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福重の名所旧跡や地形

帯取塚跡(今富町)
帯取塚跡(おびとりづかあと) 場所:長崎県大村市 今富町

  この『帯取塚跡(おびとりづかあと)は、今富町の帯取に、かつてあった石組(石垣)でできた塚のことです。その当時の石組は数段の石垣で、塚上部にサクラ(桜)と、ハギ(萩)が植わっていました。ただし、現在は、帯取塚はなくなっており、道路や歩道もしくは田んぼになっていてます。この塚は、江戸時代の(大村)郷村記や大村藩領絵図に記述されていて、帯取地名発祥地です。さらに地域伝説から派生したと思われる「天女伝説」が、伝承されてきた所でもあります。

・左写真(写真1) : 中央部の石組(石垣):帯取塚(1987年3月22日制作の福重小学校所蔵のアルバムより)

(写真2) 帯取塚跡周辺

帯取塚跡の場所について
 帯取塚の場所は、江戸時代編さんの(大村)郷村記には、現代語訳で「今富村帯取郷にある不動社前の道の傍(かたわ)らにある田んぼの中にあり」と記述されています。

 この「不動社」というのは、現在も地元の氏子(うじこ)によって祀っておられる不動尊のことです。この不動尊の参道入口周辺から南南西に約140m下った道路・歩道もしくは田んぼが、その帯取塚です。 (写真1参照=1987(昭和62)年3月頃に制作された福重小学校所蔵アルバムの「帯取塚」より)

 また、今富町にある大村市の乗合いタクシー停留所「今富町」から北西側へ5メートルほど行った所という表現が分かりやすいかもしてません。 (写真2)が、2020年2月6日に写した現在の写真で、(写真1)と、ほぼ同様の角度です。

 ただし、現在は、(写真1)に写っています(この当時まで現存していた)帯取塚周辺の道路、石垣、水路や木々などは、かなり変わっています。後年に、おこなわれた市道や歩道の拡幅工事や、田んぼの圃場整備(ほじょうせいび)などにより、帯取塚は、無くなってしまいました。

 先の両写真対比で推測しますと、帯取塚があったのは、2020年2月現在写真左側にある電柱の数メートル手前周辺で、その道路・歩道部分か、右側にある田んぼの中のようです。

大村藩領絵図と大村郷村記の内容について

(写真3) 大村藩領絵図(一部分)
中央部やや下側にに「帯取」の文字あり
・大村藩領絵図にある「帯取」の文字
 まず、右側(写真3)の大村藩領絵図(一部分)を、ご覧願います。この絵図中央部下側に「帯取」の文字が書いてあります。この文字の真上を通る黒色の実線=道は、現在も市道としてあり、ほぼ位置が変わっていない道路です。そして、この「帯取」文字の頭部が、今回紹介中の帯取塚と、ピッタリ一致する場所でもあります。

・大村郷村記の記述について
 帯取塚について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)134ページ下段に記述されています。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。また、原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。

 念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。なお、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。

一 帯取塚
 今富村帯取郷不動社前道傍田の中にあり、三尺方位の塚なり、近來まてハ小さき櫻壱本、萩壱株ありしか、今は櫻ハ枯て萩のみ残れり、

此兩株は先年より此塚にありて、天和二年の書記に、其比黄老の人も何のころより在りしや知らすと云、帯とりと云事ハ、元此塚の名にて、往古此處に帯のよふなる石降りたるゆへ此塚を築き帯とり塚と名つけ、末世に其しるしを残し、夫より塚の名を郷所に呼し由云傳ふ


(写真4) 帯取塚の拡大版
<(写真1)の部分を拡大し縦長にした>

・現代語訳
 上記の(大村)郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように句読点の挿入、あるいは太文字や改行など変えています。また、原文の趣旨を変えない範囲内で意味を分かりやすくするために、( )内に補注も書いています。

 注:塚とは、一般には土や石で高く盛った所をいう。今回の「帯取塚」の場合は数段で積まれた石組(石垣)で盛った所である。

  一 帯取塚
 (この塚は)今富村の帯取郷(おびとりごう)にある不動神社(不動尊)前を通る道の傍
(かたわ)らにある田んぼにある。約90センチメートル四方の塚である。

 (この塚の上に)近ごろまでは、小さな桜の木1本と萩
(ハギ)が一株(ひとかぶ)あったが、今は桜は枯れて萩のみが残っている。

 この両株(両方の木)は、何年か前からこの塚にあって、天和
(てんな、てんわ)2年(1682)の書き付け(記録)に(書いてあるが)、この付近の物知り人でも、いつ頃からあったのか知っていないと言う。

 帯取という(名、地名発祥)は、元々この塚であり、大昔この所に帯のような石が(天から)降ってきたので、この塚を築き帯取塚と名付け、来世にそのしるしを残して、それより塚の名前を郷所(町名)と呼ぶようになったと伝えられている。 


地元伝説から派生した地名発祥の二つと、「天女伝説」
 念のために、この項目は、全て地元の言い伝え(伝承)なので、史実だったかと言いますと、そうではありません。その点をご承知の上、閲覧願います。また、このページ掲載の(写真1、4)は、1987年頃に撮影されているので、この当時まで帯取塚は、存在していました。

(写真1) 中央部が帯取塚の石垣

 しかし、その後、田んぼの基盤整備(圃場整備)、道路や歩道の拡張工事で、このがなくなり、既に30数年経ってますので、帯取塚を語る方も少なくなりました。そのような中で、少数ながら聞き取り調査をしますと、地元伝説から派生した地名発祥の二つと、「天女伝説」があることが分かりましたので、下記から簡単に、ご紹介いたします。

 (1)先の(大村)郷村記内容通り、この帯取塚が、当時の郷名(現在の地名)になった。

 (2)帯が天から舞い降りた時に、地元民が二手に分かれて帯を引き合いをした。そして、前の方の帯を取ったのが、通称の地名で「前帯取(まえおびとり)、後ろ側をとった方が「後帯取(うしろおびとり)」と呼ぶようになった。その境界線は、不動尊前周辺道路から、南南西方向へ約140m下った市道の三差路を結んだ道路である。

 (3)帯が天から降ってきたので、単に「天女が桜の木に帯を掛けたのでは?」という伝説もある。しかし、先の(大村)郷村記を読めば(現代語訳で)「石のような帯が降ってきた」と記述されているので、天女伝説は、本来起こらない話である。でも、この種の話は尾ひれはひれが付くもので、そのようなことから、天女伝説まで生まれたことと想像される。

補足


 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


(初回掲載日:2020年2月10日、第二次掲載日:2月11日、第三次掲載日:2月15日、第四次掲載日:2月23日、第五次掲載日:2月24日、第六次掲載日: 月 日)