龍神島(りゅうじんじま)
龍神島は、大村市玖島1丁目の玖島崎(大村競艇場の東側)にある島です。この島は、大村市役所から車なら5分、大村競艇場の駐車場や玖島崎から真横みたいな位置関係にあり、直ぐに島の見学や龍神社の参詣に行ける島です。龍神島に渡るには橋が架かっているので便利です。後の「島名と八大龍王について」や「大村郷村記の龍神嶋の記述について」の項目で詳細書きますが、ここには龍神社(八大龍王)が祀ってあります。なお、橋のたもとに龍神社や龍神島についての分かりやすい案内板が設置されています。
大村競艇の駐車場脇から伸びる橋(長さ約50m)を渡り終えると島に入り、その中は静寂さがあります。龍神社の参詣だけでなく、海岸線や波静かな大村湾の海を眺めるのにもいい場所です。 島内全体が雑木林で、島の周囲の一部を除き、ほぼ海岸線は岩場になっています。島の周囲で主に南東側には、瀬のようにして大きな石も海の中に点在しています。あと、島のまわりは全体水深が浅い海のようで干潮時に橋のある側(大村競艇側)の一部では、砂地も見える所があります。(右側の上から1と2番目写真参照)
島名と八大龍王について
龍神島の名前の由来は、後の(大村)郷村記の項目でも書きますが、この島の中央部やや南東側に八大龍王の石祠(せきし)があり、祀られていることからです。八大龍王とは、国語辞典の大辞泉によりますと次の<>内の通りです。
<八大龍王=法華経賛嘆(さんだん)の法会に列した8体の護法の竜王。難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・沙伽羅(しゃがら)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら)の八竜王。雨をつかさどるという。八大竜神。八竜王。 >
一般には、龍神(竜神)、龍王(竜王)の呼び名は、親しみを込めて”龍神様”とも呼称されています。また、この龍神の名称で有名なのは、和歌山県の龍神村(現在、田辺市龍神村)です。この村名の由来は、龍神観光協会サイトを参照しますと、上記の八大龍王の一つである難陀龍王(なんだりゅうおう)から来ているようです。
また、国語辞典の大辞泉には、竜王について次の<>内のことが解説されています。<竜王=竜を神格化した呼び方。雨・水などをつかさどるとされ、漁師は海神として信仰することが多い。竜王。>
全国には、上記のようなことから海、川、滝、池、沼などの近くに龍王(竜王)が祀られている例があるようです。今回の龍神島も海(大村湾)にある島ですから、先の辞典の通り、漁師の方ならば海神として信仰されているのでしょう。
また、龍神島に渡る橋のたもとにある案内板(龍神社奉賛会)には、「(前略) 特に藩政時代には生業の繁栄と家内安全、開運の守護神とされ賑わった。雨乞いには彼杵・川棚・波佐見・江ノ串・宮村の浮立が演され月、輪、天人、鬼神、囃(はやし)などで七日間踊られたという。 (後略)」と書かれています。注:( )内などは上野の方で一部補足をしています。
このようなことからも分かる通り龍神島の八大龍王は、海だから漁師関係だけと言うことではなく、昔から(私の推測ながら)もっと広範囲に地元の商工業、農業関係あるいは先の案内板紹介の通り大村周辺の村々とも関係が深かったのかもしれません。なお、先の案内板にある「雨乞い」とか踊りの「浮立」と言う事柄は、農業と深く関係している事柄とも思えます。
大村藩領絵図の龍神堂(龍神嶋)について
大村藩領絵図は、江戸時代に作成されました。この絵図は、私のような一般の者には、九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )という本の附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)で、主に現在の大村市部分が見られます。(大村藩領全体の原図は長崎県立図書館に所蔵)右側の上から4番目画像も、九葉実録・別冊の附図からです。この大村藩領絵図に龍神島が、描かれています。(右側上から4番目画像参照) この絵図の説明ですが、右側文字に龍神堂(龍神嶋)、左側文字に嶋崎(現在の”玖島崎”のことと思われる)が見えます。
ここからは私の推測ですが、この大村藩領絵図の原図(全部)揃えると、大広間でしか見れない位の巨大さですから現在のように龍神島に渡る橋が当時もあったならば、その状況を描けたと思われます。しかし、そのような橋は、右画像を見てもありません。私の想像にしかなりませんが、たぶん当時、龍神島に渡るのに橋ではなくて、舟で渡っていたか、あるいは可能性は低いのですが引き潮の時に濡れながら歩いて渡っていたとも思われます。
