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弁天島(写真左側の細長い島。右側部分は臼島の一部。右側が北方向で手前側が大村市街地)
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弁天島(べんてんじま)
弁天島は、目測で大雑把な数字ながら島の周囲230m位、南北115m位、東西20m位の細長い形状です。この島は、干潮時に臼島から陸続きになり歩いて渡れます。島には、松や雑木が生えています。
この島の海岸線は、全体明るい感じの砂岩系の岩場が連なり、他の大村市内の海岸線にない魅力があります。特に、特徴ある岩の形と縞模様が良く、まるで自然の造形美のようです。また、単に美しいと言うだけでなく、太古からの海岸線が自然のままある言う意味でも大村の貴重な財産と言えるでしょう。
臼島から弁天島に上陸して約10段の階段を登ると、そこは弁財天の境内になり、石灯籠などが手前側にあります。さらに数メートル進むと元々洞窟だった所にセメントで三方を固め、その場所に弁財天が祀ってあります。この弁財天は昭和時代の建立と思われます。階段登った左側(境内南東側)には、江戸時代建立と思われる古い弁財天もあります。
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弁天島と臼島(大村藩領絵図)
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大村藩領絵図の弁天島
まず、左側の画像を参照願います。(大村)郷村記より相当早く完成した大村藩領絵図に弁天島は、臼島や立カ三崎とともには描かれています。左画像では分かりにくいかもしれませんが、中央部に「辮才天(弁才天)」の黒い文字が見えます。この細長い部分が弁天島です。あと、同様に上部右側が「臼島」、下部側に「立カ三崎」の文字が描かれています。
左側の大村藩領絵図に描かれている弁天島も臼島も、現在の地図や航空写真と見比べてみても、かなり正確です。特に、海岸線、細かい瀬や岬部分まで良く描いてあります。たぶんに江戸時代当時に、実地測量したものと思います。
大村郷村記の弁天島
大村郷村記(藤野保編)には、臼島や弁天島のことが、第一巻、88ページに記述されています。ただし、この88ページ部分の多くは、臼島についての記述です。臼島についての大村郷村記内容の詳細は、既に掲載中の臼島ページを参照願います。
そのため、この弁天島ページでは、関係ある部分のみを書いていきます。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
「一 臼嶋 (中略) 此臼嶋績續西南の間にある出崎を亀と云ふ (岩石の形馬亀に似たるゆへ此名あり、 又辮財天の祠ある故、辮天の鼻とも云 ) 周廻壼町五拾八間、大巖石の小嶋にて、岩上小松間原に生し、四面荒磯、南の方に長き瀬績あり、風景大ひによし、臼嶋の方に岩窟あり、窟中に辮財天鎭座あり、此亀臼嶋より相隔たる事貳拾間、干潮の時は歩行渡よし、 満潮の時と雖とも小船も通らさるなり 」
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弁天島(写真下側)と臼島(写真上側で北方向である。右方向が大村市街地)(グーグルアース写真より) |
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 ( )内は上野の解釈上の補足などです。また、下記の太文字は、上野が付けたものです。
< 臼島(うすしま) (中略) この臼島から続いて西南の間にある岬を亀と言う。(岩の形状が馬亀に似ているので、この名前が付いている) また、(ここには)弁財天(弁天様)の石祠(せきし)があるので弁天の鼻(弁天の岬)とも言う。(弁天島や岬の)周囲は約213m、大岩石の小島で、その岩の上の野原には松の木が生えていて、四方は岩場の磯(海岸)である。
南の方に長い瀬の続きがある。風景が大変良い。臼島の方に岩の洞窟があって、その洞窟の中に弁財天(弁天様)が鎮座している。この亀の岬は臼島よりの距離約24mである。干潮の時には歩いて渡れる。満潮の時には小船も通ることができる。 >
先の(大村)郷村記には、弁天島の大きさや風景とともに、この島名の由来とも思える「洞窟の中に弁財天(弁天様)が鎮座している」ことも書いてあります。なぜ、私が、先に「洞窟の中に弁財天」と書いているかについては、次の項目とも関係あります。
