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福重の名所旧跡や地形

(福重小学校)重井田分教場跡((大村市重井田町)
重井田分教場跡(しげいだぶんきょうじょうあと) 場所:長崎県大村市 重井田町
 重井田町(旧・重井田郷)には、かつて福重小学校の重井田分教場がありました。昔、重井田から当時は皆同郷(現在の皆同町)にあった福重小学校の本校に通学するには、道路事情が悪かったため「道路が整備されるまで」との期間限定で分教場が一時期置かれました。

 
現在、分教場跡は私有地(宅地)になっていますが、福重小学校100周年記念事業として、1973(昭和48)年2月19日に建立された「福重小学校・重井田分教場跡」の記念碑があります。

(左側と右下側1番目写真は、2004年2月11日撮影時のもの。現在、宅地に変わっている。中央は重井田分教場跡の記念碑である)

(このページは、一部、記念碑の碑文と『福重のあゆみ・小学生版』から引用、参照して書いています)


  福重小学校は、1872(明治5)年の開校(創立)で、(大村市内で最初の公立の小学校です。また、長崎県内でも初期の小学校と思われます)つまり、大村市内で最古の公立小学校ですから、一番長い歴史があり、そのことも含め小学校(本校)の3度の移転をはじめ様々な大きな転機がありました。(詳細は、「福重小学校の歴史」ページから参照願います)

重井田分教場跡の記念碑<この碑は1973(昭和48)年2月19日、福重小学校100周年記念事業として建立された>

重井田分教場完成の記念写真<1928(昭和4)年頃の撮影であろう。上部文字は「重井田分校祝奉記念撮影」と書いてある。この時、重井田浮立が踊られた>

 上記のリンク先からもお分かりの通り、様々な変遷の中で、昭和時代の初期に、重井田分教場も一時期ありました。この重井田分教場は、記念碑の碑文によりますと、1928(昭和4)年3月から1937(昭和12)年4月の間、おかれました。場所は、(現在の)重井田町で「月光の里」や「北野美術館」へ行く道の手前側、市道近くです。

 なぜ、この地に分教場が置かれたかと言いますと、昔は道路事情が悪く、幼い小学生低学年の足では、当時、本校のあった皆同郷(町)に通学するのは困難でした。そのため、「道路が整備されるまで」と言う限定付きで分教場が置かれたのでした。

 分教場完成の詳細は、記録がないので正確には不明です。しかし、1928(昭和4)年3月には、生徒が通学していますので、推測ながら、いくら遅くても、その何週間前には完成しておかないと諸準備はできなかったでしょうから、その年の1月〜2月頃だったのではないかと思われます。

 あと、校舎は、平屋造りで小さな広場、庭や池などもあったようです。(このことは、私が重井田分教場跡地周辺を2004年2月11日撮影した時、このページ掲載写真とは別角度写真も撮りました。それを見ると草ばかりですが、分教場があった当時の面影が、まだ少し残っていました)

 重井田分教場の先生は、一人で荒瀬郷(町)からの出勤でした。また、この分教場には、1〜3年生の重井田の子どもたちが通学しました。生徒数(児童数)は、5〜10人で、4年生からは、福重小学校の本校(当時は皆同郷)に通学していました。

重井田分教場落成当時の写真説明

 右下側写真は、重井田分教場落成祝いの記念写真です。(長年の経過から一部において痛みが激しい。特に左下の端側) この写真の中央奥側の平屋の建物が分教場の校舎です。

 校舎右下側に石垣が一部見えますが、この石垣は、このページ左上と右上側写真の奥に写っています石垣と同じと思われます。なお、校舎の周囲(左上側写真の記念碑の周囲)には、庭や小さな池もあったようです。

 この校舎落成記念の時には、記念写真でもお分かりの通り、重井田浮立が踊られています。(古写真原版では、重井田浮立の衣装、太鼓、鐘なども確認できます) また、この当時のことを覚えておられる方が、現在も「あの落成式に浮立の踊りを見たバイ」と言われています。

