|
阿乗の碑(寿古町)
|
|
大日堂(寿古町)
|
概要紹介(キリシタンに殺害された)峯阿乗の碑(子孫建立の記念碑)
名称:峯阿乗之碑(みね あじょう の ひ) 、 所在地:大村市寿古町・大日堂敷地内
このページは、タイトル(見出し)通り、長崎県大村市内にある石碑や碑文を紹介するシリーズの一つです。今回の石碑は、寿古町にある(キリシタンに殺害された僧侶・峯阿乗の墓である)大日堂の直ぐ隣(右側の写真参照)にあります。
表面には、峯阿乗之碑と彫ってあるので本来は、その名称か「峯阿乗の碑」と言うべきでしょう。しかし、このページでは先の名称も使用していますが、単に記念碑とか顕彰記念碑などと呼称していますので、その点はあらかじめご了承願います。
この記念碑は、右側写真の通り、地面から石垣、その上に土台石、さらに本体の石碑が乗っています。地面から石碑最上部までの高さは、約3mあります。(詳細な大きさは、次の項目参照)この石碑は、自然石で表面つるっとした滑らかな、なかなか良い石材です。この碑の表裏両面に約170文字の碑文が彫られ、大正七(1918)年4月に建立されています。
碑文についてですが、表面の峯阿乗之碑は一文字が約25cm四方の大きさで彫りの鋭さ、深さが目立ちます。裏面は約5cm四方で両面とも、まるで書道(漢字)のお手本みたいな整った綺麗な文字ばかりです。碑文全体、石工の腕が冴えわたっている感じに見えます。
この記念碑裏面の碑文を解読すると、大村純忠時代、キリシタンに殺害され仏教に殉じた悲運の僧侶・峯阿乗の3人の男子(息子)の峯釆女(みね うぬめ)、峯弾正(みね だんじょう)、峯将監(みね しょうげん)から連綿と続くご子孫7家系(7名)が中心になって建立されていることが分かります。
また、先の3人の息子の内、峯釆女・弾正の兄弟2名は、戦国時代の天正15(1577)年、大村領(萱瀬村)を守るために菅無田(すがむた)の合戦(現在の大村市宮代町付近)で、佐賀の竜造寺軍と激戦・奮闘しながら戦死した武将です。また、もう一人の峯将監は、現在一般的な呼称として”三城七騎ごもり”(三城城でおこなわれた合戦)で戦った武士です。
このようなことは既にご存じだった方もいらっしゃいますが、私は、この3人の武将達の父親が、僧侶の峯阿乗とは今まで知りませんでした。お父さんの阿乗は、大村の仏教を守ろうとキリシタンから殺害され、3人の息子達は大村家や大村領を守ろうと激戦し、その内2名が戦死しました。そのことを偲び、阿乗死亡の344年後に顕彰記念碑を建立されたのが、大正時代の峯(峰)家一族です。私の想像にしかなりませんが、ご子孫の方々は、たぶん、この記念碑を建立された頃、ご先祖様に様々な思いが去来されたことでしょう。
1)記念碑の大きさや石材など
この記念碑の大きさついて、ご覧頂く前に、右側1番目の写真を参照願います。これから写真中央上部に写っている峯阿乗之碑(峯阿乗の碑)と、その土台石や石垣などについて概要説明します。次に、下表を見て頂けないでないでしょうか。
峯阿乗の碑の大きさ
|
裏面文字部分 |
高さ124cm |
横幅61cm |
(ただし、側面は除く) |
石碑本体 |
高さ:約174cm |
横幅:約100cm |
胴回り:約230cm |
土台の石 |
高さ:約35cm |
横幅:約120cm |
周囲:約355cm |
土台の石垣 |
高さ:約90cm |
横幅:約160cm |
周囲:約670cm |
本体の石碑を述べる前に、まず地面側からですが、この石垣は大村だけでなく長崎県内でも全国でもよく見る石材とつき方です。これを間知石<けんちいし=大小二つの面(つら)をもった四角錐状の石材。石垣などに、広いほうの面を外側に連ねて用いる。 大辞泉より>と言い、かなり昔からある日本独特の石材で石垣をついたものです。コンクリート製の石垣が出来る前までは、この種の石材やつき方が多かったようです。
この記念碑の石垣は、長年の雨露などで少し位は建立当時より変化はしているのでしょうが、今でもガッチリとした造りです。上部にある記念碑本体や土台石も含めれば相当の重量になるかとは思いますが、それに充分耐えられるように出来ています。土台石は、平らな自然石を横置きして記念碑を支えているだけでなく、上部の石碑や下部の石垣とのバランスを考えての施工と思われます。