弁天島の史跡
この弁天島の史跡で江戸時代からあった状況は、上記の(大村)郷村記の通りです。現在でも、臼島から弁天島に上陸して約10段の階段を登ると、そこは弁財天の境内になっています。その境内手前側に石灯籠などがあり、さらに数メートル進むと元々洞窟だった所にセメントで三方を固め、その場所に弁財天が祀ってあります。
つまり、(大村)郷村記には、(現代語訳で)「洞窟の中に弁財天(弁天様)が鎮座している」と書いてありますが、現在はそのような自然の洞窟ではなくセメントで固められた同じ場所ではないかと思えます。この推測が正しければ、江戸時代当時の自然洞窟は、現在、拝礼する正面以外、屋根、奥や周囲の壁など三方をコンクリートで覆った形になっています。
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弁天島、弁財天の境内(右奥側が現在の弁財天。正面以外の三方がセメントで固められている。左側の石祠が江戸時代の弁財天と推測される)
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(左側写真参照)この弁財天のお堂((コンクリート部分)の大きさは、目測ながら高さ、横幅と奥行きは、2m前後と思われます。ここは海に囲まれ風雨あるいは高潮の影響を強く受けながらも、全体綺麗な状況です。
これは、私の推測ながら後の項目で掲載予定の『昭和三十三年の石灯籠』を建立された1958年頃に洞窟部分も整備され、新しい弁財天が置かれたたものと思われるからです。
また、江戸時代建立と思われる別の弁財天は、東側(写真の左側方向、石祠内)にあるものと思われます。あと、これから、さらに私の想像を重ねますが、この洞窟を整備されたのは日帰りの1日で出来たとは思えませんでした。
もしかしたら、臼島側の標高10m弱に平地があり、そこに今でも民家でも建てられる規模のコンクリート基礎が残っていますが、そこに以前、建物があった頃に寝泊りをされ、何日かかけてここを整備されたのではないだろうかとも思えます。素人目にも、この堂は、大変しっかりした造りです。
あと、昭和時代(1958年頃)に地面の平坦化なども含め全面的に境内を整備された関係からか、江戸時代からあると思われる石祠や石灯籠、さらには各史跡がバランス良く配置されいます。
そのため、左側写真を参照して頂ければ雰囲気はお分かりいただけるかとは思いますが、小さな島にある史跡とは思えない位に、全体がまとまった感じに見えます。たぶんに、そのようなことも事前に良く考えて、当時整備されたのだと、私は想像しました。
新しい弁財天
この項目から私の調べた史跡と、見学はしましたが碑文などが確認できなかった史跡などを紹介していきます。最初に、仮題みたいにしていますが、建立年代が不明なため新しい弁財天(右下側写真参照)から先に書きます。この「新しい」と言う表現は、後の項目で掲載します江戸時代建立と思われる弁財天(上記左側写真と説明文参照)と対比しての言葉です。
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新しい弁財天(写真中央奥側、琵琶を持った姿)
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(1)建立年、建立者、像制作者について、この弁財天の周囲はさっらと見ました。もしかしたら、どこかに彫ってあるのかもしれませんが、先の事項についての確認はできませんでした。ただし、後の項目で紹介予定の昭和三十三年の石灯籠に彫ってある碑文と同じ年と制作者とするなら次の「」内のことが参考になります。
概略紹介で「昭和33年(1958)に田野氏が藍綬褒章を受章」、「彫刻師 天草 大塚源作」とあります。しかし、正確に言えば、この石灯籠と新しい弁財天と同じ年、同一人物かどうかは不明です。ただ、このような石灯籠は、今まで私が見た範囲内で神社仏閣の創建、再建、改築の記念碑的なものとして建立されるので先の事柄は、同じと推測できることが充分考えられます。
(2)この弁財天本体の大きさは、高さ約126cm、横幅約75cm、周囲(足の部分)約161cmです。土台部分は計測しませんでしたが、目測で高さ約30cm、横幅と奥行きともに約100cm四方と思っています。像の材質はコンクリート製と思われます。
