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福重の名所旧跡や地形

竈権現(かまどごんげん、寿古町)
竈権現(かまどごんげん) 場所:長崎県大村市 寿古町 (寿古公園横)

 場所について、下記の大村郷村記には、「長松鎮守(ながまつ ちんじゅ)」と記述されていますが、字(あざ)の永松(長松)ではなく、開田と好武の境付近にあります。竈権現は長年、寿古町だけでなく隣の皆同町の方も含めて祀っておられます。つまり、大村郷村記で言う「長松鎮守」は、字の「長松」の範囲内ではなく、もっと広い地域を指していると解釈され、この「地域周辺の守り神様」と言えます。あと、地蔵菩薩(お地蔵さん)もあります。

 この竈権現は、寿古公園と市道との間にあるので誰でも外観は、見学できます。なお、寿古町は過去、郡川の氾濫(水害)も何回かあった所ですが、不思議と、この竈権現は被害に一度もあわなかったそうです。
(左側写真は竈権現と、手前右側は地蔵菩薩)

竈権現(かまどごんげん)の歴史(大村郷村記の内容)
 大村郷村記(藤野保編)には、竈権現のことが、第二巻、114ページに記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記はご参考程度に、ご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。下記の太文字が、大村郷村記からの引用です。

(竈権現前の)地蔵

長松鎮守 一竈権現
神躰木立像本地三宝荒神 例祭九月十九日  妙宣寺勧請 氏子中祭之 
神殿 壱間ニ 九尺 瓦宇
拝殿 弐問半ニ 三間 萱宇
石鳥居 壱基

地蔵菩薩 石立像 例祭九月二日
右寛延二己巳年九月氏子中より建立

境内入七間横六間半

当社建立年号不知 寛永十九壬午年九月十九日遷宮導師深重山二世本立坊日隆此社先年より此処にありと云 寛文十一年長岡善左衛門咄に本城吉武は竈権現の御座所なり 于今釜の破あると云 叉天和二年の書記に神躰鍋の破 九月十九日廿日両日祭之と云 此欠釜今神殿の内にあり

現代語訳
 上記の大村郷村記を現代風に口語訳すると次の「」の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の素人訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。<>内は大村郷村記で通常1行のところが2行になって書いてある文章のところです。 ( )内は上野の解釈上の補足などです。<下記の(注)の項目は、国語辞典の大辞泉による>

 「 長松(郷)の鎮守の神である竈権現(かまどごんげん)
<御神体は木製の立像(仏像)だが本地(注1)=本来は三宝荒神(注2)である。例祭は(毎年の)9月19日で妙宣寺が執り行っている。>氏子が祭っていている。 神殿の大きさは(横幅は)約1.8m、(奥行きは)約2.7mである。拝殿は(横幅は)約4.5m、(奥行きは)約5mである。萱ぶき屋根である。石の鳥居が一基ある。

 地蔵菩薩 <石像で例祭は(毎年)9月2日である。> 右(地蔵の石像)は寛延(かんえん)2年(西暦1749年)己巳(つちのとみ、きし)の9月に氏子(うじこ)達によって建立されたものである。   (竈権現の)境内(けいだい)は奥行き約13m、横幅約12mである。

 当社(竈権現)の建立年号は分からない。寛永(かんえい)19年(西暦1642年)壬午(みずのえうま、じんご)年9月19日に遷宮(注3)され深重山(妙宣寺)(注4)第2代(住職の)日隆が、この坊(お堂)を建た年代より、この社(竈権現)は、この場所にあると言う。寛文11(西暦1671)年の長岡善左衛門の話しによると、吉武(好武、よしたけ)城は竈権現の御座所(注5)である。今ここには釜(鍋)の破れがあると言う。また、天和二年の書き留めには御神体は、(この)鍋の破れたものである。(毎年の)9月19日、20日の両日が、(この竈権現の)例祭日と言う。この欠けた釜(鍋)は現在、神殿の中にある。> 」

(注1)=本地とは、<1 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うために神の姿となって現れた垂迹(すいじゃく)身に対して、その本来の仏・菩薩。本地仏。 2 本来の姿。本体。>のことである。
(注2)=三宝荒神とは、<仏・法・僧の三宝を守護するという神。三面六臂(ろっぴ)で、怒りの形相を示す。不浄を忌み、火を好むというところから、近世以降、かまどの神として祭る。荒神。>のことである。