そのようなことから、あまり大村産出の石ではないような気もしたのですが、大正時代の建立ですから石を遠くから運ぶのは当時大変でしたから、やっぱり地元近くの石かなあとも思ったりもしました。石材に詳しい方なら分かられるかもしれません。とにかく、表面滑らかな、この石材は記念碑仕上げに見た目にもいいと思いました。
2)記念碑の碑文内容
この項目は、記念碑の表裏両面に彫られている碑文の紹介です。表面に5、裏面に159、右側側面(石工の名前関係)に10、合計174文字あります。郷土史の調査や研究をしていますと、どうしても裏面にある建立年、建立主旨、建立者関係を中心に見てしまいますが、他の面も出来るだけ詳しく書いていこうと思っています。
(イ)記念碑表面の文字について
表面には、峯阿之碑(峯阿乗の碑)の5文字が、一文字約25cm四方の大きさで彫ってあります。ただし、この25cm四方と言うサイズは、漢字の作りが様々ですから、あくまでも平均みたいな数字で横幅だけ、あるいは縦の長さだけなら、もっと大きいサイズもあります。碑文の配列は、自然石に合わせたように上下左右のバランスを考えた彫り方とも言えます。
あと、文字の線の幅も広いのですが、彫りの深いのも特徴です。この碑文を、やや遠くから見ても、(右側写真のように)小さな写真にしても分かりやすいのは、この幅の広さと深さが要因と思えます。表面の碑文全体、力強くメリハリの効いた、まるで太い筆で漢字を書く手本みたいな文字と言えるでしょう。
(ロ)記念碑裏面の文字について
阿乗の碑の裏面には、文字部分だけのサイズとして高さ124cm、横幅61cm(ただし本文のみで、側面の石工名部分は除く)の広さで碑文が彫られています。右側写真は、拓本作業中のもので、その左側が本文と側面にある石工関係を活字化した画像です。
|
|
(活字版の画像)阿乗の碑の裏面碑文
|
阿乗の碑の裏面(拓本作業中)
|
活字版画像でもお分かりになるかとは思いますが、さらに横書きに直した文字を下記(太文字)にしています。碑文の本文は全て続いていますが、横書きでは分かりにくくなりますので、文章の区切りと思える箇所に空白(スペース)を入れています。また、建立者名関係は、活字版画像の通り一名づつ改行されていますが、下記の横書きでは空白を置きながら続けています。なお、用語解説や補足説明、さらには碑文の現代語訳も、後の項目で載せています。
峯阿乗大織冠鎌足公之裔小峰之城主宇都宮彌三郎之男宮村駿河守藤原通景八世之孫也 而生釆女弾正将監三子宮村峰澤勢淵之先祖也 純忠公御代天正二年春耶蘇之徒蜂起有功 後年純長公御代有故祝阿乗為神被祟大日神社 茲慕祖先建碑 大正七年四月吉日
釆女之裔 宮村駒三郎 弾正之裔 峯宇多八 将監之裔 峯林太郎 峯柳一 澤勢勘次 淵敏郎 宮村次郎 夫役 野田善次郎 氏子中 福重村石工 吉江幸太郎
<用語解説と補足>
・大織冠(だいしょくかん、だいしきかん)=大化の改新後定められた冠位制で最高の冠位。のちの正一位に相当する。実際には藤原鎌足が授けられただけである。藤原鎌足の称。
・峯釆女(みね うぬめ)、峯弾正(みね だんじょう)、峯将監(みね しょうげん)は峯阿乗の息子である。その内、釆女と弾正の両名は菅無田(すがむた)合戦で奮闘しながらも戦死した武士である。両名の墓は大村市宮代町の山の中にある。将監の方は「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」の戦に参加した武士である。
・宮村=大村領宮村(現・佐世保市宮町)のことである。
・小峰城=大村領千綿村にあった小峰城のことと思われる。
・耶蘇之徒蜂=この場合、キリシタンによる神社仏閣の焼打ち、略奪、阿乗の殺害などを言う。
・追慕(ついぼ)=死者や遠く離れて会えない人などを、なつかしく思うこと。
現代語訳
先に紹介しました記念碑裏面の碑文を現代語訳しますと、次の<>内と思われます。( )内は送り仮名や上野の補足です。あと、全文続けますと読みにくくなりますので、文章の区切りと思えるところなどに句読点や改行もしています。なお、あくまでも素人訳ですので、参考程度にご覧願います。