(3)形について、右上側写真通りですが、右足を胡坐して左足を立てて琵琶を弾いている姿です。見た目の印象として、まず琵琶部分が大きく感じました。顔、手(指)部分は細かい細工に見えましたが、あとは材質の関係からか大味形状とも思えました。ただし、全体像としては、良い形といえるでしょう。
以上のことなどから、新しい弁財天が上野の推測通り「1958(昭和33)年に勲章を受賞され、その後年に洞窟部分も整備され、新しい弁財天が置かれたもの」とするならば、後の項目で紹介予定の2基の石灯籠とともに建立や整備が一緒にされたのではないでしょうか。 逆に考えれば、弁財天、お堂、境内整備の記念碑的なこととして2基の石灯籠が建立されたのかもしれません。
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古い弁財天(中央部石祠内の小さな石像)
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古い弁財天
まず、左側写真中央部にある石祠(せきし)の中をご覧願います。ここに小さく石像が写っていますが、これが、私が便宜上古い弁財天と呼称しているものです。ただし、この古い弁財天について、碑文とか何か確かな根拠があって言っているのではなく、2012年の現段階で私の見た推測として書いていますので、その点ご注意願います。
この弁財天は、江戸時代の建立と思われます。先の項目で新しい弁財天(直ぐ上部の写真2枚も参照)を紹介しましたが、それはここより東側方向にあります。私の推測が正しければ1958(昭和33)年に新しい弁財天が建立された時に、古い弁財天の方は、現在地へ移されたものと推測しています。両石像を見比べて、こちらは明らかに古い造りで、しかも表面に付いた汚れなども含めて年代を感じます。
この古い弁財天は、先の(大村)郷村記の通り、江戸時代は「洞窟の中に弁財天(弁天様)が鎮座」していたと思われます。私が、今回調査した日に時間の関係上、拓本道具などを持って行っていなかったので、この石祠や弁財天についての碑文が詳細に調べきれませんでした。
次に、機会あれば碑文解読、計測、その他の詳細な調査を考えています。それまで、この古い弁財天についての紹介は、これ以上はできませんので、ご了承願います。
文政三年の石灯籠
この江戸時代からある石灯籠は、堂に向かって左側手前に1基だけあるものです。(このページ左側の上から2番目写真参照)また、右下側の石灯籠写真は、堂に向かって内側のやや手前側から撮ったものです。同じく(背景色が薄い青色のGIF画像=)石灯籠碑文の活字版の内側と外側は、堂に向かっての向きです。
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活字版
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文政三年の石灯籠
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そのGIF画像は、内・外側に彫ってある文字を活字に直したものです。ただし、目視とデジタル画像調整などによって文字解読をしていますので正確性にやや難があります。念のため数文字は、私の推測もあります。この石灯籠について、箇条書き風に下記に紹介します。
(1)大きさについて 高さ約160cm、横幅約40cm、周囲約120cmである。
(2)右側の画像の縦書き活字版でも参照できるが、横書きに直すと次の通りである。 内側碑文:文政三年庚辰正月吉日 外側碑文:深澤太郎三郎勝憲
(3)上記(2)を現代語訳すると、下記の「」内通りと思われる。 「深澤太郎三郎勝憲が文政3年(1820)庚辰(かのえたつ、こうしん)1月吉日に建立した」
(4)碑文は、一部に苔や潮風による汚れで見えにくいが、それ以外は彫りも深く、鮮明に肉眼で見えるほどである。特に、潮風の当たりにくい内側が、良く見える。
(5)建立者の深澤太郎三郎勝憲は、野田湖を造った深澤儀太夫(ふかざわ・ぎだゆう)と同じ家系か、全く別家系かどうか、まだ調べていない。(後日、機会あれば新撰士系録などで調べてみたい)
(6)全体の評価とて、江戸時代(1820年)建立の石灯籠としては、保存状態もいいし碑文も見やすいと思う。
文政三年の石灯籠についての補足
この石灯籠の内容は、上記通りですが、ここで関連して補足を若干書いておきます。それは、私が、この種の石灯籠や奉献塔の碑文解読時に毎回のように書いてきました内容=「奉献塔や石灯籠の建立は、神社仏閣の創建・立て替え・改築などを記念して建立される例が多い」ということです。
