大日堂の紹介
この項目では、大日堂について大村市から発行されている書籍2冊を紹介します。後の項目で(大村)郷村記や、その現代語訳も掲載予定ですが、私が地元で聞いた伝承その他も、その項目で少し補足を書きたいと思っています。
(1)大村市立史料館・企画展(パンフレット)歴史の缶づめより
このパンフレットは、『大村市立史料館・企画展 歴史の缶づめ』(大村市立史料館2009年7月26日〜9月30日までの展示)に併せて発行されたいたものです。この展示もパンフレット内容も大村の約1万年(縄文時代〜近代まで)を実物の遺物、写真、図、解説文章など分かりやすいものでした。このパンフレット8〜9ページに<〜(戦国時代)〜 安土・桃山時代 江戸時代>のタイトルで見開きがあり、その中央下部に今回の大日堂について(上側と同じような)写真付きで、下記各「」内の文章で紹介されています。
・(写真紹介文)「阿乗法師が埋められた寿古町 大日堂(だいにいちどう)」
・(イラストが語る説明文)「阿乗法師は1574年の寺社破壊の時に大村から逃げ遅れ、キリシタンに殺害されたんだ」
・「証言3(ミゲル・ヴァス) 寺社を破壊したのち、古くて大きなお寺は壊して礼拝堂へ変えたものも多い」
・「キリシタンによる寺社破壊 1574年、宣教師の助言から、純忠とキリシタンたちは、大村領内の13の神社と28のお寺を一斉に破壊しました。このため大村の仏教文化はとぎれることになります。」
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寿古町、大日堂と周辺の田んぼ(写真中央やや左下側、木々のある所が大日堂。中央より奥へ黒丸町、大村湾、長崎空港、最奥側に西彼杵半島も見える)
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上記の大日堂やキリシタンの寺社破壊の説明は、簡潔な文章ながら分かりやすい内容ですので、特に補足などは書かず、次の項目の(2)大村市の文化財をご紹介します。
(2)大村市の文化財より
この『大村市の文化財』(改訂版)と言う本は、大村市教育委員会から2004 (平成16)年3月26日に発行されたものです。この本の71ページに今回の大日堂が紹介されていて、その内容は下記の<>内です。
< 寿古町西部の水田地帯の道沿いにあり、昔は堂がありましたが、今は石祠に高さ33cmの大日如来の石仏が祭ってあります。天正2年(1574)キリシタンが大村領内の寺や神社を壊した時、多良岳の金泉寺も被害を受けたので、住職の阿春法印は諌早に追いはらわれました。当時金泉寺から分かれて、昊天社の別当であった極楽寺の住職阿金法印も追われたので、山田泉織坊という脇坊の住職であった弟子の阿乗に「私たちは明け方領内を退いて嬉野に行くから、そなたはここを片付けて来なさい」と命じました。
阿金法印は、昊天宮神体・極楽寺本尊・八幡宮などの神体を背負って、黒丸村の海辺の柳津から船に乗り、危険を避けてようやく嬉野まで逃げて隠れました。 阿乗は師のあとを追って立ち去ろうとしましたが、キリシタンに発見されて殺され、死骸を便所に埋められました。その後、阿乗の霊魂が大村家に崇ったといわれます。
そこで、正保4年(1647)5月、大村家では3代藩主純信の時、大村彦右衛門純勝が、阿乗の死体を埋めた所に大日堂を建てました。そして、寛盛法師に、多羅山宝円寺で大村家末代まで、お盆の供養をするように命じました。それが明治になるまで続けられました。 >
上記の紹介文章の多くは、次の項目に書く予定の(大村)郷村記からの引用と思われます。あと、多良岳の金泉寺(この前身は郡岳にあった太郎岳大権現のことです)は、当時勢力のあった寺院でした。また、上記(中段の)文章中にある「・・・黒丸村の柳津から船に乗り・・・」と、なぜ書いてあるかと言いますと、私の推測ながら当時、まだまだ後世に整備された陸路の長崎街道沿いよりも、ここから舟に乗り、彼杵の港さらに嬉野方面へ向かうのが、行きやすかったのかもしれません。(黒丸町の位置関係は上記右側写真の中央やや奥側に当たる)