右画像の上から2番目の南西側(画像の中央やや下左側方向)に(白色で少しL字にも見える)10m弱の埠頭みたいなもの(現在はコンクリートで固められている)が見えます。ここが、龍神島の舟を横付けする場所だったとも思われます。もしも、このような私の推測が正しければ橋が架かるまでは、舟を所有していた人達(漁師など)や、そのような舟に同乗させてもらった人しか、お参りするにも行けなかった可能性があります。
あと、この絵図を見て、さらに推測で語るならば、島名について(右側上から4番目画像には)龍神堂と言う文字になっています。これは龍神嶋と描くより、こちらの名称が大村藩領絵図作成時には有名だったのかもしれません。さらに想像すれば、当時の政務の中心地=玖島城(大村城)敷地からも、この龍神堂が直接見えていたと思われます。
なお、大村藩領絵図より後期に出来た(大村)郷村記には、”龍神嶋”と島名で記述されています。(次の項目参照) さらに、この絵図には、龍神堂の”堂”(神仏を祭る建物)と言う表現を用いているので、もしかしたら島には、八大龍王の石祠(いしほこら)だけでなく当時から、お堂(建物)もあったのかもしれません。
大村郷村記の龍神嶋の記述について
大村郷村記(藤野保編)には、龍神嶋のことが、第一巻、88ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記上できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
「一 龍神嶋 垂迹嶋?
板鋪浦内にあり、周廻壹町三拾八間、松樹數拾株生す、此處に八大龍王の石祠あり 事出神社之部 故に龍神嶋の名あり 」
(注:上記、島名の見出しの後半、”?”のマークは、パソコンで変換できない文字(略号、記号)。意味は後の現代語訳部分を参照)
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 ( )内は上野の解釈上の補足などです。
< 龍神島(りゅうじんじま) (別名)垂迹嶋(すいじゃくじま)とも言う
(大村湾内の)板鋪浦(いたじきうら)にある。(島の)周囲は約166mである。 松の木が十株(10本位)生えている。この場所に八大龍王の石祠(せきし)がある。 (詳細は神社の部に書いてある) この由来から龍神島の名称となっている>
なお、(別名の)垂迹嶋(すいじゃくじま)について、少し言葉の意味を補足します。国語辞典の大辞泉によれば、垂迹(すいじゃく)とは、次の<>内の通りに書いてあります。<仏語。仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れること。「本地(ほんじ)垂迹」> ここからは私の補足ですが、本地垂迹は極簡単に分かりやすく言えば神仏習合・神仏混淆で平安時代頃から明治維新前までの長い期間続き、多くの場合、法華経・大日経に基づいて説かれたものと言われています。大村の”権現様”と言われている所も、同様です。
まとめ
龍神島紹介ページも、最後のまとめを書くことになりました。個人的なことながら、この島には今まで10回近くは行ったと思います。何事も「百聞は一見にしかず」で、この島があって、この島に龍神社(八大龍王)が、なぜ鎮座しておられるのか、詳細分からずとも周囲を散策していると何とはなしに理解できたような気がしました。島のまわりを眺めていると、その第一が海(大村湾)だと言うことと、さらに近場の漁師さんたちが海神として信仰されていたことの影響が大きいのかなあと思いました。
この龍神島の原稿掲載に当たっては、地元の方々の取材などは全くせずに書いていますので、私の思い違いその他もあるかもしれません。また、後で何かのご指摘やご教示頂ければ、このページは、今後も改訂していきたいと考えてもいます。そのようなことを申し述べて、次の寺島紹介ページも、龍神社(八大龍王)と関係深い島ですので、また何か分かれば補足もしたいと思っています。最後になりましたが、この龍神島紹介ページを、ご覧頂き、ありがとうございました。
大村の島シリーズ:臼島、鹿島、龍神島、寺島、盗人島、箕島、赤島、がろう島、そうけ島、弁天島
(初回原稿掲載:2011年9月2日、第2次掲載:2011年9月5日、第3次掲載:2011年9月7日、第4次掲載:2011年9月9日、第5次掲載:2011年9月11日、第6次掲載:2011年9月16日)