(注3)=遷宮とは、神社の神殿を改築・修理するとき、神体を移すこと。
(注4)=深重山妙宣寺は、慶長7年(1602年)、大村喜前(よしあき)により創建され大村で最も古い日蓮宗の仏教寺院である。現在地は福重町にある。
(注5)=御座所とは、貴人の居室。
(注6)=神仏習合とは、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)やその逆の反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで人々の間に広く浸透した。神仏混淆。
(注7)=神仏分離とは、神仏習合をやめ、神道と仏教との区別を明確にしようとする、明治初期における維新政府の宗教政策。神道国教化の方針から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動の激化を招いた。

地蔵の土台(拓本作業中)
(竈権現前の)地蔵

地蔵碑文の補足
  この項目は、結論から先に書けば、地蔵の建立年について、江戸時代に編纂された(大村)郷村記の記述内容が1年間違っています。この点について、補足として書いていきます。

 地蔵本体(蓮華座)の下側に長方形の土台があり、そこに碑文が彫ってあります。(右側の2枚写真で左側の拓本写真を参照)その碑文を横書きに直しますと、下記の太文字通りです。なお、パソコン変換できない文字は、同じ意味の文字に変えています。

  寛延三年  奉造立地蔵一体  九月上旬ニ
 

  これを現代語訳しますと、「一体の地蔵を建立し奉納する。寛延三庚午 (1750) 年九月上旬に建立した」となります。既に紹介しています(大村)郷村記には、建立年について「寛延二己巳年九月氏子中より建立」と、書いてあります。

 つまり、たった1年違いではあるのですが、建立年について(大村)郷村記内容が、碑文と違うのです。どちらが正しいのかと言いますと、当然、地蔵の土台石に彫られた建立年の方が正しいです。

  ここからは私の推測ですが、江戸時代に地蔵の建立年を書き写された役人(武士)が、碑文にある漢数字の「三」を「二」と見間違ったと思われます。たぶんに、この作業をした役人は、拓本作業などをすることなく、「二」と勘違いしているので、漢数字の後の干支まで間違って記述しています。

 正確な碑文は、先の太文字の通りで、建立年は「寛延三庚午(かのえうま、こうご) (1750) 年九月上旬」です。改めて書いておきますが、このような(大村)郷村記の記述間違いは、けっこうあります。(大村)郷村記内容を頭から信じ込むことの間違いを、この件でも良く教えている例と言えるでしょう。

補足とまとめ
  今回紹介しました竈権現は、上記の文章でもお分かり頂ける通り、神仏習合(注6)、神仏混淆、(通称で”神仏混合”)の神様です。現在は三宝荒神(注2)で、先の大村郷村記の項目でも書いていますが、江戸時代初期の頃より、深重山妙宣寺が例祭などを長年執り行ってきました。

竈権現で例祭

 現代人の感覚では、もしかしたら神様を祀るのに仏教寺院の妙宣寺(注4)に執り行ってもらうのは違和感を持たれる方もおられるかもしれませんが、むしろ、このような神仏習合(神仏混合)が明治維新頃までは普通で、その歴史も圧倒的に長いのです。

 また、三宝荒神 (注2)は、通称で親しみを込めて”荒神様”とも呼ばれ、かまど(台所)の神様として各家庭でも祀られている所も多いでしょう。この三宝荒神は、台所の神様で不浄を嫌い、清潔好きとのことから女性が多く参られる神様でもあります。

 竈権現の例祭は、2011年の場合10月9日に妙宣寺からお上人に来て頂き、この周辺の寿古町や皆同町の方々が開催されました。また、竈権現での例祭後、隣の郡川の土手で子ども相撲もおこなわれ盛んに応援や拍手が送られていました。(関係ホームページ:「2011年(寿古町にある)竈権現(かまど ごんげん)の例祭(概要報告)」ページを参照)

 なお、竈権現前に鳥居の銘板などがあります。この件について、私の推測ながら明治時代の初期におこなわれた神仏分離(注7)の時期に破壊された一部が、現存しているものと思われます。

(初回掲載日:2011年10月11日、第2次掲載日:2011年10月15日、第3次掲載日:2011年10月17日、第4次掲載日:2011年10月18日、第5次掲載日:2012年12月14日)



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