< 峯阿乗(みね あじょう)は、大織冠・藤原鎌足の子孫で(大村領)宮村の駿河守藤原通景の第8代目の孫になる小峰城主の宇都宮彌三郎の男子(子息)である。(その峯阿乗の) 3人の子息である釆女(うぬめ)、弾正(だんじょう)、将監(しょうげん)は、宮村の峰(家)、澤勢(家)、淵(家)の先祖である。
大村純忠公の時代・天正二(1574)年の春、耶蘇(キリシタン)が蜂起したこと(この時、峯阿乗は殺害された)があった。(そのため)大村純長公の時代に訳ありのこと(=藩主の大村家を呪ったこと)があったので、彼(阿乗) を神と崇めて(あがめて)大日神社(大日堂)を建てた。
(この石碑は、そのような)祖先のことを追慕して建てた記念碑である。 大正七(1918)年4月吉日
(記念碑建立関係者は) 峯釆女の子孫の宮村駒三郎。峯弾正の子孫の峯宇多八。峯将監の子孫の峯林太郎、峯柳一、澤勢勘次、淵敏郎、宮村次郎。(記念碑建立)作業員は野田善次郎と氏子達である。石工は福重村の吉江幸太郎である。 >
補足:原文の「後年純長公御代有故」部分の「有故(ゆえあり)」のところを、現代語訳では「訳ありのこと(藩主の大村家を呪ったこと)」と解釈しています。このことについての補足です。記念碑建立は、大正時代の初期ですから、当時まだまだ直接的に江戸時代にはお殿様だった大村家に対して「呪った(のろった)」とか「祟った(たたった)」などのストレートな表現は出来ず、「有故(ゆえあり)」=「訳あって」との遠回しの表現にしたのではないかと思われます。
あと、先に掲載中の大日堂紹介ページにも、この大日堂建立の経過や主旨(上記と同じ内容)などを掲載していますので、リンク先からご覧願います。
・碑文の引用元は(大村藩)新撰士系録
この項目で登場する新撰士系録の内容を極簡単に表現すると「江戸時代、大村藩が編纂した大村藩家臣団の系図集」です。大村市立史料館にて複写版が閲覧できます。この史料=新撰士系録の士系録巻之 二十(士系録20巻目)に、先に掲載した戦国時代の4人の名前や事蹟(注:業績のこと)の項目があります。そこに父の峯阿乗(みね あじょう)と、息子達3人=峯釆女(みね うぬめ)、峯弾正(みね だんじょう)、峯将監(みね しょうげん)が書いてあります。
私は、記念碑調査前まで、この4人の名前は将監を除いて3人までならバラバラで知ってはいましたが、その関係までは分かっていませんでした。しかし、裏面の碑文内容や、大正時代のご子孫の名前を見て、「あー、この戦国時代の4名は親子だったのかあ」と初めて知りました。そして、それを確かめるために調べたのが、この士系録巻之 二十でした。
|
|
そこには、峯阿乗の項目で、先に挙げた3人の息子がいたことや、天正二(1574)年、キリシタンによる他宗教弾圧事件(神社仏閣の焼打ち、破壊、略奪など)の時に阿乗も下川原(現在の寿古町の下川原)でキリシタンによって殺害されたこと、江戸時代になって阿乗を崇めるため大日堂を建立したなどが、けっこ詳細に書いてあります。
この文面を見て、記念碑裏面の碑文と良く似ている、あるいは語句も含めて引用されて彫られていることが分かりました。例えば碑文上も新撰士系録の文言上も、次の「」内は、数文字以外は同じ文章でした。(碑文上の)「純忠公御代天正二年春耶蘇之徒蜂起」、「後年純長公御代有故祝阿乗為神被祟大日神社」などです。当然、これ以外の文章にも似た部分がありました。
ここからは、私の推測です。もう大正時代と言えば文章は、旧漢字体はやむを得ないとしても、記念碑の文章自体は全部漢文調で彫らなくても建立できたとも思われます。石工技術も素人ながらの想像ですが、全文漢文調(漢字)にするよりも、中には読みやすい、彫りやすいと思われるカタカナや平仮名を交えても出来たことでしょう。何故、漢文調の碑文にしたのか、やや疑問も残りました。
その答えは、記念碑は石材の質さえ良ければ何百年何千年と保ちます。ですから、文面の正確さを期すために、新撰士系録から、引用・参照されて彫られたものと推測できます。つまり、その碑文内容の引用元は、ほぼ全て新撰士系録だったと言えるでしょう。
あと、さらに私の想像で、しかも蛇足的なことを書きます。この記念碑文面の引用は、先ほど「新撰士系録からだった」と書いています。その石に彫る前に文章を書かれた人は、たぶんに大村家と関係ある方、あるいは役人か学校の先生、さらには今で言う郷土史研究家みたいな人だったかもしれません。なぜなら、大正時代、この新撰士系録は、大村家に保存されていたのではないでしょうか。
