属して置かれた神宮寺(じんぐうじ)の一。別当が住した」との言葉もあります。このようなことから、この寺嶋山吉祥院も、大村で多くあった神仏習合の寺院だったのでしょう。ここからは私の想像ですが、島名が、この寺院名に由来している以上、ここの地元=前舟津や久原周辺では、寺嶋山吉祥院の方が日常のお参りや親しみがあったのではないかとも考えられます。
そして、詳細な理由は不明ながら何かの都合で「寺嶋山吉祥院は、元禄七(1694)年に多々良に引っ越した」と書いてあります。この”多々良”と言う地名の件ですが、現在、島内にある大村市教育委員会の古い方の案内板を参照すると「久原郷(現・久原1丁目)多々良に移転した」と書いてありますので、以前は字(あざ)もしくは土地の名称で「多々良」名があったと思われます。
あと、多々良の場所について、これも私の想像ですが寺院と言うことですから、寺島みたいに海から直接塩害などの影響を受ける所ではなく、たぶんに小高い所だった可能性もあるかもしれません。引っ越し先の多々良について、現時点では、これ以上のことは調べきれていないので、いずれ、もう少し詳細に調べて判明すれば、この部分は訂正し、書き加えたいと考えています。
大村藩領絵図の弁天(寺嶋)について
大村藩領絵図は、江戸時代に作成されました。この絵図は、私達のような一般の者には、九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)で現在の大村市部分が見られます。(全体の原図は長崎県立図書館に所蔵)この絵図に寺島が、描かれています。(右側上から2番目画像参照) この絵図の説明ですが、右側文字に弁天=寺嶋が見えます。また、この島は元々、陸から離れていましたが、(大村)郷村記によれば、「弘化三(1846)年に陸地側から石垣を突き出し陸続きになったと記述されています。
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中央やや右下側:弁天(寺嶋)(まわりは大村湾)
中央やや右側の色の薄い道:島に渡る道もあったようだ。
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しかし、この絵図には明らかに島の周囲は点線で囲って、海と浅い瀬と区別して描かれています。当然、陸続きになっていれば、その石垣の状況(この当時あったとしたら長さは約120m)もないといけないのですが、この絵図には、長い石垣がなく陸側と(弁天と書いてある)寺嶋の中間部分は、浅瀬みたいに描かれているようです。
念のため、「絵図に石垣などは描いていないのでは」と指摘される方もいるかもしれませんが、右側絵図の前船津(漁港)の左側(西側)や、別に描いてある玖島城(大村城)周辺の護岸(石垣)は、黒の太い実線で描かれています。このように前船津から寺島へ渡る所が、当時まだまだ浅瀬状態の頃には、私の想像にしかなりませんが、たぶん島に渡るのに引き潮の時に濡れながら歩いたか、あるいは舟で渡っていたとも思われます。
なぜ、絵図上は”弁天”なのか推測論
あと、さらに私の推測で語るならば、島名について(右側上から2番目画像には)弁天と言う文字になっているので、寺嶋と描くより、こちらの名称が大村藩領絵図作成時には有名だったのかもしれません。なお、絵図より後期に出来た(大村)郷村記には、”寺嶋”と、ちゃんと島名が記述されています。
絵図を描かれた測量方(役人=侍)は現代風に言えば”技術者”だったと思います。そして、さらに想像して考えれば、大村藩領絵図の作成が早期だったと言う背景も当然ありますが、まだまだ江戸時代に大村藩が創作(偽装)した”大村の歴史の二大偽装事項”(994年に大村氏は四国から来て寺島に上陸した=大村氏系図説=「大村千年の歴史」説と、「大村純伊」伝説=大村寿司・郡三踊りの起源説など)が、”定着”していない頃に、この絵図は作成されたとも考えられるのです。
大村藩は、絵図よりも後期の記録、例えば(大村)郷村記には沢山の項目で、”大村の歴史の二大偽装事項”を繰り返し書いていますが、実は、このページ後の項目で書く予定の「大村郷村記の寺嶋の記述について」にも、大村藩領絵図と似たような感じで淡々と記述されているのです。本来ならば最低でも絵図にも例えば先に掲載中の箕島や臼島と同じように島名の”寺嶋”と書いてもおかしくはないのです。
それが、龍神島の「龍神堂」と同じように、大村藩領絵図には寺島のことを弁天と神社名で、なぜ描いているのでしょうか。念のため、赤島、そうけ島などは、寺島より小さな島なのにキチンと島名で書いてあることも紹介しておきます。いずれにしても、まだまだ”大村の歴史の二大偽装事項”が定着していない頃に、真面目な”技術者”の測量方(役人)は、島名より当時地元で有名だった弁天と言う書き方をされたのだと推測しています。この件は、後の項目でも触れたいと思っています。
