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臼島(写真左側=南側は臼島から繋がった弁天島)
(写真右側が北方向で手前側が大村市街地)
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臼島(うすしま)
臼島は、大村湾内にあって、現在でも緑豊かな美しい島の一つです。また、ほぼ昔のままの形で存在しています。この島は、大村市内と限定した場合、(全部の島の面積データがないので不正確ではあるのですが)箕島が存在していた時代なら、それに次いでニ番目に大きな島と思われます。大村港から直線距離で約800m離れています。右写真でもお分かりの通り、南側方向には、臼島の横の弁天島さらに長細い岬(大村藩領絵図では「立カミ崎」との文字がある」)や瀬(現在は”亀瀬”とも言う)があります。
この島は江戸時代、大村藩の政治の中心地だった玖島城(大村城)から、現在は大村市役所あるいは市街地からも近い島です。臼島は、無人島ではあるのですが、それでも夏休み時期に子どもさん達が「臼島探検」などの行事で上陸し楽しまれています。
さらに島に直接行かれたことがなくても、対岸にあるショッピングセンター周辺から直線で約650mの位置で良く見えるため、けっこう大村市民にとっては馴染みのある島でもあります。長崎空港建設で箕島が埋め立てられたので、現在の大村市内においては、この臼島が大村の島を代表するような感じとなっているでしょう。
島名の由来
臼島の名前の由来は、そのものズバリ、米などを搗く(つく)臼に島の形が似ていたからだと言われています。この臼にも様々な形があります。正月やお祝い事用に餅が用意されますが、あの餅を機械を使わずに人の手でつく場合、木臼(木製品)でも石臼(石製品)でも、けっこう奥行きがあって深みのある=球形よりも長いタイプの臼が使われている場合が多いのではないでしょうか。(もちろん、半球形体の臼も使われていますが)
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臼島(写真上側が北方向で右方向が大村市街地、下側部分が弁天島)
(グーグルアース写真より)
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そして、この奥行きのある臼は、石臼、木臼とも農家などには以前はよく見かけられました。農家にある餅つき用の臼は現在でも使用されている場合もありますが、機械化が進んでいない頃には、米などの農作物の脱穀、あるいは何かをすりつぶして食べる時の調理器具(現在ならミキサー)の役割もありました。さらに、水車で米をつく場合、たいてい背の低い半球形状の石臼でした。
臼島は右上側写真でも分かる通り、半球形みたいな島の姿をしています。ここからは私の推測・想像ですが、臼島の島名の由来は同じ臼でも、どちらかと言うと水車で用いられた、背の低い半球形状の石臼からだと思います。この臼の形が、臼島の島姿にピッタリ似ているからです。しかも、ほぼ360度どこから見ても同じ形状に見えます。
箕島ページにも同様のことを書いていますが、箕島、そうけ島、臼島は農具や調理器具に由来した島名となっています。それらは、それだけ当時、農具などが仕事上、生活上とも深い結びつきが強かったことも意味しているような気がします。
大村郷村記の臼嶋の記述について
大村郷村記(藤野保編)には、臼嶋のことが、第一巻、88ページに記述されています。また、同じく89ページには臼島や弁天島とつながった亀瀬についての記述もあります。そのため、今回、この臼島と亀瀬は関係がありますので、両方このページに書いています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
「一 臼嶋
草場浦本町波戸先より拾壼町程の處にあり、周廻拾貳町三間、東西貳町五拾、南北六町貳拾間、嶋中一圓松雑木立 (用山壼町程) にて、山間に櫻樹藪百株あり、 櫻花欄漫の比は甚美観なり、北の方山腹に狼煙釜あり(事出狼煙場之條下)此臼嶋績續西南の間にある出崎を亀と云ふ (岩石の形馬亀に似たるゆへ此名あり、 又辮財天の祠ある故、辮天の鼻とも云 ) 周廻壼町五拾八間、大巖石の小嶋にて、岩上小松間原に生し、四面荒磯、南の方に長き瀬績あり、風景大ひによし、臼嶋の方に岩窟あり、窟中に辮財天鎭座あり、此亀臼嶋より相隔たる事貳拾間、干潮の時は歩行渡よし、 満潮の時と雖とも小船も通らさるなり 」
「一 亀瀬
臼嶋辮天の鼻より南の方七拾間程の所にあり、底瀬 にして長貳拾間、横拾間程あり、大潮干の時は瀬頭少し出るなり」
現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。 ( )内は上野の解釈上の補足などです。
< 臼島(うすしま)
(この島は)草場浦にあり(大村)本町の波止場の先より約1200mほどの所にある。(島の)周囲は約1,313m、東西(の長さ)約310m、南北(の長さ)約690mである。島の中一帯に松と雑木林(この広さは9,917平方メートル)で、山間部には桜の木などが100株(本)ある。桜花爛漫の頃は大変美しい景観である。