この文政三年の石灯籠も、その例と同じならば先に書いた古い弁財天の建立年月も同一か、もしくは近い年月と推測されます。ただし、2012年12月現在で古い弁財天の詳細調査ができていないので、何とも言えませんが、その可能性はあると思っています。いずれ調査の機会があれば、改めて両史跡を確かめてみたいと思っています。
次に、この石灯籠の形についてです。(このページ直ぐ上の右側写真参照)石灯籠上部の傘(かさ)、中台(ちゅうだい)、中間部の竿(さお)、最下部の基礎含めて円筒形もしくは丸形状です。この形は、決して珍しくはないと考えられますが、私が市内で見た範囲内では少なかったと思っています。私は、どちらかと言いますと長方形もしくは四角形状の石灯籠を多く見ました。
あと、この円筒形もしくは丸形状は、下記に紹介します昭和三十三年の石灯籠にも影響を与えているようで、一部は違いますが基本形は同じと思えます。
昭和三十三年の石灯籠
この昭和33年(1958)の石灯籠は、田野澱粉(たの でんぷん)株式会社の田野社長が、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授与されたのを記念して、この弁財天に寄進されたものです。下記の碑文を読むと、そのことが良く分かります。念のため、今回の石灯籠の名称として、「昭和三十三年の石灯籠」としています。
ただし、正確に言えば、この年に石灯籠が建立されたと言うことではありません。後の項目で碑文全部を紹介しますが、この石灯籠名は田野氏が勲章を受賞された年月日から、便宜上付けた名称です。(他に年号らしき碑文はないようでした)なお、石灯籠(右下側写真で傘部=頭部が三角形をしたもの)は、2基ありますので堂に向かって右側、左側と呼称しています。また、下記の(背景色が薄い緑色のGIF画像=)石灯籠碑文の活字版の左側と右側との表記も、同じく堂に向かっての向きです。
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(中央部の参道両脇に傘部が三角形をした石灯籠2基のこと。正面側に2基とも大きな文字があり、当用漢字に直すと献燈と彫られている。あとの碑文は後方面にある) |
活字版
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昭和三十三年の石灯籠
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あと、2基とも正面側には、大きな二文字が彫られていて、その文字を当用漢字に直しますと、献燈と彫られています。その意味は、「石灯籠(2基)を(弁財天に)奉納します」と言うことです。
これから、この石灯籠2基について、箇条書き風に下記に紹介します。右側のGIF画像=活字版は、2基一緒のつながりとして書いています。念のため、碑文は写真に写っていない部分や文字が摩耗のため見えにくいので数文字を上野が推測して活字化しました。そのようなこともあって、あくまでも碑文は参考程度に、ご覧願います。
(1)大きさは、高さ約180cm、横幅約40cmである。
(2)碑文は表の薄い緑色GIF画像通り縦書きで書いているが、横書きに直すと下記の通り。現代語訳は、必要ないくらい分かりやすいので省略。
・右側碑文:昭和三十三年十一月一日政府より日本澱粉業界の功労者として藍綬褒章を授与されたる佳き日を記念して寄進を為す
・左側碑文:寄進人 大村市 田野ぶん 彫刻師 天草 大塚源作
(3)この田野澱粉株式会社の田野社長の藍綬褒章受章の件は、大村市役所発行の大村市政だより<1958(昭和33)年11月中旬号 No.192(二ページ目の上段右側)>に詳細な記事が出ている。(リンク先ページから参照)
(4)彫刻師は、ホームページ調べで天草にある「大塚源作石材店」と同じであろう。
(5)この石灯籠の文字が彫られている部分は、手で触ると、つるっとした感じで滑らかである。碑文も数文字を除くと、肉眼でもくっきりと良く見える。
ここからは、私の推測ですが、この2基の石灯籠は、先に紹介した新しい弁財天の改築と同時期に、その記念碑として建立されたものと思っています。つまり、田野氏は、1958(昭和33)年11月1日に藍綬褒章を受賞されているので、ほぼ同時期か、遅い年月日に建立されたものと考えています。
弁天島の海岸線の魅力