大村郷村記の寺嶋の記述について
大村郷村記(藤野保編)には、寺嶋のことが、第一巻、88ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記上できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
「一 寺嶋
前船津より六拾間程の所にあり、周廻貮町貮拾七間、東西五拾六間、南北貮拾貮間、嶋形平夷、古松間原に生し風景大によし、嶋内に辮財天の石祠あり (事出神社の部) 東の方磯邊に妻夫石とてニッの大石あり (事出妻夫石の條下) 此嶋奮は満潮の時は船渡しなりしに、弘化三丙 午年嶋と陸より石垣を築出し、今は陸績となる (事出浦湊前舟津之條下) 此嶋に先年寺院あり、寺嶋山吉祥院と云 (辮才天の別當 ) 元緑七年當寺を多々良に移すなり 」
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 ( )内は解釈上の補足などです。
< 寺嶋(てらしま)
前船津より約109mほどの所ある。(島の)周囲は約267mである。東西約101m、南北約40m。島の形状は複雑ではなく、松がたくさん生えていて風景が大変良い。島内には弁財天(弁天様)の石祠(せきし)がある。(詳細は神社の部参照) 東のほうに磯に妻夫石(めおといし)と言う二つの大きな石である。(詳細は妻夫石の項を参照) この島に行くには満潮時は舟で渡るため、弘化三(1846)年に陸地側から石垣を突き出し陸続きになっている。 (詳細は浦湊前舟津の項を参照) この島に以前、寺院があった。寺嶋山吉祥院と言う。(弁財天の別当=弁財天の付属の寺院) 元禄七(1694)年、この寺を多々良(たたら)に移設した。>
補足:(大村)郷村記の現代語訳に、私の方の推測含めて補足したいと考えています。全体、島の大きさや概略の状況などは、これまで紹介してきました8つの島の記述と大差ないと思われます。ただ、別の「神社の部」とか「妻夫石」の項目に詳細に書いているとは言え、意外と思うほど本来書いてもおかしくない「大村直純などの作られた偽装の歴史」関係の記述が、この項目には何もなくアッサリ書いてあります。
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寺島の中(奥中央に石祠が二つある)
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市杵島神社と竜神社
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あと、島名の由来となった(上記の大村郷村記の「寺嶋山吉祥院」と省略して書いてありますが、別の第1巻192〜193ページ「神社の部」の弁財天の項目には「寺島山妙音寺吉祥院」とフルネームで書いてあります。また、円融寺の末寺とも記述されています。
ここからは私の個人的な感想にしかなりませんが、この島にあった弁財天(弁天様)と寺島山妙音寺吉祥院との関係が、神仏習合(神仏混淆、神仏混合)との関係で、当時このようになっていたのだなあと概略は把握はしています。しかし、詳細が記述されている別の「神社の部」などを見ても、なかなか分かりづらい面があります。あと、この神仏習合の弁財天、大黒天などは、1868 年(慶応4)年の神仏廃止礼によって、それまであった市杵島神社(いちきしまじんじゃ)となったようです。
寺島にある市杵島神社と竜神社について
先の項目でも書きました通り、寺島内に江戸時代まであった七福神として有名な弁財天(弁天様)、大黒天などは、1868 年(慶応4)年の神仏廃止礼によってなくなりました。しかし、その後、この島には、市杵島神社(注1)が建立され、龍神社(りゅじんしゃ)も龍神島より遷座(注2)されてきました。
(注1):市杵島神社とは、市杵島(いちきしまひめのみこと)を祀る神社である。市杵島=(いちきしまひめのみこと市杵島(いちきしまひめのみこと、市杵島姫命、市寸島比売命)とは日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)の時に生まれた三女神の一つである。福岡県の宗像(むなかた)大社の辺津(へつ)宮の祭神。
(注2):遷座とは、神仏が神仏または天皇の座を他の場所に移すこと。また、それが移ること。 (注1)と(注2)は国語辞典の大辞泉より。
この件については、寺島の中にある教育委員会が設置した古い方の案内板に、次の<>内の通り書いてあります。原文は縦書きで、( )内は上野の補足です。 < 三 市杵島神社、竜神社 寛文元年(1661年)妙音寺建立に際し弁財天(弁天様)及び大黒天等 併せ祀ったが明治三年(1870年)神沸混淆廃止令により、市杵島神社となり、今では子供の守護神とされている。竜神社は玖島崎竜神島に建てられ明治八年(1875年)遷座したもの。>