北側の山の中腹には狼煙場(のろしば)の釜がある。(後に出てくる「狼煙場の事」から引用) この臼島から続いて西南の間にある岬を亀と言う。(岩の形状が馬亀に似ているので、この名前が付いている) また、(ここには)弁財天(弁天様)の石祠(せきし)があるので弁天の鼻(弁天の岬)とも言う。(弁天島や岬の)周囲は約213m、大岩石の小島で、その岩の上の野原には松の木が生えていて、四方は岩場の磯(海岸)である。
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臼島(大村藩領絵図)
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南の方に長い瀬の続きある。風景が大変良い。臼島の方に岩の洞窟があって、その洞窟の中に弁財天(弁天様)が鎮座している。この亀の岬は臼島よりの距離約24mである。干潮の時には歩いて渡れる。満潮の時には小船も通ることができる。 >
< 亀瀬(かめせ)
(この瀬は)臼島と弁天島の岬より南の方に約127mの所にある。低い瀬で長さが約360m、横幅が約18mほどである。大干潮の時間帯には瀬の頭部(岩)が少し出ている。 >
大村藩領絵図の臼島
(大村)郷村記より相当早く完成した大村藩領絵図に臼島は描かれています。(左画像参照)この絵図の中には、やや分かりにくいのですが説明文字として上から順番に臼島、辮才天(弁才天)、立カ三崎(立ヶ岬)と書いてあるようです。これから書く文字表現のことは、小さなことからもしれません。それは今まで紹介してきました大村藩領絵図に描かれている通り、(鹿島のことである)久津嶋を始め、箕嶋、ガロウ嶋、ソウケ嶋の文字は、全て「嶋」の文字です。
ところが、この臼島は左画像の通り「島」の文字を使っています。なお、念のため前項目に書いた(大村)郷村記は「臼嶋」となっています。私の推測・想像ですが、この絵図の、この部分はこれまでと違う方が担当されたのかなあとも思えます。あと、(大村)郷村記に何回となく書いてある亀瀬の件は描かれていません。また、弁天島は辮才天(弁財天)の文字に見えるようです。その先にある岬は、立カ三崎(立ヶ岬)と書いてあるようで、この文字は(大村)郷村記には全く記述されていないものです。
これらを見比べて山川や島などの地形名称は変化していくものだと改めて思っています。さらに、私は大村藩領絵図の完成時期について大村藩領絵図紹介ページに、年代の幅があり過ぎますが「1732年から1814年以前の制作完了」説を書いています。(大村)郷村記より相当早い完成は間違いないのですが、先の絵図完成推測説(約80年間の幅がある)の中でも、臼嶋関係の記述を見ていると推測説の早期の方ではないかなあとも思えてきました。
まとめ
上記の大村藩領絵図や(大村)郷村記から引用して内容を書いたり、その現代語訳も致しましたので、さらに補足やまとめをするような項目はないのですが、少し感想程度のことを書きます。
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臼島(写真左側=南側は臼島から繋がった弁天島)
(写真右側が北方向で手前側が大村市街地)
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それは既に紹介中の鹿島、箕島、赤島、がろう島、そうけ島に比べ臼島の記述は(大村)郷村記に、やや詳細に書いてあると思います。これは、冒頭の項目でも申し上げた通り、臼島が江戸時代、大村藩の政治の中心地だった玖島城(大村城)から見えていて近い距離だったからでしょう。
あと、個人的なことながら私は、まだこの島には上陸したことがないので、いずれ機会あれば臼島の調査をしてみたいなあと思っています。そして、弁才天(弁天様)、龍神(龍神様)始め狼煙場(のろしば)などの史跡もあるようですし、それに弁天島や亀瀬も間近で見てみたい気がしています。臼島は陸地側からは、船でないと行けない所ですから何かのイベントなどはある時に私も申し込んで同行したいなあと考えてもいます。そのようなことが出来れば、この臼島紹介ページに何らかの項目を追加掲載していきたいとも考えています。
大村の自然も、私が(1952年)生まれ育った頃と比較して大きく変わりました。ある面、生活や産業の進展によって変わっていくことは止むを得ない場合もありますが、大村市内に残された数少ない大昔からそのまま残る自然や島の一つが、この臼島でしょう。願わくば、このまま美しい臼島のまま、ずっと存在していけばと思います。(ページ完了)
大村の島シリーズ:臼島、鹿島、龍神島、寺島、盗人島、箕島、赤島、がろう島、そうけ島、弁天島
(初回原稿掲載:2011年8月5日、第2次掲載:2011年8月7日、第3次掲載:2011年8月11日、第4次掲載:2011年8月13日、第5次掲載:2011年8月17日)