現在みたいにコピー版が直ぐに作れなかったでしょうから、大村家に頼んで書き写したのかもしれません。また、先に登場した峯家の4人のことを当初から知っている人が、文面作成担当だったのかなあとも想像しました。
・大村市発行の大日堂(峯阿乗関係)書籍類紹介
この項目は、後で書く予定の「5)長崎県内の独特なキリシタン史観を公平に変えて欲しい」と重複した内容となりますので、その項目で詳細に書く予定です。ここでは、私がこのページを書くにあたって参考・引用した大村市発行の書籍類の概要紹介だけしておきます。いくつかあるのですが、誰でも大村市立図書館に行けば閲覧可能なものを下記に挙げておきます。
1,大村市の文化財(改訂版)=大村市教育委員会から2004 (平成16)年3月26日に発行されたものです。この本の71ページに大日堂や峯阿乗の件について、詳細に紹介されてます。(内容は先に掲載中の大日堂ページ参照)
2,大村市立史料館・企画展(パンフレット)歴史の缶づめ= 『大村市立史料館・企画展 歴史の缶づめ』(大村市立史料館2009年7月26日〜9月30日までの展示)に併せて発行されたいたものです。このパンフレット8〜9ページに<〜(戦国時代)〜 安土・桃山時代 江戸時代>のタイトルで見開きがあり、その中央下部に今回の大日堂について写真付きで概要紹介されています。(内容は大日堂ページ参照)
3)峯阿乗は菅無田合戦で戦死した峯釆女・弾正の父だった
この項目の見出し(タイトル)を、もう少し長く書きますと「キリシタンに殺害された僧侶・峯阿乗は、大村領を守るために佐賀の龍造寺軍と萱瀬の菅牟田(すがむた)で合戦をおこない、戦死した峯釆女・弾正の父親でした」となります。このようなことは既にご存じだった方もいらっしゃいますが、私は今回の峯阿乗の記念碑調査時に初めて知りました。
菅牟田の合戦は、大村の歴史では有名な戦国時代の戦ですから、その古戦場跡あるいは峯2兄弟の墓碑の紹介は書籍類でも多いです。ただし、この峯2兄弟と父にあたる峯阿乗の関係を近代の書籍関係で書かれているのは上野調べではなかったと思います。そのようなこともあって、いずれ他のページで詳細に例えば「菅牟田合戦跡(菅無田古戦場跡)」とか「峯釆女・弾正の墓碑紹介」の見出しで作成を検討しています。
ここでは、『大村市の文化財』(改訂版、大村市教育委員会、2004年3月16日発行)の19ページを引用して菅牟田合戦や峯釆女・弾正についての概略を次の<>内に書いています。なお、( )内は送り仮名、あるいは上野が削除・追加・訂正したものです。
< 菅無田古戦場跡(すがむたこせんじょうあと) 菅無田橋の上手に、野面石(のづらいし=自然石のこと)の墓が建っています。この付近が菅無田古戦場の跡です。 (写真関係の説明文は削除) この付近が菅無田古戦場の戦国時代半ばの天正5年(1577)12月、その頃西九州最大の勢力を誇 る龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が、キリシタン大名大村家18代(注)純忠が治める大村領を占領する 目的で8,000人の軍勢を率いて、多良連峰を越えて萱瀬へ攻め込んで来ました。(上野補足の注:大村氏系図は江戸時代に創作・偽装されたもので初代の大村直純自体が存在の裏付けのない系図である。そのため、この「第18代」と代数を表示することは正確には架空の数字で間違いである。ただし、江戸時代の大村藩初代藩主〜第12代藩主と言う表示は正しい。詳細は「江戸時代に偽装され大村氏系図」を参照)
純忠は今富城に兵を集め、守ろうとしましたが、萱瀬に住む郷士達は、少しも手向かうことなく、自分達の村を敵に踏み込まれることに不満を持ち、300人が菅無田城にたてこもりました。 11日から始まった龍造寺軍の攻撃に対し、菅無田勢は懸命に抵抗しましたが、 討ち死にを覚悟し、12日夕刻、一丸となって突撃して全滅してしまいました。
|
峯釆女(みね うぬめ)弾正(だんじょう)の墓碑(宮代町)
(見やすいように年月日と氏名部分のみCG写真加工)
|
