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福重の名所旧跡や地形

龍福寺跡(竜福寺跡)立福寺町)
 龍福寺跡(竜福寺跡)  場所:長崎県大村市 立福寺町
 龍福寺(竜福寺)の創建は、正確に言えば不明ですが、平安時代といわれています。1343年と1459年の文書に存在が確認できる寺院だからです。

 戦国時代の1574(天正2)年、キリシタンによる破壊、略奪、焼き打ちに遭うまでは、(現在の立福寺町に)存在した仏教寺院です。

 寺社領の石高は、33石だったと言われています。この町の名前、立福寺町の元となった寺院=龍福寺(竜福寺)です。
龍福寺跡の東側付近の六社権現
(現在、権現と石仏などがある)
民家西側の畑
當寺中興」と彫られた墓碑

(写真説明)
左上側写真=「龍福寺跡(竜福寺跡)」と思われる民家(通称「寺屋敷」とも言われている)東側の畑にある五輪塔の一部。

・右側1番目写真=(通称「寺屋敷」とも呼ばれている)民家の畑の東側に当たる。現在、畑と六社権現の間には市道がある。近くではあるが龍福寺が道隔てたこの地点まであったかどうか、正確には不明である。

・右側2番目写真=(通称「寺屋敷」とも呼ばれている)民家の西側に広がる畑。寺院はこちら側にも広がっていた可能性もあり。脇坊などがあったかもしれない。

・右側3番目写真=「當寺中興」と彫られた石塔。銘文の通り、衰えかけていた龍福寺を再興した住職か誰かの墓碑の可能性もあり。写真には円形の凹部が見えるが、実は、この下部の土台石にも円形マークがある。これは円相と言って禅宗系の墓に見られるものである。つまり、期間は不明ながら龍福寺は禅宗の仏教寺院だったことを示している。

大村郷村記内容の龍福寺について

  龍福寺(竜福寺)については、大村郷村記第二巻72〜73ページの竜福寺蹟項目に記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記の「 」内の太文字が、その引用した文章で横書きに直しています。(注:文章は続いていますが、分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)

 ですから、あくまでも、ご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。 あと、下記「 」内の後にも書付の文章があります。しかし、漢文体のため今回の掲載は、省略しています。なお、(大村)郷村記では「竜福寺」の文字が使用されていますが、このページでは全て龍福寺で表現で統一しました。

「 一竜福寺蹟
 今富村にあり 創立の時代不知 寺名今は郷所の名となり其辺の地名を竜福寺と云ふ 宗旨は禅宗にて寺領三拾三石弐斗四舛なりと云

 天正年中耶蘇の徒破却す 正保四丁亥年五月堂宇建立六所大権現を勧請す 宮守百姓一左衛門か家に伝はる処の旧記あり

 且宝永六己丑年一瀬彦左衛門披見の壱紙寛政九丁巳年深重山十一嗣日衛和尚虎丸の記并に栄尊譲状の事あり 依て今一同左に書之
 (注意:以下に漢文の書付があるが、省略している)

現代語訳
 上記太文字の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。( )、「」内、(注)や補足などは、私が付けた補足や注釈です。

< (竜)福寺跡 今富村にある。(注1)(寺院)創建は不明である。寺名は今、郷名となっていて、この辺りを(竜)福寺と言う。宗旨(宗派)は禅宗(注2)で寺領(の石高)は33石2斗4升であったと伝わっている。

 天正年間(1573〜1592年)(注3)にキリシタンが破壊した。正保4(1647)丁亥(ひのとい、ていがい)年5月にお堂を建立(建設)して六所(社)大権現(注4)を祭った。宮守(注5)は百姓の一左衛門と思われるが家に伝わっている古記録がある。

 また、宝永6年(1709)己丑(つちのとうし、きちゅう)、一瀬彦左衛門の一つの書付を見ると、寛政9(1797)丁巳(ひのとみ、ていし)年に深重山(妙宣寺)11代(住職の)日衛和尚(注6)の書付に栄尊への譲状(注7)=譲渡証文がある。よって、もう一回同じものを左に書いている。  (注意:以下に漢文の書付があるが、省略している) >

注釈や補足など(国語辞典の大辞泉などから引用、参照している。また上野の補足も書いている)
(注1):江戸時代の行政改革で今富村、皆同村、福重村は後で合併して福重村になるが、この項目が書かれた頃には、龍福寺(立福寺)郷は、まだ今富村に属していたと思われる。
(注2):禅宗であったことは既に先に写真説明の「右側3番目写真」で述べた通り、この墓碑には禅宗系で用いられる円相(丸いマーク)が土台石にも付いている。

(注3):この寺院焼打ち事件は大村純忠時代の天正2(1574)年、キリシタンによって行われた他宗派弾圧事件のことで、この年いっせいに神社仏閣の焼き討ち破壊、略奪さらに峯阿乗の殺害まで起こったことである。現在の大村市内だけと限定しても41の寺社が焼き討ち、破壊された。
(注4):(大村)郷村記には「六所大権現」と書いてあるが、大村藩領絵図には現在も使われている「六社権現」と描かれている。

(注5):宮守とは、宮の番をすること。また、その人。神社の番人。
(注6):妙宣寺第11代住職の日衛(にちえい)は色々な書類が残っている人である。豊後(大分県)の三浦梅園とも親交のあった住職である。
(注7):譲状とは、所領や資財を譲与するとき作成交付する証文。



---(下記は準備中のため、しばらくお待ち下さい)-----

龍福寺についての補足


 (この原稿、準備中)



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