あと、上記に大日堂の供養は、「多羅山宝円寺で・・・(中略)・・・明治になるまで続けられました」と書いてあり、いかにも供養自体も終わったみたいにも解釈されやすいです。しかし、これは正しくは「宝円寺は明治維新頃に廃寺になったので宝円寺に来てもらうことは終わった」と言うだけのことです。実は、その後も大日堂の供養そのものは続いており、現在でも阿乗に関係している方々や地元の寿古町で継続して祀っておられることも補足しておきます。
大村郷村記の内容
大村郷村記(藤野保編)には、今回の大日堂のことが、第二巻、(福重村の項)133〜134ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。あと、江戸時代に編纂された大村郷村記のキリスト教や信徒に対する表現は現代からすれば強い批判的な書き方がしてありますが、史料(原文)を出来るだけ生かすために、そのままにしていますので、この点も併せてご了承願います。
なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。下記の太文字が、大村郷村記からの引用です。
一 大日堂
福重村下河原よなもちと云処にあり以前堂あり 今は祠の内に大日如来の石像を安置す
一 天正二甲戌年耶蘇蜂起して寺社を破却す時に太良岳焼亡 住持阿春法印諌早に退き後住阿金亦追る因て阿金山田権現に神躰を奉取阿乗に謂日 (阿乗其比山田泉織坊と云脇坊の住持なり) 我等事は今晩領内を立退き嬉野に赴くへし 其方は此所を仕舞跡より来れと云 付郡昊天宮極楽寺本尊昆沙門天黒丸村の八幡宮其外諸社の神躰を奉負 同村の海辺柳津より乗船し危難を避て遂に嬉野に隠遁す
(嬉野の大定寺と云古地に草庵を営み諸神を安置し朝暮の勤行怠らす後三十二年を経て慶長十乙巳年九月七日此所 に寂す) 阿乗は師の跡を追ひ立退んとせしに所々の堅め厳しけれは先暫く忍はんと福重村一瀬の処にありしを悪徒等聞付討取りぬ時に邪宗門寺より死骸を 雪隠に堀埋む因て阿乗大村家に崇りをなすと云 故に正保四丁亥年五月大村彦右衛門純勝をして阿乗の死骸を埋めし処に大日堂建立あり 且寛盛法印に命し多羅山に於て大村家末代盆の施餓鬼を行ふ 則今に多羅山盆の施餓鬼あるは此故なり
・現代語訳
上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の「」の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。<>内は大村郷村記で通常1行のところが2行になって書いてある文章のところです。 ( )内は上野の解釈上の補足や国語辞典の大辞泉からです。
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寿古町、大日堂の西側に広がる田畑(大日堂は写っていないが、写真中央左端側方向へ50m位の所ある。奥側に大村湾側や西彼杵半島が見える)
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「 大日堂 福重村・下河原のよなもちと言う所にある。今は(石)祠の中に大日如来の石像を安置してある。
天正2(1574)甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)年に耶蘇(キリシタン)が蜂起(=ハチが巣から一斉に飛びたつように大勢が一時に暴動・反乱などの行動を起こすこと)して神社仏閣を破壊した時に多良岳(多良大権現、多良山金泉寺など)を焼き払った。住職の阿春法印は諫早に立退いた。後の住職の阿金もまた追われたことによって阿金は山田権現の御神体を背負い(弟子で僧侶の)阿乗に言いました。
<阿乗とはその頃、山田泉織坊と言う脇坊の住職だった>「我ら(自分達)は今晩、(大村)領内を立ち退いて(逃げて)嬉野へ行く。そのた(あなた)は、ここを仕舞って(整理して)後で来なさい」と言った。郡村周辺にあった昊天宮(注A)、極楽寺(注A)の本尊や昆沙門天、(さらには)黒丸村の八幡宮(注A)その他の神社の御神体を背負って、同村(黒丸村)の海岸の柳津より舟に乗りこみ(キリシタンよりの弾圧攻撃の)危機を避けて、ついに嬉野へ逃げて隠れた。