田原(補足:田んぼや畑のこと)の雪景色を真っ赤な血で染めたと伝えられています。 龍造寺軍も大損害で、とうとう大村占領をあきらめて帰ったといわれています。 なお、菅無田城跡には、城将峰弾正(みねだんじょう)の石灯籠付きの墓(補足:正確には自然石の墓碑に1名だけでなく峯弾正・峯釆女2名の名前が刻まれていている)があります。 >
・菅無田合戦と峯釆女・弾正の墓碑について
上記の紹介文通り、峯釆女(うぬめ)・弾正(だんじょう)の兄弟始め萱瀬の武将や村人達は、大村領を守ろうと反撃・激戦を展開し、その時に峯兄弟など(その他多数)は戦死したのでした。あと、峯兄弟について少し補足を書きます。上記で紹介した『大村市の文化財』を始め大村市発行の書籍類には、峯3兄弟の内、ほとんどが弾正のことばかりしか書いてありません。
しかし、先の項目で掲載しました江戸時代編纂、新撰士系録の士系録巻之 二十(士系録20巻目)には、事蹟が多いか少ないかは別としても3兄弟とも順番に峯釆女・弾正・将監とも、きちんと書いてあります。また、菅無田の合戦跡地周辺の山中にある墓碑についても、上記紹介の『大村市の文化財』19ページには峯弾正1名のみの墓のように書いてありますが、この文章表現は間違いです。
現地の墓碑には、ちゃんと2名の名前が彫ってあって、向かって左側には峯釆女の名前(右側に峯弾正の名前)があります。右上側の墓碑写真(梵字などを除き年月日や氏名などの彫られた線部分はデジタル写真から見やすいようにCG加工済み)を参照願います。(この墓碑名について今回、私は亡くなっても役職順にするより兄弟順にしている) 次に年月日についてです。
二人の戦死した年月日(命日)と思われますが、墓碑の右側から「天正五丁丑(ひのとうし、ていちゅう)天 十二月十三日」(天正5年=1577年12月13日)が彫ってあります。これは、龍造寺軍へ総突撃をした12月12日の翌日の日付だと思われます。たった1日の違いではあるのですが、総突撃した日の翌日に亡くなったとは考えにくく、墓碑の日付(12月13日)が間違いなのか、古記録に残る日付(12月12日)が違っているのか、私一人の調査では、これ以上分かりませんでした。また、この墓碑まわりには他にもいくつか墓のような自然石がありますが、峯釆女・弾正の兄弟墓碑のように分かりやすくありません。
あと、もう一人の峯将監について、先の新撰士系録には、概要「郡村に住んでいた。三城の戦では兄とともに戦功(戦争で立てたてがら)あり」程度に簡単に書いてあります。それ以外の史料については、不勉強のため詳細分かりませんでした。以上、この項目では、主に峯釆女・弾正・将監のことについて書いてきました。
この項目の冒頭に書いた通り、新撰士系録の士系録巻之 二十(士系録20巻目)によれば峯釆女・弾正・将監の父親が、峯阿乗だったと言うことです。このページ全体は郷土史記述ですから淡々と事実関係を書けば通常これにて、この項目は終わりです。しかし、蛇足的ではありますが、いくら戦国の世とはいえ、峯釆女・弾正・将監の父親は、大村純忠が宣教師に許可したことによって発生した他宗教の弾圧事件(領内全ての神社仏閣の焼打ち、破壊、略奪など)の時に、自ら信じる仏教を守ろうと嬉野へ逃れる途中にキリシタンから殺害され便所に死体が捨てられた僧侶・峯阿乗だったのです。
大村純忠が直接、阿乗殺しをキリシタンに命じた訳ではありませんが、宣教師に許可した内容そのものが殺害要因につながったことは事実経過からして否定できません。そして、いくら武士とはいえ、(もうキリシタンに改宗していたかもしれませんが)その息子達が、父親がキリシタンに殺害されて3年後、今度は大村領や領主(キリシタン大名の)大村純忠を守るため3兄弟の内、2名も戦死したのでした。これ以外にも、この親族について興味深い事柄もあるのですが、いずれ別途書きたいと思っています。
4)記念碑の評価について
私は、この種の記念碑用石材を分析する能力とかは、素人なので残念ながら持っていません。しかし、何十個と言う石碑や石仏などの調査や拓本作業をする中で、石材に関して専門知識はなくても手触りや見た感覚などで、おおよその優劣くらいは分かるようになりました。今回も、その範囲内で阿乗の碑の石材や碑文の特徴点を書いていこうと思っています。まず、下記の箇条書きを参照願います。
|
寿古町、大日堂と周辺の田んぼ(写真中央やや左下側、木々のある所が大日堂。中央より奥へ黒丸町、大村湾、長崎空港、最奥側に西彼杵半島も見える)