弁天島の海岸線は、素晴らしく魅力的です。このことは、何も私だけが言っていることではなく、江戸時代に編纂された(大村)郷村記<郷村記の原文内容は上記に書いています大村郷村記の弁天島を参照>にも、少しだけですが書いてあります。
(大村)郷村記の現代語訳で、「(弁天島や岬の)周囲は約213m、大岩石の小島で、その岩の上の野原には松の木が生えていて、四方は岩場の磯(海岸)である。南の方に長い瀬の続きがある。風景が大変良い」と書いてあります。
このように江戸時代の古記録にも、「風景大ひによし(風景が大変良い)」と、わざわざ書いてあるのですから、この島の風光明美さに当時の役人(武士)も感嘆したのでしょう。
なぜ、このようなことが、現在の大村で紹介されないのでしょうか。昔の方の美的感覚が、素晴らしいのでしょうか。
私は、限られた時間でしたので臼島に近い弁天島の北部側=弁財天周辺の海岸線しか見れませんでした。<右側の(1)〜(6)の写真参照> 南側は、次に何かの機会あれば調査したいと考えています。
まるで自然の造形美、魅力ある弁天島の海岸線
大村の海岸と言えば、どちらかと言いますと、玄武岩系の黒色か濃い茶色系の海岸や岩場が多いです。つまり、彩色的には、やや暗い色で重く感じる色がします。
しかし、この弁天島の海岸は、私が今まで大村で見たことがないような海岸線で、全体明るい感じの砂岩系の岩場が連なっていました。しかも、特徴ある岩の形と縞模様が大変良く、まるで自然の造形美のようでした。
右側の海岸写真の中でも、私が特に目を引いたのが、次の(4)から(6)の岩場でした。写真の補足説明、(4)は三角形に似た岩、(5)は明るい暖色系の美しい縞模様、(6)は「蜂の巣状風化」(風雨、波、砂などの様々な要因によって起こる風化)と思われる。<注:(6)の説明文章については、大村市文化振興課の今村氏より教えて頂いた>
私は、地質関係の知識も全く素人のため、これ以上は分からないのですが、大村ではあまり見たことのないような岩場が続いていました。さらに言えば、この島の海岸線には人の手が全く入ってなくて、まさしく太古の昔から自然そのまま、あるいは大村湾の波や潮風が作りだした地形そのままの所です。そのようなことも含めて、弁天島やその海岸線は、自然の造形美も魅力であり大村の貴重な財産といえるでしょう。
まとめ
私は、この弁天島について、大村藩領絵図や(大村)郷村記にもかいてあるので島や島の中に弁財天が存在していることとは知ってはいました。ただ、当初は臼島から突き出た岬程度にしか思っていませんでした。ところが、2012年10月30日、臼島調査の後、ついでみたいにして立ち寄った弁天島は、上記項目に書いてきました通り、けっこう特徴ある島であることが分かりました。
現在、大村市内にある中で鹿島、臼島、龍神島、寺島は、規模の大小や史跡の違いなどはありますが、どの島も似た雰囲気があります。しかし、この弁天島は、それらの島と全く違うと言ってよいほどの特色がありました。
それは先の項目に詳細に書いてきましたので、さらに重複して書くことはありませんが、簡単に言えばこれまで紹介してきた島(玄武岩系の黒っぽい色が多い)に比べ、弁天島は明るい暖色系(黄色系の砂岩)の島と言うことです。しかも、海岸線を歩いていたら、思わず見入るような縞模様始め今までの島にないような特徴のある岩もあり、なかなか美しい島です。
私は、調査時間の関係上、島の南部側は見る機会ありませんでしたので、そこは省いていますが遠目で見て、北部側がそのまま連なっている雰囲気はしました。(南部側は後で見るとしても)弁天島全体としても、この特徴・特色は同じ状況と推測しています。(大村)郷村記に「風景大ひによし(風景が大変良い)」と、書いてあるのは、「その当時の役人(武士)だけでなく、現在にも通じる言葉でもあるなあ」と、つくづく私は実感しました。
太古の昔から自然が作り出した風光明美な弁天島は、大村の貴重な財産であり、これからもずっとこの姿をとどめて、見る人を楽しませて欲しいと願っています。
大村の島シリーズ:臼島、鹿島、龍神島、寺島、盗人島、箕島、赤島、がろう島、そうけ島、弁天島
(初回原稿掲載:2012年11月25日、第2次掲載:2012年11月29日、第3次掲載:2012年11月30日、第4次掲載:2012年12月1日、第5次掲載:2012年12月2日、第6次掲載:2012年12月3日、第7次掲載:2012年12月6日、第8次掲載:2012年12月16日、第9次掲載:2012年12月18日、第10次掲載:2012年12月20日)