<嬉野の大定寺(注A)と言う昔からの縁故のある土地で草庵(藁・茅などで屋根をふいた粗末で小さい家)に住んで諸神(この場合、大村領から持って来た仏像や御神体のこと)安置し、朝夕の勤行(ごんぎょう、読経することなど)を32年間続け、慶長10(1605)丙午(ひのえうま、へいご)年9月7日に亡くなった> 阿乗は師の後を追い立ち退こうとしたが、至る所で(キリシタンによる)警戒が強く、しばらく隠れようとして福重村の一瀬の所にいたが、悪党(キリシタン信徒)などにより発見、殺害され邪宗門寺(キリシタン信徒あるいは教会関係者)によって死体を便所に捨てられた。そのため、阿乗は大村家に祟った(神仏・亡霊などでたたられること)と言う。
そのことから、正保4(1647)年5月大村彦右衛門純勝をして阿乗の死体を埋めた所に大日堂を建立した。そして、寛盛法印(法師)に命じて多羅山宝円寺で大村家末代まで、お盆の供養を行うようになった。それが今でも多羅山(宝円寺)によって盆の供養が続けられている要因である。 」
<大村郷村記と現代語訳の注釈>
・(注A):極楽寺は現在その寺院跡しかないが、昊天宮、八幡宮は現在でも大村市竹松地区に実在している神社である。その他の神社仏閣名も当時あったものである。嬉野の大定寺は現在も嬉野市嬉野町に実在する同名の仏教寺院と思われる。
・大村郷村記にある大村家や僧侶の名前は、先の項目の大村市発行の書籍類を参考にすれば全て実在が確認されていた人達と思われる。
・大村郷村記にある山の名前や地名で例えば多良岳、黒丸村(現在の黒丸町)、福重村(現在の福重地区)など全て当時から現在でも使われている名称である。
補足(大日堂周辺の墓碑や石仏について)
上記の項目までに大日堂の紹介は、書きました。この補足の項目では、今まで触れていない大日堂の石祠周辺のことや地元にある伝承話しを書きます。石祠ある境内周辺と、それらの横を走る道路の間に墓碑(石塔)や石仏が4基あります。これらは元々、周辺の田畑に点在していました。トラクターなどの導入により基盤整備(圃場整備)の関係から田畑にあったら農作業がしにくくなるので現在地に運ばれてきたものです。
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寿古町、大日堂の東側にある墓碑や石仏(生垣前、中央1基、左側に2基。右側に1基ある。大日堂は生垣の裏側右方向にある。道路は写真の手前側)
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田畑に墓碑があった頃は、「戦で死んだ野武士の墓」か、「阿乗みたいにキリシタンから殺害された他の人達の墓ではないか」との地元伝承があったそうです。ただ、この周辺の田畑は、(上記右側の2枚の写真参照)大村湾近くの大昔なら湿地帯みたいに低い土地だった所で戦国時代含めて長年土地改良されてきた歴史があります。
さらに言えば、この近くで戦があった記録は全くない所ですから、「野武士の墓」とは考えにくいものです。実際、戦国時代の福重で『鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)』があって、そこで亡くなった武士の「今富の侍の墓」とは、直線でも3kmも離れた所です。
また、後世で発達する長崎街道や寿古町(明治時代以前は須古郷)の町墓とも、相当距離のある所です。地元の方が亡くなれば、このような田畑よりも町墓に埋葬するのが当時から当然のことでした。つまり、この大日堂周辺にある墓碑や石仏4基は、旅人とか町民(郷民)の墓とも言えないものです。
そのようなことから、地元では「阿乗みたいにキリシタンから殺害された他の人達の墓ではないか」と言う伝承もありうることです。しかし、阿乗みたいに僧侶ではなかったため(大村)郷村記に氏名が記述されていないのかもしれません。(大村郷村記は大村藩の編纂ですから、他の由緒書きでも侍か僧侶の場合は記録が多く、一般庶民は少ない傾向がある)
いずれにしても、この墓碑や石仏も阿乗の大日堂を祀られる時などに阿乗に関係している方々や地元の人達によって現在も供養されているとのことでした。
関係ページ: 「お殿様の偽装」シリーズの「誤解を招くような表現、その3、キリシタン時代に起こったこと」
(初回掲載日:2012年1月19日、第2次掲載日:2012年1月21日、第3次掲載日:2012年1月22日、第4次掲載日:2012年1月24日、第5次掲載日:2012年1月25日、第6次掲載日:2012年1月28日) |