|
(1)自然石ながら一部分を除き全体、表面が滑らかで、まるで石鹸肌みたいな石である。 (はたして、大村で産出された石材だろうか。そこまでは分からなかった)
(2)碑文全体は、非常に達筆で見やすく綺麗な文字で、書道のお手本のような漢字である。
(3)表面の阿乗之碑は、大きな文字で、線の幅も広く、彫りも深く、切れ味鋭い碑文である。
(4)裏面は多くの文字数ながら左右上下、文字間隔含めてバランス良く配置されていて、見栄えの良い碑文である。
(5)峯家関係の子孫だけでなく建立作業をされた人の名前まであるのに揮毫(きごう)した人の名前がない。そのため推測するしかないが、「福重村石工 吉江幸太郎」氏が、文字まで書いて彫られたのであろうか。もしも、この想像が正しければ、当時、書も彫りも“凄腕の石工”だったに違いない。
(6)裏面碑文の中には江戸時代に編纂された(大村藩)新撰士系録と同文が数箇所あり、この古記録から内容を引用されたと思われる。
(7)天正2年(1574)に峯阿乗がキリシタンによって殺害されてから、この記念碑建立年=大正七(1918)年まで344年間、それからさらには現在(2012年で438年間)も祀られていることも含めて、峯(峰)一族の祖先からの絆の強さを感じる記念碑でもある。
以上のことから自然石ながら石材や碑文の完成度含めて、この記念碑は、なかなか素晴らしいものと思えます。現代人は、今の技術の方が昔に比べ全て高いものだと思いがちです。しかし、機械らしいものがなかった、手作業の時代でも、当時の卓越した技あるいは建立者の熱意の伝わる記念碑や石碑を見ると、そのような現代人尺度を完全に先人達は、達観しておられるような感じもしました。
5)長崎県内の独特なキリシタン史観を公平に変えて欲しい
この項目について、先に「お殿様の偽装(もくじ)」シリーズの「誤解を招くような表現、その3、キリシタン時代に起こったこと」に、ほとんど書いています。重複した内容を書きますが、ご了承願います。私は、豊臣秀吉時代より発生した宣教師、キリシタン信徒や関係者に対して例えば26聖人(殉教)とか大村での帯取殉教、郡崩れなどで呵責な迫害、弾圧、獄死、刑死と言う大弾圧事件は歴史の通りであり、表現上の迫害・殉教・顕彰・聖人などの表現をされても何も言うことはありません。
ただ、大村純忠時代に外国人宣教師から度重ねる他宗教への弾圧要請を当初何回か拒否していた純忠がついに許可しました。そして、その結果、天正二(1574)年に起こったのが、キリシタンによる(現在の大村市内と限定しただけでも合計41の)神社仏閣の焼打ち、破壊、略奪、キリスト教へ改宗しない領民の大村領からの追放、僧侶・峯阿乗の殺害、大村家の墓をあばき遺骨を川に流したことなどでした。当時の寺院は、今の市役所や史料館みたいな役割もありましたので建物だけでなく古代からの貴重な古記録や文化財さらには木製の仏像なども、ほぼ全部燃やされてしまいました。
私の地元・大村市福重地区には、古くからあった寺院にちなんで現在もシュシュの所在地として有名な弥勒寺町(みろくじまち)、シャクナゲ公園がある立福寺町(りふくじまち)があります。ここには各々、寺院として弥勒寺、龍福寺が存在していましたが、先のキリシタンによる焼打ち、破壊後、再建されることはなく地名(現在の町名)だけが残ったのです。そのほかにも福重地区には、元あった寺院に関係する字(あざ)もあります。
また、江戸時代の古記録(大村)郷村記には、神社仏閣や名所旧跡を紹介する多くの項目に詳細にキリシタンによる弾圧行為が書いてあります。これらを取り上げるだけでも本が出版できるくらいあります。しかし、これらは大村市から発行されている『大村市の文化財』、『大村市立史料館・企画展(パンフレット)歴史の缶づめ』(大村市発行の大日堂(峯阿乗関係)書籍類紹介を参照)などに紹介されているだけで、長崎県内の歴史や郷土史関係の書籍類には、全く記述されていないようです。