 この記念写真を見ますと良く分かるのですが、喜びが大きかったのか重井田の方が大勢(人数は幼児から大人まで約80名)写っておられます。たぶん、郷民(町民)総出の状態だったのかもしれません。なお、推測ながら、この記念写真を撮っておられる場所が、少し運動もできる広場だったと思われます。

重井田分教場での授業や運動
 この分教場での授業や運動の状況について、私は大村ケーブルテレビ、「2014年度設置の福重地区・史跡説明板」紹介番組の収録(2015年4月21日、放送日は同年5月6日、7日)の時に聞きました。この話をされたのは、重井田分教場最後<1937(昭和12)年4月に閉校>の在校生だった岩永さんです。

 その概要は、次からの「」内通りです。 「授業で教える先生は一人だった。児童は毎年10人位で、同じ教室、同じ時間に1・2・3年生全員いっぺんに教えてもらった。 (つまり、教科書か教材は各学年で違っていたと推測されるが、授業それ自体は同じ教室で同時だったということ) そして、学校の庭(広場)では体育もしていた」

「また、分校の運動会もあって、その時、1年生は近く(庭から数十メートル先にある)の杉の木(注)にタッチして戻る(往復50m位)。 2・3年生は、西側方向への小道を走り(分校から100m先位にあった)丸い大きな石にピタリと手でタッチして戻っていた(往復200m位)」 (注:右側の分教場落成写真の左側に高い木が写っているが、その下付近に1年生がタッチしていた杉の木が今もある)

 「分校は先生と一対一みたいな勉強だった。でも、本校に通い始めたら大勢(70名位)いたので、最初びっくりして、何がなにやら分からず困った。本当に分校は楽しかった。その跡が分かりにくくなっていたので、分教場跡記念碑を立ててもらって、嬉しかった」注:分教場跡記念碑の建立は1973(昭和48)年2月19日のことであった>

 以上のお話は、「分教場(学校)に通うのが毎日楽しかった。みんな仲良しだった」との雰囲気が伝わってきました。分校ゆえに当時、そう近代的な諸設備や諸道具類などはなかったとも思われますが、先の内容は学校の原点の情景を見る感じではないでしょうか。

福重小学校・重井田分教場跡の史跡説明坂
 なお、今年(2015年)3月に、重井田町内会・福重地区まちづくり活性化委員会により、下記点線内の史跡説明坂が設置されます。この説明板の詳細は、『福重小学校・重井田分教場跡』から、ご覧願います。
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<史跡説明坂の紹介文>(注:原文は縦書きで、右側2番目の古写真付き。原文は縦書きだが、ホームページ上、(青文字の)横書きに直している。また、見やすくするために改行、行間なども一部変えている)

福重小学校・重井田分教場跡
 昔は重井田郷(町)から当時の皆同郷(町)にあった福重小学校本校へ通学するのは、道路事情から、なかなか困難だった。

 そのため道路が整備されるまでと言う限定で、現在地に分教場が一九二八(昭和四)年から一九三七(昭和一二)年四月までおかれた。分教場は平屋造りで小さな広場、庭や池などもあった。

  右写真の文字は「重井田分校祝奉記念撮影」とあり、開校時に重井田浮立を踊った記念写真で喜びが大きかったのか重井田の方が大勢写っている。なお、先生は一人で、荒瀬郷(町)からの出勤だった。

 現在地にある重井田分教場跡地記念碑は、一九七三(昭和四八)年、福重小学校創立百周年に建立されたものである。

二〇一五年三月一日 重井田町内会・福重地区活性化委員会

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関係ページ:(大村の史跡説明板・案内板シリーズ)の福重小学校・重井田分教場跡』 、 「福重小学校の紹介(もくじページ)」の「福重小学校の歴史

(初回掲載日:2015年3月3日、第二次掲載日:2015年3月4日、第三次掲載日:2018年10月5日)



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