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鎌倉中期作の線刻不動明王像(大村市弥勒寺町) |
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線刻不動明王像、CG加工写真 |
「長崎県所在碑塔の双璧」との紹介
この不動明王は、『九州の石塔 上巻』(著者:多田隈豊秋 氏 出版者:西日本文化協会 1975年8月出版)と言う本の233ページに紹介されています。
< >内が、その引用文です。ただし、私の漢字力不足により文字不明があり、そこには*印を付けています。あと、(注1〜注21)は上野が付けました。
< 24 弥勒寺自然石図像(注1)板碑(不動明王) (鎌倉) 大村市弥勒寺郷清水 弥勒寺公民館脇 安山岩台上高一六八・○糎(注2)
この自然石板碑の幅は、頭部六五・○、中央七六・○、下部七八・O糎、厚さは二八・○〜四二・○糎で、表面一杯に岩座(注3)に坐する不動明王独尊(注4)の線刻がある。石面は磨滅(注5)、剥落(注6)の個所もあって、鮮明を缺く(注7)部分もあるが、全体的に見て図像は適確な筆致により表現され、殊に(注8)描線(注9)に力強い迫力がある。
図様(注10)は岩上に結蹴跣坐し(注11)、火炎光を負い(注12)、頭上に八葉の頂蓮(注13)を戴き、左頭部の索髪(注14)はないが、額部に水波の皺相(注15)を漂わし、右眼を見開き左眼を*ぢ(注16)、右牙上向き、左牙下向き、下唇は上唇を噛む。右手に劒(注17)を持ち、左手に羅索を執る(注18)。瓔珞(注19)はないが三道(注20)を強く描き、およそ儀軌に適った描出である。(注21)
惜しむらくは無銘にして、適確な造立年代を知ることを得ないが、おそらく鎌倉中期から前期に近いものと見て誤りないであらう。これ程の名碑が、これまで未紹介のまま放置されていたのは寧ろ不思議である。諌早市西ノ郷梵字大旦二尊碑(長23)と共に長崎県所在碑塔の双壁といってもいいだらう。 > (引用終了)
<上記の紹介文は独特の仏教用語あるいは、仏像に関する専門用語が多数あります。それで、次の注釈は、主に国語辞典の『大辞泉』より書いています。ただし、一部の字句は辞典にない用語もあるので上野独自の解釈で書いており間違いもあるかもしれませんので、ご注意願います。>
不動明王とは=《(梵)Acalanthaの訳》五大明王・八大明王の主尊。大日如来の命を受けて魔軍を撃退し、災害悪毒を除き、煩悩(ぼんのう)を断ち切り、行者を守り、諸願を満足させる。右手に利剣、左手に縄を持ち、岩上に座して火炎に包まれた姿で、怒りの形相に表す。両眼を開いたものと左眼を半眼にしたものとあり、牙(きば)を出す。制迦(せいたか)・矜羯羅(こんがら)の二童子を従えた三尊形式が多い。不動尊。無動尊。
(注1):図像=諸仏の像や曼荼羅(まんだら)などの図様を描き示したもの。多く白描で描かれるところから白描図像ともいう。
(注2):糎=センチメートル
(注3):岩座=(いわくら)《「いわ」は堅固な意》神の御座所。いわさか。
(注4):独尊=(どくそん)《「天上天下唯我独尊」の略》自分ひとりが他のだれよりもすぐれて尊いとすること。
(注5):磨滅=(まめつ)すりへること。
(注6):剥落=(はくらく)はがれて落ちること。
(注7):缺く=欠けている。
(注8):殊に=とりわけ。
(注9):描線=かたちをえがいた線。
(注10):図様=図の様式。また、図柄。
(注11):結蹴跣坐し=(けっかふざし)裸足で足を組んで座っている。
(注12):火炎光を負い=燃え上がる炎をかついだような様。
(注13):八葉の頂蓮=八枚の蓮の花
(注14):索髪=(そくぱつ、不動明王の髪型の一種)髪を束ねて耳の前に垂らした形など
(注15):水波の皺相=水面にできる波のようなしわ模様
(注16):(不明文字:月へんに少とも読める)=?
(注17):劒=(つるぎ)刀のこと。
(注18):羅索を執る=織物を手でつかんでいる。
(注19):瓔珞=(ようらく)珠玉を連ねた首飾りや腕輪。
(注20):三道=(さんどう)仏教用語で「三行」のこと。
(注21):およそ儀軌に適った描出である。=おおよそ法則にそった描き方である。
上記の通り、この紹介文章は、仏教及び仏像に関する専門用語、さらには現在あまり日常使用されていないような漢字などもあり、私のような素人にとって正確な解釈は難しいです。それで、仏教用語や専門用語などを除いた範囲内で、この不動明王の大きさや特徴点などを分かりやすくするため補足文章含めて概略まとめると、次の通りと思われます。念のため素人解釈ですから、ご参考程度にご覧下さい。
弥勒寺の不動明王(下記「」内が、仏教や専門用語などを除いた概略紹介のまとめ)
「 この不動明王の高さは、安山岩で台の上168cmである。この自然石の板碑の幅は、頭部65.0cm、中央76.0cm、下部78.0cm、厚さは28.0〜42.0で、表面一杯に御座所に座っている不動明王一体の線刻がある。石面は磨耗したり剥落している箇所もあり、鮮明さを欠く部分もあるが、全体的に見て図柄は適確な筆致により表現されおり、とりわけ形を描いた線に力強い迫力がある。 (中略=不動明王の形についての紹介)
惜しいことに(この不動明王の制作者や建立年の入った)碑文がないため、適確な造立年代を知ることができないが、おそらく鎌倉中期から前期に近いものと見て誤りないものであろう。これほどの名碑が、これまで未紹介のまま放置されていたのは、むしろ不思議である。諌早市西ノ郷梵字大旦二尊碑(長23)と共に長崎県所在碑塔の双壁といってもいいだろう。 」
以上の通り、この弥勒寺町にある不動明王は、「(制作は)鎌倉中期から前期に近い」「長崎県内で名碑、双璧」と紹介され、さらには「これまで未紹介のまま放置されていたのは、むしろ不思議である。」とまで1975年8月出版の専門書に書かれています。このことは、約32年経った(2007年)現在でも長崎県や大村市の扱いは、変わらないものです。ですから、この線刻の状況は、風雪などの影響もあり当時より、さらに剥離が進んだようです。
自然石に彫られた筆致は迫力満点
右側の上から2番目の画像はは、私がパソコン(CG)で描いた絵です。デジタルカメラで撮った写真などを参考にしながら、その線をなぞるようにして、かいたものです。私のCG作業の力量不足もあるのですが、剥落などにより不明箇所が多く見られるのは、ご了承願います。
特に、肝心な顔面や頭部がうまく描けなくて残念ですが、それを脇においても、この自然石に彫られた線の筆致は、改めてこの製作者の力量の素晴らしさと不動明王の迫力を感じるものです。
(補足)
あと、この不動明王の近くには、かつて弥勒寺と言う寺院がありました。(詳細は、弥勒寺跡の紹介ページを参照) また、そのことと関係あるかどうか、詳細は定かではないのですが、石堂屋敷(私有地)には、地蔵菩薩、単体仏、線刻石仏などもあります。その一部は、別ページの『仏の里 福重』ページから、ご覧下さい。
また、自然石全体の大きさは、先に紹介していますが、彫られている不動明王の大きさは、高さ約136cm、横幅約72cmです。(このサイズの追加掲載は、2008年8月15日)
(掲載日:2007年8月23日)
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