つまり、長崎県内の教育関係、マスコミ、出版関係では、キリシタンの歴史で「光」と「影」との表現をすれば、全て「光」部分=「迫害、殉教、弾圧にあったキリシタン。聖人、顕彰のキリシタンばかり」の記述です。逆に、キリシタンのおこなった「影」部分=大村純忠時代にあった他宗教への弾圧(神社仏閣の焼打ち、破壊、略奪、僧侶・峯阿乗の殺害、大村家の墓をあばき遺骨を川に流した、さらに貴重な文化財や仏像など焼却した行為)(念のため島原でも似たような事件があった)は、いっさい記述も報道もないのです。これらは、長崎県内の独特なキリシタン史観に基づくものと考えられます。
歴史上あったことを書かないのも問題では
この長崎県内の独特なキリシタン史観とは、簡単に言えば当時のキリシタンについて県内の教育関係やマスコミは、全て「光」の面だけ、つまり「迫害、殉教、弾圧にあったキリシタン。聖人、顕彰のキリシタンばかり」と言う描き方で、その真逆のことは、いっさい述べないし、書かないことです。「歴史上なかったことをあったように書くこと」が問題と言うなら、同じように「歴史上あったことを何も書かないこと」も問題ではないでしょうか。
|
寿古町、大日堂の西側に広がる田畑(大日堂は写っていないが、写真中央左端側方向へ50m位の所ある。奥側に大村湾側や西彼杵半島が見える)
|
規模の大小は別としても、ほぼ同じような時期に南アメリカ諸国で起こった(有名なインカ帝国末期時代)略奪、惨殺、地元の宗教施設の破壊、宗教の改宗さらには文化や言語まで変えられたことなどがありましたが、それに似たようなことが、この日本の長崎県内でも起こっていたのです。
現在、キリシタン史を教えておられる先生、郷土史の書籍類あるいはマスコミなどは、キリシタンの「光」だけを人に伝えるだけでいいのでしょうか。「影」部分は、知らぬふりをして黙殺、沈黙していれば、その役目を果たしておられるのでしょうか。それは、結果としてローマ法王ヨハネ・パウロ2世は2000年3月12日、バチカンのサンピエトロ広場で ミサを行い過去2000年間に キリスト教会が犯した過ちを認め謝罪されたことに対しても違う行為のようにも映ります。
また、大村の古老の中には今でも(大村弁で)「あん人たちは昔んキリシタンが全部、殉教や聖人のごと言わす。そん前に何んばやったか一言もいわっさんとバイ」と言われています。この言葉は、「現在のキリスト教の方は、昔のキリシタン時代のことを全部、迫害、殉教、聖人のように言っておられる。(そして、そのように顕彰の碑などにも書いておられる)しかし、その前の(大村純忠時代に起こった、キリシタンによる神社仏閣の焼き討ち、破壊、略奪、僧侶の殺害など)は、何一つ言われない(当然記念碑などに書いてもおられない)」と同意語なのです。
この種の言葉は、長崎県内の独特なキリシタン史観が変わらない限り、これからもずっと地域で残って引き継がれていく言葉と思われます。あと、私は学生時代に、キリスト教の精神みたいなこととして「全ての隣人を愛しなさい」などの言葉を習った覚えがあります。私は、この言葉の意味は「まわりにいる相手の存在を認めあって生きなさい」と言うことではないかと理解していましたが、この解釈は違うのでしょうか。
今回のキリシタンに殺害された峯阿乗の墓碑である大日堂の経過や存在などについて碑文が彫られた峯阿乗の碑を見ても当時の一部のことが分かります。さらにキリシタンによる一連の他宗教弾圧事件の詳細は、(大村)郷村記、(大村藩)新撰士系録などの古記録に全て書いてあります。また、その古記録に記述されている数多い場所も、ほぼ特定も可能です。この事件は、400年以上も前に起こったことですから、今では誰も複雑な感情面は持っておられないと思っています。
戦国時代から江戸時代にかけて多くのキリシタンが、為政者によって弾圧され殉教されたのも事実です。逆に、その前にキリシタンによって僧侶の峯阿乗などを殺害したのも歴史上の事実です。国語辞典の大辞泉には、「殉教=自らの信仰のために生命をささげること」と書いてあります。キリシタンは、その殉教の名に値して、仏教徒はダメと書いてはありません。現在の長崎県内には、もしも「長崎県内の独特なキリシタン史観で使用されている国語辞典」が存在するとすれば、「殉教の意味を使い分けよ!」とでも書いてあるのでしょうか。私は、どちらも今思えば尊いことではないかなあと思っています。
