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福重の名所旧跡や地形

今富城跡(皆同町)
今富城跡 場所:長崎県大村市 皆同町
 皆同町(福重住民センターの裏山)は、戦国時代に大村純忠も居城した今富城址があります。2007年8月の発掘調査で、戦国時代末期頃の横堀(空堀)の遺構が発掘されました。左写真は福重町(妙宣寺の下付近)から撮影した今富城址の全景です。

同じページ内ですが、下記をクリックされると項目別にご覧になれます。
<1>
戦国時代末期頃の今富城の遺構が発掘
<2>『福重のあゆみ』より今富城紹介
<3>『大村市の文化財』より今富城址紹介

<4>今富城の存在伝える関係史料(資料)の紹介
 1)一瀬永正の系図に「今富城篭」(今富城に籠城)の文字あり
 2)大村郷村記には「今富の古城」として登場
 3)ルイス・フロイスの記録にも郡城(今富城)が登場

写真中央、Uの字に見えるのが堀の跡(堀の長さ約15m、堀の幅上側3.5m)
戦国時代末期(大村純忠の前後)頃の今富城の堀の遺構が発掘
 
2007年8月の発掘調査時の大村市教育委員会のお話を箇条書き風にすると、この横堀(空堀)の遺構についての概要は次の通りです。

1)最初8月9日に横堀(空堀)の遺構が見つかった。の位置は下側にある市道より高さ約5mにある。

2)発掘された
の長さは15m。堀の幅は上側が3.5m、下側が1.5m。堀の深さは最深部で1.4m、浅い部分で0.7mである。

3)
このは、傾斜面に対して横堀である。ご覧の通り赤い土、黄色い土みたいに土の層が見られるが、その下側から、この堀は出てきた。

4)横堀(空堀)の築かれた年代について、まだ、調査も終わっていないので詳細なことは言えないが、戦国時代末期=大村純忠の前後頃のものと思われる。この横堀(空堀)は戦国時代後半期に流行った形式のものである。

5)横堀(空堀)の役割は、防御用だろう。

 上記のことから発掘された
横堀(空堀)の大まかなまとめをおこなうと下記の通りと思われます。 次の< > 内。
 < 2007年8月に見つかった今富城址の堀の遺構は
横堀(空堀)という種類である。このような堀は、戦国時代後半期に造成されたものが多い。今回の堀も、おそらく戦国末期(大村純忠の前後頃)が佐賀側(竜造寺や後藤など)に対して防御を強化したものであろう。 

今富城(『福重のあゆみ』より)
 好武城が狭いため、大村純治と同一人物と言われている「大村純伊(すみこれ)」が、その上流400mの所に今富城を築いたとされます。高さ11m、東西436m、南北110m、南側に郡川、北の方は深田で北方からの攻撃への備えとして、重要な位置に築かれた城でした。

 築城時期について、この城も諸説あります。また、大村純前の墓所があったとされます。今富城というので、現在の今富町と思う人も多いようですが、現在の皆同町、出張所裏の高台です。

 ここは、明治になるまで今富で、昔の今富村の庄屋は出張所の所にあったのです。今富城は、その支城となった好武城とともに戦国期において重要な役割を果たしますが、大村純忠が1564年に三城(現在の忠霊塔)に築城して移り、戦国期を過ぎると2城とも廃城となりました。

 その後、庄屋屋敷や農民の居住地となりました。なお、今富城址の姿は現在は大きく変わっています。明治30年の鉄道工事で城址の土砂が大量に削り取られたのです。特に、南側がひどく削られました。(『福重のあゆみ』、著者:増元氏)

今富城址(『大村市の文化財(改訂版)』より)
 この城跡は、福重出張所の裏にあたる所です。東西に長い地形で、城を築いた当時は連郭式(れんかくしき)であったようです。16代純伊(すみこれ)が父純治(すみはる)の死後、西方にある好武城(よしたけじょう)が小さいために、文明年間(1469〜1486)今富城を築城したものであろうといわれます。戦国時代の前期で高来郡の有馬氏が勢力を強めたために、備えを固めたといわれます。郷村記によると、「本丸の高さは平地より約11m、東西の長さ約436m、南北の幅は約110m、城の周りは約1,636m」とあります。現状は大分変わっています。

それは、明治30年の初めに鉄道が敷かれたとき、この城跡から多量の土を埋め土として搬出されたため、従来の形が変わり、南側がとくに大きく削られたということです。昭和17年〜20年に日本海軍の高射砲陣地を築くときに西側の部分も削られました。

昔の今富城は大村を守る上で重要な拠点で、北の方の海岸や陸地から侵入する敵は、さけて通れない土地でした。文明6年(1474)の中岳合戦、永禄6年(1563)の大村内乱に乗じての武雄の後藤氏・諌早の西郷氏の攻撃などに対して、重要な役割を果たした城でもあります。  (『大村市の文化財(改訂版)』 大村市教育委員会発行)

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 <ここからは上野の注意書きです> 今富城は、大村純忠が三城城に城を移すまで城として存在したのは、事実です。ただし、上記の『大村市の文化財(改訂版)』記述で郷土史の先生方によっては、「大村純伊」に関係している部分で「中岳の合戦」など、江戸時代・大村藩の偽装とも言われています。また、大村純治=「大村純伊」の同一人物説(同じ人物が変名したと言うこと)を述べておられる郷土史の先生方がいらっしゃいます。

今富城の存在を伝える関係史料(資料)の紹介

1)一瀬家の系図に今富城の存在を明示  一瀬永正の名前横に「今富城篭」(今富城に籠城)の文字
 
寿古町の増元氏は過去に今富町の一瀬家の系図を確認されました。さらに上野の方では大村史談会発行の『大村史談・第15号』((1978年9月発行)の58〜61ページにかけて、この一瀬家系図の論文(執筆者:志田一夫 氏)があることが分かりました。このページの中に白黒写真で一瀬家系図が掲載されていました。