この寺島の市杵島神社と竜神社についての建立や遷座についての説明は、簡潔で分かりやすいので、これ以上重複して書き加える必要はないと思われます。ただ、この教育委員会の案内板にある「明治三年(1870年)神沸混淆廃止令」の部分ですが、先に「慶応4年(1868)」に出された通達を挙げられている場合もあるようです。あと、上記<>内以外の部分で次から市杵島神社と竜神社について、私の補足を書いていきます。
市杵島神社について、思い出されるのは先に掲載中の箕島紹介ページにも、この名称と同じ神社があったことです。この神社は、長崎空港の建設により現在は富松神社の境内に遷座されています。このように箕島も寺島の市杵島神社とも、なぜ島にあるのかと言うことですが、それは先の国語辞典でも紹介しました福岡県宗像市にある宗像大社ホームページの「由緒と歴史」ページをご覧になれば良く分かります。このページに道の神様で「遠く大陸に渡った遣唐使なども、交通安全のために必ず参拝をしていました」とも書いてあります。
つまり、海運の神様でもあるので箕島も寺島にも祀られたと思われます。また、先の宗像大社の「由緒と歴史」には「弁天様について」の項目も書いてあり、神仏習合により市杵島・辺津(へつ)宮の祭神と同時に弁財天(弁天様)も同じ境内に祀られてきたと思われます。
竜神社についての補足は、既に龍神島紹介ページに書いていますので省略します。ただし、先の項目で紹介しました寺島の古い方の案内板にある<竜神社は玖島崎竜神島に建てられ明治八年(1875年)遷座したもの>の記述について、私は個人的な疑問があります。それは、先の案内板にある通り、明治八年(1875年)に龍神島から寺島へ遷座(移転)したにも関わらず、現在も龍神島には龍神社が現存しています。
普通は遷座すれば元あった場所に龍神社はなくなるはずですが、なぜ、元あった龍神島にも同じ龍神社が現在もあるのか、今回そこまでは調べきれませんでした。もしかしたら、遷座ではなく分祀(本社と同じ祭神を、別に神社を設けてまつること)だった可能性もあるのですが。いずれにしても近代になってからの事柄ですから、何らかの理由が判明したら、また追加掲載すると言うことで、このページではご了承願います。
創作(偽装)の歴史事項と大村市指定史跡の寺島
江戸時代の大村藩が記述した創作(偽装)した大村の歴史事項全体については、既に私が先に掲載しています「お殿様の偽装(もくじページ)」、「大村の偽装の歴史や表現一覧表など」のページから、ご覧になれるようになっています。また、その一連のシリーズの中から今回の寺島紹介の案内板(歴史事項含む)についても、「正々堂々と正して欲しい」ページに写真付きで掲載しています。
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”極めつけの偽装の歴史”案内板
大村市指定史跡の寺島
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詳細は、先のリンク先ページをご覧頂くこととして、寺島は、「大村市内の指定文化財一覧」ページを見ますと、種別の「史跡」で指定文化財になっています。また、そのことを詳細に書いたような大村市設置の案内板(右側写真参照)が寺島内にあります。それには省略して概要を書きますと、<平安時代中期の正暦5年(994年)藤原純友の孫である直澄(なおずみ=大村家の始祖)が寺島に上陸し、以後、大村を治めた>みたいな書き方です。
これら(特に、大村氏系図)に対し、戦前は大村の偉人とも言われている黒板勝美氏(東京帝国大学教授、肩書きは全て当時、以降も同じ)、我が国最高の系図の名著と言われている姓氏家系大辞典を書いた太田亮氏(立命館大などの教授)を始め、さらには1970年〜1980年代では長崎県の歴史に詳しい外山幹夫氏(長崎大学教授)、河野忠博氏(大村史談会・会長)などの書籍、論文類では、「大村氏系図(四国から994年に大村氏が大村に来て寺島に上陸したことなど)」の事項は、全て江戸時代、大村藩の創作、偽装の歴史だと断定されています。また、明確に改善を求めてもおられました。
さらに、近年では大村氏の末裔でもあられる勝田直子氏も『大村史談 第五十七号』(2006年3月31日大村史談会発行)18〜19ページに<大村系図中の「直澄」はあくまでも架空の人物で、・・・(中略)・・・・むすび・・・(中略)・・現在、郷土史紹介のパンフレットなどに使われている「大村千年の歴史」とか「大村正史によれば」などの言葉は、謳い文句とはいえ、これは止めるべきである。(後略)>とまで書かれています。
「古記録に書いてあるから」では通用しない時代