また、別の角度からですが、日本国憲法には、「政教分離」が明記されています。これは長い歴史の教訓から宗教のいかんに関わらず、為政者(権力者)と宗教が一体となったら最悪何を起こしたか、大昔から何回となく痛恨の極みを経験した国として、現在の憲法に規定化されたものと思います。このページを閲覧して頂いた長崎県内の教育関係、マスコミ、出版関係の皆様、どうか長崎県内の独特なキリシタン史観ではなく、キリシタンの「光」と「影」は、どちらも出来るだけ公平に述べたり、書いたりして欲しいと願っています。
まとめ
今回の峯阿乗の碑について、今まで「大村の石碑や碑文(目次ページ)」掲載中の他の記念碑よりも、内容的には別角度からも書いてきました。重ねて申し上げれば、この記念碑自体は、大正時代の子孫が戦国時代の先祖を偲んで顕彰した碑には変わりありません。しかし、私は、様々な記念碑や石碑類を調べてみて改めて思うことは、直接表現されているか、されていないかは別としても、いくつか先人からのメッセージがあるような気もしています。それを、どう読んで、どう解釈するかは人それぞれかもしれません。
|
阿乗の碑の裏面(拓本作業中)
|
例えば(私のもう一つのホームページ『上野ログハウス』があり、そこに「聞いた言葉シリーズ(目次)」に)「郷土史の再評価(地方史の見直し) 」ページを掲載中です。このページには、2011年3月11日に発生した東日本大震災(大津波)や福島原発事故に関連して、全国にある津波記念碑などを例に挙げ、先人からの教訓さらには郷土史の再評価の動きも書いています。概要申し上げれば、これらの記念碑は、単に当時のことが碑文に書いてあるだけでなく、現在でも防災上あるいは様々な各種建設時などに役に立つ史料ではないかなどと書いています。
大正時代に建立された峯阿乗の碑は、碑文の行間には何があるのでしょうか。それは主に戦国時代の一部の再現と、どんな時代にでも為政者は政教分離でなければ、また、この碑文にあるような最悪悲しいこと、あるいはそこまでは発生しなくても何か複雑な問題が起こりうることを示唆しているのではないでしょうか。つまり、「今後、どんな世の中になっても、二度と宗教上のことで峯阿乗みたいな犠牲者は出さないで欲しい。(現在生きている)後輩諸君よ、そのようなことをずっと伝えていって欲しい」と訴えておられるような気もします。
人や人の組織は、過去いつの時代でも、良いことなどの「光」部分ばかりではなく、何か不足や問題などの「影」部分もあったと思われます。それは、人間ですから当然のことでしょう。そして、その後になって「光」も「影」両方を語れる方は、真に心優しく強い方で多くの方からも尊敬されるかもしれません。
ただ、「影」部分は速く忘れ、出来れば触れずにおいて、「光」部分だけを話しておきたいと思われる方が多いのかもしれません。しかし、この話しは個人の範囲内であって、為政者、公的機関あるいは多くの方に影響ある立場の方は、歴史に残っている「光」も「影」も見て欲しいし、語って欲しいと私は思います。そうでなければ片一方だけしか述べられないと言うことは、結果として全体で不足があるのではないでしょうか。
記念碑や石碑関係に興味ある方、この碑をご覧になると、たぶん「大正時代に、こんな達筆で、まるで習字の手本みたいな碑文が彫れたものだなあ」と言う感想があるかもしれません。近くを通る機会あれば、少し時間を割いてもらって直接ご覧になられるのは、どうでしょうか。また、この周辺の広い田畑からは、郡岳(こおりだけ、826m)、武留路山(むるろさん、341m)などの雄大な眺めも楽しめる所です。
このまとめで、このページは終りになりますが、また、何か新たな史料(資料)などが出てくれば、今後も追加・改訂を検討します。最後になりましたが、閲覧して頂いて、ありがとうございました。(ページ完了)
・関係ページ:(キリシタンから殺害された僧侶・峯阿乗の墓)大日堂
・関係ページ:「お殿様の偽装」シリーズ「誤解を招くような表現その3、キリシタン時代に起こったこと」
(初回掲載日:2012年2月25日、第二次掲載日:2月26日、第三次掲載日:2月28日、第四次掲載日:3月3日、第五次掲載日:3月4日、第六次掲載日:3月5日、第七次掲載日:3月6日、第八次掲載日:3月7日、第九次掲載日:3月8日、第十次掲載日:3月9日、第十一次掲載日:3月10日、第十二次掲載日:3月13日、第十三次掲載日:3月14日、第十四次掲載日:2012年3月17日)
|