一瀬家系図の一瀬永正(部分) 大村史談・第15号60〜61ページより

 この一瀬家は「大村市今富キリシタン墓碑」(一瀬永正と奥さんの夫婦墓と言われている)に彫られている一瀬永正に繋がる家系です。(「大村市今富キリシタン墓碑」の詳細は、ここからご覧下さい

 この一瀬永正は戦国時代、大村純忠の重臣で、ともにキリシタンの洗礼を受けた人と言われてきました。当然、大村純忠とともに幾多の合戦を重ねたものと思われます。

 一瀬家の系図 (右画像参照)に永正の名前があり、その横に「今富城篭」(今富城に籠城)と言う文字がありました。下記< >には一瀬家系図の関係部分を記述しています。 (右画像は一瀬永正の系図の一部分です。画像の赤線及び下記文中の太文字は分かりやすいように上野が付けました。)

  < 永正  (中略) 天正六年正月竜造寺隆信皆是瀬村朝追岳ノ出陣時 今富城篭 

 上記の意味は上野の素人解釈ながら概要「天正六年(西暦1578年)正月に佐賀の竜造寺隆信が、大村の皆是瀬村(=萱瀬村、かやぜむら、現・萱瀬地区)に攻め込んで来た時、(大村純忠は)朝追岳(あさおいだけ)に出陣し、その時(一瀬永正は)今富城籠城した)」と言うことだと思われます。

今富城篭(今富城に籠城)の意味するもの
  これは読んで字のごとくで、一瀬永正が何らかの理由により「今富城に籠城した」(注:籠城とは、城などの中にたてこもって敵を防ぐこと)と言う意味があります。また、このことは系図に書かれた一瀬永正の事績のこととはいえ、今富城がその当時城として存在していたこと、あるいは今富城が大村純忠時代、実践的な城だったこともを物語っているものです。

  また、大村純忠は『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』(場所は現在大村市今富町から立福寺町の境付近。今富城から直線で約900メートルの距離にある)があった時、この城から出陣したと言われています。(この『鳥越・伊理宇の合戦』については、ここからご覧下さい

2)大村郷村記には「今富の古城」として登場
 江戸時代の大村藩が編纂した(大村)郷村記(通称:大村郷村記)郡村之内 福重村の古城 古戦場之事の項目に「今富の古城」として今富城は書かれています。

 ただし、江戸時代の大村藩が作成した文書は誤用や偽装の記述も多く、特に、大村氏系図関係(大村氏は藤原性で994年四国から来た説=偽装の「大村千年の歴史」説。さらには「大村純伊」関係(「中岳の合戦」、「大村寿司」や「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源や由来説は、全部偽装の歴史と言われています。(詳細は、別のページ「お殿様の偽装」もしくは「大村の偽装の歴史や表現一覧表」ページから、ご覧下さい)

 この今富城の中にも「大村純伊」の名前が登場してきます。郷土史の先生方の中には大村純治=「大村純伊」同一人物説(つまり大村純治が変名して「大村純伊」となったのではないか)と言われています。その点も注意して下記の大村郷村記は、ご覧下さい。なお、城の規模などの記述内容は偽装の必要性もないので、正確と思われます。

 一 今冨の古城
 大手南搦手北の方本丸高サ平地より六間東西四町余 南北壱町余惣郭廻り拾五町余南の方郡川あり 北の方 三町程は深田なり 城下館跡石垣あり 大村信濃守純伊築之純伊始大村の館に居り後郡村今冨の里に城を築き移り住す是を今富城と云 築年月不知今は畠地と成る人家山林あり

3)ルイス・フロイスの記録に「郡城」注1:今富城)が登場
(注1:上記の見出し及び下記のルイス・フロイスの記録に掲載されている郡城とは「今富城」のことを指している)

 宣教師ルイス・フロイスがヨーロッパに書き送った記録にも、この今富城(フロイスの記録では「郡城」)として登場しています。ご参考までに『完訳フロイス 日本史9』(ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)の第25章(第一部九九章)の347ページの5行目から次の< >内の記述があります。 (文中の郡城の太文字は分かりやすいように上野が付けた)

  ガスパル・コエリュ師は、当時、大村諸領の上長であったが、彼ら至福の殉教者たちの遺骸をなんとかして入手できないものかと切に望んだ。 そしてキリシタンたちは大いに努 力して、それを手に入れることができた。彼らはそれを迎えるために、できうる限りの荘厳な行列を準備した。 おびただしい数のキリシタンがそのためにその場に参集した。司祭たちは、長衣をまとい、天蓋の下に彼らの遺骸を迎え入れ、その途次、 彼らのために讃美歌や詩篇を歌い、ドン・ハルトロメウ(大村純忠)も来て、彼らに同行し、こうして彼ら の遺骸は郡城のサンタ・クルス教会にもたらされた。 この場において大いなる祝祭が催され、キリシタンたちの舞踊、大いなる喜悦、日本の風習による宴会、演技が展開した。 そ して司祭は、殉教者である彼らにふさわしい墓地を造らせ、今彼らはそこに葬られている のである。  (以下、文章省略) 

 以上、フロイスの記録にも、この郡城今富城は登場しています。しかも、この今富城には一時期サンタ・クルス教会あったこと、あるいは殉教者の遺骸が、大村純忠なども同行して盛大に、この地に埋葬されたことも伝えています。2008年現在、発掘などされていませんのでサンタ・クルス教会などの所在跡は不明ですが、いずれにしても、今富城があったことは、フロイスの記録からも明らかと言えます。



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