福重の名所旧跡や地形
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三日月堤(三ヶ月堤) (大村市 立福寺町)
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上部写真は三日月堤(三ヶ月堤)と、黄金色の稲穂風景(2003年10月5日撮影) |
三日月堤(三ヶ月堤)(みかづきつつみ) | 場所:長崎県大村市 立福寺町 |
半円形の美しい溜池 三日月堤(三ヶ月堤)は、大村市 立福寺町の北東部、標高208mにある半円形の美しい溜池(ためいけ)です。江戸時代、大村藩によって編さんされた(大村)郷村記にも、「三ヶ月堤」として記述されています。 現在の三日月堤(三ヶ月堤)の大きさは、目測ながら東西(堤防):約70m、南北'(堤面):約46m、堤高:約3mです。(上記の空中写真はグーグルアースより) |
江戸時代の三ヶ月堤(三日月堤) 上記画像は、九葉実録・別冊(大村史談会、1997年3月発行 )附図・大村藩領絵図の写真版から複写して、上記の堤(ため池)周辺を拡大したものです。画像が粗いのは、ご了承願います。 この絵図に描かれている三ヶ月堤(三日月堤)と、現在の状況(左記上側の空中写真参照)と対比すれば、かなり堤(ため池)全体が変わったように思えます。 |
(上記の右側画像=江戸時代の三ヶ月堤(三日月堤)参照) あらかじめ書きますが、江戸時代の大村藩によって作成された大村藩領絵図は、絵図ながら描いてある山、川、道路、名所旧跡の場所などは、かなり正確で当時の地図作成技術の高さが分かります。そして、名所旧跡の項目によっては、(大村)郷村記の記述内容より、名称や場所などは、正確な場合もあります。 それは、なぜか。私の推測ながら地図作成者が技術者(職人)らしく、正直にそのまま描いたからと思っています。そのようなことから、上記の大村藩領絵図に描いてある三ヶ月堤の形状も同様と見ています。 上表の説明文通り、現在と見比べてみましたら、かなり、ため池の形状が現在と違うようです。そして、ここからは、私の想像ですが、絵図作成当時より相当後、あるいは近代になって溜池(ためいけ)周囲の石垣を新たにつきなおしたのではないでしょうか。 水と関係している所は、川の堤防はじめ、用水路(井手)や排水溝に至るまで、どんなに頑丈についた石垣でも長年経てば一部壊れる場合も見てきました。そのようなことから、上記の溜池周辺の石垣も、つき直しの機会に従来の形状が変わった、あるいは米(コメ)の収穫量増のため、ため池部分を田んぼへ拡げたのかもしれません。
下記に江戸時代、大村藩によって作成された(大村)郷村記を引用しながら、この三ヶ月堤について、紹介します。下記の「 」内の太文字が、その文章です。 (注:パソコン変換できない文字は、同意語の文字に直しています。また、分りやすくするためスペース=空白で調整しています) なお、下記は参考程度にご覧になり、引用参照される場合は、必ず原本からお願いします。 「 一 三ヶ月堤 根切長拾五間弐尺 根切横四間四尺 土居長三拾四間 築留横壹間弐尺 直立弐間 尺八弐問半 右二堤懸田八段廿歩半 蔵入 」 ・現代語訳 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように句読点の挿入、あるいは太文字や改行など変えています。
< 一つ 三ヶ月堤(みかづきつつみ) 根切長は約28m 、 根切横は約9.5m。 土居長は約62m 、 築留の横幅は約2m。 直立は約4m 、尺八(水量調整用の栓ある所)の長さは約5m。 右の堤(注:三ヶ月堤のこと)の、(水を供給する)耕作地(面積)は約8000平方メートルである。 (この耕作地は)藏入(大村藩の直轄地)である。 > 上記の現代語訳の各数値と、先の「大村藩領絵図に描かれている形状」で述べた内容=「現在と見比べてみましたら、かなり、ため池の形状が現在と違う」ことが、数字上でもお分かり頂けるかと思っています。 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) (第一次掲載日:2018年10月27日、第ニ次掲載日:10月29日、第三次掲載日:10月30日、第四次掲載日:11月1日、第五次掲載日: 月 日) |