注1:本ページの記述内容は、大村市立西大村小学校、(前同)大村小学校の「学校沿革」、元・箕島の島民の方の証言、あるいは「大村史談」や「大村史話(下巻)」などを参照して書いた。
注2:このページ掲載写真は、旧・箕島に住んでおられた元・箕島の2名から提供を受けたものである。
注3:掲載写真は順不同で、上からの順番や写真整理番号などには、何の意味もない。
<用語解説>
複式学級とは、一つの学年以上の児童・生徒を一つの学級に編成した学級。(デジタル大辞泉より)
・関係ページ:「箕島」 「赤島」 「がろう島」 「そうけ島」 「箕島分校」 「2025年5月1日、箕島会、法界萬霊の慰霊祭(長崎空港、開港50周年の年)<概要報告>」 「2025年5月1日、長崎空港開港50周年記念セレモニー(概要報告)」
概要紹介
(この原稿は準備中。一番最後に掲載予定。しばらく、お待ち下さい)
校名、場所、状況などについて
この項目は、大村史談会発行の「大村史談・十二号 〜長崎空港となって消えていった島の物語〜」(執筆者:鈴田 健 氏)<1977(昭和52年3月31日)発行>の70〜78ページから写真の複写含めて引用・参照して書いている。なお、原文は縦書きながらホームページ掲載用に横書きに直し、さらに分かりやすくするために上野の方で太文字、改行、句読点、一部省略などもしている。もしも、引用されるならば必ず先の原本からして頂きたい。なお、箇条書きで、この学校の概要を書くと、次の通りである。
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箕島分校(1962年4月10日撮影と思われる)
「大村史談・十二号」の72ページから複写 |
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箕島の地図、(中央部の〇に「文」マークがあるのが)箕島分校
「大村史談・十二号」から複写 |
箕島分校の概要<注意:下記データの年月や数字は長崎空港建設工事前(1971(昭和46)年度までの状況)
箕島分校(箕島分校1年から6年まで全学年1学級)
名称:長崎県大村小学校箕島分校
所在地:長崎県大村市箕島郷359-2、360番地
創立:1905(明治38)年10月、西大村小学校箕島分教場設置(尋常科全学年を同級の一学級を置く(単級学校発足)
1960(昭和35)4月から本校は西大村小学校から大村小学校へ変った
児童数:先の「大村史談・十二号」77ページの表には「昭和36年度が19名」、「昭和46年度が6名」と書いてある。
概略史
箕島分校(分教場)の開校(創立)は、1905(明治38)年10月である。当時の本校は、西大村小学校であった。そして、全学年一緒の学級(複式学級)だった。 1960(昭和35)4月から本校は、大村小学校となった。その後、長崎空港建設工事前の1971年3月に箕島分校は廃校となった。
<上野の補足>
(このページ右側の「箕島の略図」を参照) 箕島分校のあった場所は、箕島の中央部<地図では〇に「文」マークがあるのが>箕島分校で、ずっと開校から廃校まで変わってないようだ。それなのに何故、本校は当初、西大村小学校で、その後、大村小学校に変わったのか、私の推測・想像ながら考えてみた。 1905年に開校した時は、箕島の行政は西大村であったろう。つまり、本校は西大村村立の西大村小学校であったので、その分校(分教場)として、箕島分校が開校し、続いたと思われる。
その後、行政について、西大村は大村町との合併で大村町となり、また1942年2月11日には大村市ともなった。また、直接の関係は無いが、戦後になり教育改革もあった。ただし、行政が大村市になっても同じ市内に先の本校も分校もあるので、大村市政になってから相当経った1960(昭和35)4月から何故、本校が変わったのかの詳細かつ正確な理由について、私は調べきれていない。
ここからは、上野の推測である。本土と箕島を往復する船の港は、大村港が多かったと推測される。また、その港からならば大村小学校や当時の大村中学校へも近い距離ではある。念のため、(箕島の中学生は大村中学校へ船で通学していた) さらに、入学式、卒業式、運動会などは、箕島分校の児童も本校の大村小学校の児童と一緒にしていたので、その距離や利便性との関係もあったのではないだろうか?
分校当時の状況
(この原稿は準備中です。しばらく、お待ち下さい)
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