もう、大村氏系図も大村氏の始祖と言われているが実在が証明されていない「大村直澄」の寺島上陸事項(大村市指定史跡の案内板などの記述)含めて、先の先生方ばかりではなく市民レベルでも通用しない歴史事項なのです。以前なら言い訳や、ただし書きみたいにして(”前歴第一主義”の)「江戸時代の古記録に書いてあるから・・・」とか「大村氏系図には異説もあるが一つの史料なので・・」みたいなことを書いていれば偽装の表現でも事足りていたかもしれません。しかし、それは情報化時代の現在において逆作用を果たしています。
先の名だたる各先生方から指摘され、改善を求めておられる間違った歴史事項を今なお大村市の公式な書籍、パンフレット、チラシ、ホームページ類に但し書き付きで掲載すると、次々とマスコミ、出版社、市民レベルでも拡大再生産されます。しかも、その時点では「但し書き」抜きのおびただしい数の間違い記述に発展しています。特に、もう一つの大村の創作(偽装)の歴史である「大村純伊」伝説(郡三踊=寿古踊・沖田踊・黒丸踊や大村寿司の起源など)のホームページ類は数えきれないくらいあります。
大村の島は全島を市指定文化財にしても良いのでは
私は、先の先生方の意見に賛同し、寺島についての大村氏上陸説などの創作(偽装)の歴史(案内板の記述など)は改善すべきだと思います。この件について、私は大村市に期待もしています。なぜなら、別の歴史表現の件で2011年3月31日に上野宛てに大村市から回答文が公式にありました。この件は、別機会に掲載しようと思っていますが、簡単に言えば「994年に大村氏が大村来た」と言う創作(偽装)の歴史をもとに作られたキャッチコピーみたいな「大村千年の歴史」の表現について市から概略「削除、今後記述しない」と言う回答文でした。
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中央奥:寺島(まわりは大村湾)
中央の道:島に渡る道。島一周できる小道もある
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この件は、キャッチコピーとはいえ大村市が第4次大村市総合計画(2006-2015)、公式ガイドブック、公式ホームページ類などで、間違った「大村千年の歴史」表現を2005年に復活させたばかりに新聞やテレビなどのマスコミ関係で度々使用された用語でもありました。それを、2011年春に訂正されたと言うことです。このように大村市は、どこかの官庁のように例え間違い指摘を国民からされても、何かと”前歴第一主義”や得意の”言い訳”を用いて固執する役所よりは、道理ある主張には耳を貸す姿勢があるような気もしてはいます。
そのようなことから、この寺島の市指定史跡の件についても、別な区分けで解決されればいいなあと思います。それは分かりやすく言えば「歴史文化財」ではなく「自然文化財」みたいな位置付け変更です。つまり、歴史事項優先ではなく、自然面や景観面からの価値を再評価・再認識して、寺島だけでなく鹿島、臼島、盗人島、龍神島の市内現存5島全部を自然面から市指定文化財にしたらいいのではないかとも思います。
中には島の海岸線を堤防で固められた所もありますが、太古の昔からそのままの海岸線や大村の他の地域ではないような自然環境と景色を持つ島も多いです。また、たとえ堤防に囲まれた島でも、その島内は自然豊かな所も、マダマダあります。この寺島も、そうです。創作(偽装)の歴史事項に固執するより、むしろ自然の豊かさや風光明媚さを前面に出すことが、この寺島含めて全島の魅力に繋がるような気もします。
まとめ
私は、この寺島には5回ほど行ったと思います。そのほとんどが、郷土史関係目的でした。ただし、「大村湾ウォッチング」と言う行事名で寺島周辺で開催された子どもさんたちを中心とした自然体験・交流体験の取材にも行ってました。先の項目でも紹介しましたが、島の中には市杵島神社と竜神社などもあります。
島一周できる小道も完全に整備されていますから安全に散策できます。この周辺近くでは、高校生のボート部による練習風景や前船津漁港に出入りされている漁船の白波も見える時もありました。前に広がる波静かな大村湾や西彼杵半島などの眺望も楽しめます。静かで、ゆっくり、のんびり出来る島です。機会あれば、ご覧頂きたい大村の島の一つと思います。 (ページ完了)
大村の島シリーズ:臼島、鹿島、龍神島、寺島、盗人島、箕島、赤島、がろう島、そうけ島、弁天島
(初回原稿掲載:2011年9月16日、第2次掲載:2011年9月19日、第3次掲載:2011年9月21日、第4次掲載:2011年9月25日、第5次掲載:2011年9月29日、第4次掲載:2011年9月30日、第5次掲載:2011年12月13日、第6次掲載:2011年12月14日、第7次掲載:2011年12月15日)